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「それもあったのでしょうが、私が推測する理由は別のところにあります。真太郎さんがあなたに声をかけたときの誘い文句、覚えていますか?」
「ボートに乗ろうとか、美術館でモーツァルトの絵を見ようとか」
「それ傑作だよね。上野にモーツァルトの絵があるのなら私もぜひ見てみたい」
 みひろが笑った。
「あとは、大仏を見ようとか西郷さんの像を見ようとか言ってました」
「どうして動物園に誘わなかったのでしょう」
「ええと、それは行ったばかりだから?」
「どうして行ったばかりだとわかるんでしょう?」
「それは……」
「上野で女性をデートに誘うのであれば、当然動物園を候補に入れますよね。少なくとも、大仏や西郷像よりは先に動物園を挙げるのが自然です。ところが彼は動物園に行こうとは言わなかった。なぜか。彼はあなたたちがすでに動物園を訪れていたのを知っていたから。なぜ知っていたか。彼はあなたの行動をあらかじめ把握していたから。つまり、この二人はもともと知り合いであり、彼があなたに絡んでくるのは仕組まれたものだった。そう、賢治さんは考えたのではないでしょうか」
 男性の説明は、綾にとって腑に落ちるものだった。真太郎を池に落としたあと、綾たちは動物園の前まで逃げてきた。動物園にもう一度入ろうか、と綾が冗談で提案した直後、賢治の態度は急変した。綾の一言がきっかけで、賢治は真太郎の言動に違和感を覚えたのかもしれない。
「でも、私たちのやったことって、そんなにひどいことだったのかな」
 たしかに、綾は賢治を騙したことになる。だけど、悪意があってやったわけではない。途中でデートを切り上げるほど怒ることだとは、綾には思えなかった。
「賢治さんは、人の芝居に乗せられて心を操られることがどうしても許せなかったんです。なぜなら、過去にも同じような経験をしているから」
「賢治さんが?」
 男性は首を横に振った。
「賢治さんのお母さんがです」
 お母さん?
「ヒントはたくさんありました。お母さんは音楽に限らず流行の最先端を行っている、と賢治さんが皮肉を言っていたこと。賢治さんが大学に進学した少しあとに、お母さんとの関係がぎくしゃくしたこと。文学部に在籍しているにもかかわらず、理不尽な事態に陥って苦しい思いをしている人たちの助けになりたい、という理由で弁護士を志したこと。進学費用を稼ぐためにアルバイトを頑張っている、というのも家庭の金銭事情の変化を表しているのかもしれません」
「あの、どういうことですか……?」
「そして何より、賢治さんは大学に入ってから、一人称を『俺』から『僕』に変えたこと。何か気づくことはありませんか」
「俺から僕? え、何だろ。俺、僕、俺、俺……あっ!」
 男性が示唆するものに思い至り、綾は立ち上がりそうになった。
「賢治さんのお母さんは、オレオレ詐欺の被害に遭ったのではないでしょうか」
 オレオレ詐欺。その後、「振り込め詐欺」とか「母さん助けて詐欺」とか様々な名称がついたけど、結局詐欺が社会問題になった初期に名づけられた「オレオレ詐欺」という名称がいまだに世間には浸透している。
「賢治さんは二〇〇七年二月時点で大学三年生でした。だとすると、彼が大学に入学したのは、二〇〇四年の春。ちょうど、オレオレ詐欺が社会問題になった時期です。詐欺に遭ったと知った賢治さんは、お母さんを責めたのでしょう。どうして実の息子の声がわからなかったんだ、と」
 当時の詐欺の手法は、電話をかけた相手に「母さん、俺だよ」と言って自分の息子だと誤認させ、金が必要な理由を告げて指定の口座に振り込ませるというものだった。
「初めて会うとき、あなたからの誘いのメッセージにしばらく返信しなかったのも、mixiを開かなかったのではなく、誘いに応じるべきか迷っていたのかもしれません。もしかしたらこの人も自分を騙そうと企んでいるのかもしれない、と警戒して、会うべきかどうか考えていたのではないでしょうか」
 そういえば、初めて賢治と会ったとき、彼は、自分たちは本物の賢治や綾ではないかもしれない、と話していた。あの発言は、彼の不安の表れだったのか。
「演技をして相手の心を操る、という点で、詐欺の犯人とあなたたちの行いは賢治さんにとって同じ意味を持つものでした。もちろん、あなたに悪意がなかったのはわかっていたはずですが、日記に書いたとおり、どうしても彼には我慢できなかったのでしょう」
「そういうことだったんですね」
 本人がいないからたしかめようはないが、男性の説明で、賢治の言動のすべてが説明できる。
「ね、私の言ったとおりでしょ? 一見理解しがたい行為にも、ちゃんとした理由があるものだって」
 みひろの言葉に、うなずかざるを得なかった。賢治のことを思い出したことは何度かあったが、いつも賢治への憤りを覚えるだけで、彼がどんな気持ちでデートを切り上げたのか、考えたことは一度もなかった。意味わかんない、という言葉で切り捨てて、相手の立場を想像する姿勢に欠けていたことを痛感させられた。
「私、知らないうちに、賢治さんを傷つけていたんですね」
 綾が肩を落とすと、みひろは柔和な笑みを綾に向けた。
「でも、それと同じくらい、彼にとってはあなたの存在が励みにもなったはずよ。勉強とバイトで忙しいのに、綾ちゃんとはmixiでやりとりしたり、わざわざ会ったりしたってことは、綾ちゃんとの交流が彼の支えになっていたんじゃない? 綾ちゃんは無自覚のうちに賢治君を傷つけたけど、無自覚のうちに救ってもいたはず。必要以上に落ち込まなくてもいいと私は思う」
 綾を元気づけるように、言葉に力を込めた。
「どうしてるんだろうね、賢治君。立派な弁護士になっているといいけど」
 綾はためしにスマートフォンで賢治の名前を検索し、検索結果のトップに出てきた、弁護士の相談窓口検索サイトにアクセスした。賢治は現在都内の法律事務所で勤務しているらしく、プロフィール欄には「振り込め詐欺等、詐欺事件を多数扱った実績があります」とあった。
「賢治さん、夢がかなったんだ……」
 胸が熱くなった。
 法廷に立ち、弱い人を守るために懸命に声を張り上げる賢治の姿を脳裏に描いた。人の心の痛みがわかる、やさしくて優秀な弁護士として活躍しているに違いないと、綾は確信した。
 ただ、まだわからないことがあった。
「みひろさん、一つ訊きたいんですけど」
 綾は、カウンターの隅に目をやった。「この人、いったい何者なんですか?」
 男性は、すでに綾たちから体をそむけ、背中を丸めてグラスに口をつけていた。さっきの理路整然とした口調で語る知的な雰囲気と、一人で日本酒を飲むわびしい姿は、まるで別人だった。
 みひろは一言で答えた。
「ただの常連さんよ」

 

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