「ドロップキックするような暴力的な女は好きになれない、ってことなんでしょうね。粗暴な人や暴力的な人は苦手、って日記に書いてましたから」
空になったグラスに目を落としながら、綾は言った。「でも、ひどいと思いませんか。彼を助けるためにやったことなのに、それを否定するなんて。それに、いくら自分の好みとは違ったとしても、その場でむりやりデートを切り上げるなんて信じられないですよ」
そして綾はため息をついた。「意味わかんない」
「綾ちゃん」
見上げると、みひろが頬を緩めて綾を見つめていた。「『意味わかんない』で終わらせないで、相手の行動の理由を考えようっていう趣旨で話してもらったんだから、簡単に投げ出さないで。賢治君が急に帰ると言ったのは、もっと深い理由があったのよ」
「深い理由って何ですか。教えてくださいよ」
綾が口を尖らせると、みひろは「そうねえ」と言いながら腕を組んだ。
右から声がしたのはそのときだった。
「ホーソン実験」
カウンターの隅で酒を飲んでいた初老の男性が、猫背の上体を綾に向けていた。
「あの、何ですか」
「ホーソン実験をモデルに考えれば答えが導き出せるかもしれません」
「あの、すいません。勝手に話に入ってこないでください。というか、ずっと盗み聞きしてたんですか」
「すいません、そんなつもりはなかったんですが、耳に入ってきたので、つい」
男性は縮こまり、何度も頭を下げた。
「綾ちゃん、聞いてみましょう」
みひろはなぜか男性の闖入を受け入れた。
「え? どうして?」
「もしかしたら、この人が答えを教えてくれるかもしれない」
「まさか!」
こんな怪しげな男にいったい何がわかるというのだろうか、と思っていると、そこで初めて男性のしている腕時計に目がいった。使い古したジャンパーの袖からはみ出していた腕時計は、綾の月給程度ではとうてい買えないレベルの高級な時計だった。
この人、何者?
「話してもいいですか」
男性の問いかけに、綾はうなずかざるを得なかった。
「ホーソン実験とは、百年近く前にアメリカの企業で行われた実験です。ホーソン工場というところで、生産性向上を実現するため、労働環境が作業効率にどれだけ影響を与えるかをたしかめる実験が行われました」
綾は目を見張った。急に男性の口調が理知的なものに変わったからだ。
「まず最初に、照明を明るくしたり暗くしたりして、部屋の明るさが作業効率に影響を与えるかどうか検証しました」
「実験するまでもないじゃないですか。明るくした方が効率がよくなるに決まってます」
「結果はそうならなかったのです。照明を明るくした場合に限らず、照明を暗くした場合の効率も、従来より上がったのです」
「暗くしたのに効率が上がるんですか? どうして?」
「想定していなかった結果を受けて、さらに実験は続けられました。今度は照明だけでなく、部屋の温度や湿度、労働日数、休憩の回数や時間など、労働条件を細かく変えながら実験を行い、労働環境がどれだけ仕事に影響を与えるのかを検証しました」
「どうなったんですか」
「最初は、労働条件を改善することで、作業効率は上がっていきました。その後、今度は労働条件を悪化させたのですが、作業効率は落ちませんでした。労働条件が悪くなったのに、仕事の成果は変わらなかったのです」
どうしてだろう、と綾は首をひねる。部屋が適温じゃなくなったり、休憩時間が少なくなったりすれば、作業効率に悪影響を及ぼすに決まってるのに。
「実験が行われるまで、照明の明るさや休憩時間など、物理的な作業条件が労働者の生産性に影響を与えると思われていました。しかし、この実験結果を受けて、労働者の生産性を高めるためには、物理的な変化以上に心理的な変化が重要であることがわかりました」
「心理的な変化?」
「実験中、実験者は従業員と面談を行い、物理的条件以外の要素では従業員の要望を聞きながら様々な変更を行っていたのです。たとえば、作業中に監督者を置くのをやめたり、作業中の雑談を許したりしました。そういった変更により、従業員は気分よく作業に取り組み、効率よく仕事ができるようになったのでしょう。そして何より、実験の参加者に選ばれた、という自覚が、労働者たちのモチベーションに大きな影響を与えました。会社が行った重要な実験のメンバーになったことで強い使命感を抱き、さらに一緒に参加する従業員との間に連帯感が生まれ、仕事への意欲が高まった結果、生産性が向上したと考えられています。この実験以降、企業は、労働条件を改善するだけではなく、従業員同士の人間関係を重視するようになりました。現代では当たり前の考え方ですが、そのきっかけは百年ほど前のこの実験にあったのです」
「なるほど。それで?」
「これは私の意見ですが、実験者は、従業員たちに実験を行っている事実を隠すべきでした。実験者としては、彼らにはふだんどおりに働いてもらいたかったはずです。しかし、実験だと告げたせいで、従業員の労働への意識が変わってしまった。結果的に、心理的な要素の重要性に気づけたからよかったものの、『物理的な労働環境の変化が作業効率に与える影響をたしかめる』という本来の意図を考えると、この実験には問題があったと私は思います」
男性が口を閉じた。
え、これで終わり?
「ちょっと待ってください。その実験の話、私とどんな関係があるんですか?」
「単に実験の結果を覚えるだけではもったいない。実験の経緯から学んだ教訓を、他の事例に応用させることで、新たな発見が得られるかもしれません」
「もっとはっきり言ってください」
「私が言いたいのは二つです。因果関係に矛盾を覚えるときは、原因が違うところにあるのではないかと考えるのが大切だということ。そして、実験を行っているのを当事者が自覚していることが、その結果を歪めてしまうケースがあること」
「いや、だからそれが何だっていうんですか」
綾は声を荒らげた。「もう、全然意味わかんないですよ」
「賢治さんがあなたを避けたのは、あなたの暴力的な一面を見たからではありません」
「え?」
「あなたたちが賢治さんの気を引くために策を弄したこと、それが彼には許せなかった」
「賢治さんにバレてたってことですか……? どうして……?」
「演技が下手だったからじゃない?」
みひろが身もふたもないことを言った。