公園には、春のやわらかな陽射しが降りそそいでいた。頭上で咲き誇る桜、道行く人々の笑顔、地面に転がる石ころまで、すべてが輝いて見えた。今後、ＹＵＩの曲を聴くたびに、この光景を思い出すのだろうと綾は確信した。
「井の頭公園じゃなくて、カラオケに行くべきだったかな？」
曲を聴き終えたあとで、賢治が言った。
「そうかもしれないですね」
と答えたが、心の中では否定していた。カラオケなんかより、ずっと幸せな時間を過ごすことができた。
あらためて公園内を散歩して、近くの喫茶店に入った。
「綾さんって、大学ではどんな勉強してるの？」
クリームソーダを飲みながら、賢治が訊いてきた。
「一応、賢治さんと同じ文学部です。今は、文学の歴史とか、現代文学の課題とか、そういう講義をいろいろ受けてます……」
顔をそらしながら答えた。講義がつまらなくてサボってばかりなんです、なんて、Ｔ大生の前では恥ずかしくて言えない。
「じゃあ、僕と似たようなこと勉強してるんだね」
「でも、賢治さんは、弁護士目指してるんですよね。どうして法学部に入らなかったんですか？」
「僕は、大学に入ったあとで弁護士を目指すことに決めたんだ。世の中には理不尽な目に遭って苦しんでいる人がたくさんいるから、その助けになりたいと思って」
賢治は真剣な顔つきで言った。将来の目標などなく、何となく日々を過ごしている綾にとって、彼の決意に満ちた表情はまぶしかった。
「じゃあ、司法試験を受けるんですか？」
「いや、その前に、法科大学院に入らないといけない」
そういう大学院が新しくできたというのは、過去にニュースで見た記憶があった。
「僕は大学では法律の講義を取れないから、独学で勉強してるんだ。進学費用も稼がないといけないからバイトもしないといけなくて、せっかくの春休みなのに全然休めなかった」
「すいません、そんなに忙しいのに誘っちゃって」
「とんでもない！ いい気分転換になったよ。桜は綺麗だったし、綾さんと一緒にＹＵＩの曲を聴けて、楽しかった」
それから夕方までお互いの話をして、ふたたび公園内を通って駅まで向かった。電車は逆方向だったので、改札をくぐったところで別れることになった。
「会う前は緊張したけど、綾さんがいい人でよかった」
そしてこう言った。「また会おう」
「はい！」
帰りの電車に揺られながら、ふたたびＹＵＩの『CHE.R.RY』を聴いた。
「恋しちゃったんだ たぶん気づいてないでしょう？」
恋しちゃったんだ、とＹＵＩの歌声に合わせてつぶやいた。
ちゃんと気づいてるけどね。
窓の外で咲く桜を見ながら、綾は思った。
二週間後の週末、真希子とファミレスに行った。
真希子と会うのは久しぶりだった。上京してすぐのころは、お互い心細くて毎日のように顔を合わせていた。真希子と同居している、双子の弟の真太郎と三人で会うことも多かった。
注文を終えると、さっそく綾は賢治との出会いを話した。
「そう簡単にいくかなあ？」
届いたナポリタンをフォークで巻きながら、真希子が疑念の声を上げた。
「水を差すようなことを言わないでよ」
「だって、相手はＴ大でしょ？ しかも背が高くて顔もよくて、性格も悪くないんだよね。綾なんかと釣り合うとは思えないけど」
「なんか、って何よ！」
「どうせダメになると思うよ。私もダメだったし」
「え？」
恋人ができた、と打ち明けてきたのは三カ月前のことだ。サークル活動で知り合った他の大学の学生とつきあうことになったらしい。mixiでも、デートした日のことを何度か書いていた。
「元彼も、Ｔ大ほどじゃないけど偏差値高い大学でしょ？ 最初のころは仲よかったのに、同じ大学の女とつきあうから、って言われて別れることになっちゃった」
「そうだったんだ……」
「最初は、『君みたいな女の子らしくてかわいい子が好きなんだ』とか言ってたくせに、別れるころには『そんなひどい口の利き方をする人だとは思わなかった。君を女の子とは認められない』だって。ひどくない？ 別れ際にビンタしてやったけど、どうせならチョークスリーパーでも決めればよかった」
「それはあなたの本性が露呈したというだけの話では……」
真希子は、親しい相手には口が悪くなるくせに、初対面の相手には人見知りをしてしまう。きっとその男性は、関係を深めるにつれて彼女の本来の姿を知り、驚いてしまったのだろう。
もし賢治とつきあうことができたとしても、真希子に会わせるのはやめておこう、とひそかに決めた。賢治の日記に、「粗暴な人、暴力的な人は男女問わず苦手」と書かれていたのだ。ふられた腹いせにプロレス技を食らわせようとする友達がいるなんて、絶対に知られてはいけない。
「結局、頭のいい奴らってのは、私たちみたいな偏差値の低い連中を人間として認めてないんだよ。差別してるんだ。賢治とかいう人だってきっと同じよ」
「決めつけがすぎるよ」
綾がたしなめるが、真希子の耳には入らない。他の志望校をすべて落ち、滑り止めの大学に入ったせいで、真希子は偏差値の高い大学の学生にコンプレックスを抱いていた。
「でも、綾は賢治って人とつきあいたいんでしょ？」
「うん、まあ。また会う約束もしたし」
翌週の土曜日、今度は上野で会うことになった。ＹＵＩのアルバムが発売されたから一緒に聴こう、ということになったのだ。もちろん綾は発売日に買い、iPodにも入れている。
「じゃあ、私が一肌脱いであげる」
真希子が胸をたたいて言った。「私、どうすれば、男性の心をつかみ続けられるのか考えたの。美容やファッションに気を使って女性としての魅力を高めるべきか、と最初は考えた。でも、私たちよりはるかに綺麗な人が東京にはあふれてる。お金もないし、努力には限界がある」
「それで？」
できれば余計なことはしないでほしいんだけど、と思いながら綾は訊いた。
「魅力をアピールするんじゃなくて、弱さを見せればいいの。あるいはピンチになって追いつめられた姿を見せる。男性はきっと、この人は俺が守らなければいけない、と使命感を覚えるはず。そうすれば、男性は簡単に女性を見捨てない」
「賢治さんは『俺』って言わないけどね」
「そんなことはどうでもいいの」
「言ってることはわかった。だけど、弱みを見せるって、狙ってやるのは難しくない？ ピンチになる、っていうのも、そんなに都合よくピンチになんてならないよ。だいたい、ピンチって具体的にどういう状況？」
「だから、私が一肌脱ぐって言ってるでしょう」
真希子が胸を張った。「ピンチがないなら作ればいい。私が協力してあげる。綾にはいろいろ借りがあるからね」
「借り？」
「いいから任せて。あなたの恋愛を成就させてあげる」
「うん、ありがとう……」
お礼こそ言ったものの、不安が込み上げてくるのを抑えることはできなかった。逆効果にならなければいいけど、と心配しながら、おいしそうにナポリタンを咀嚼する真希子を見つめた。
