注文した水割りを、大谷おおたにあやは一気に飲み干した。
「みひろさん、もう一杯ください」
 カウンターを挟んで正面に立つオーナー兼ママのみひろに、空になったグラスを差し出す。二杯目が空になるのもあっという間だった。三杯目を待つ間、綾は頬杖を突き、店内に流れるクラシック音楽を聴きながら大きなため息をついた。
「どうしたの綾ちゃん? まるで『どうしたの綾ちゃん?』って訊いてほしそうな顔してるけど」
 グラスに氷を入れながら、みひろが尋ねてきた。
「遅いですよ! 声かけてくれるのずっと待ってたんですから!」
 と言って、綾はふたたびため息をつく。「最近仲よくなった男性とデートしてたんですけど、途中で喧嘩して帰ってきちゃったんです」
「あら、それは災難だったね」
「ほんとは渋谷でカウントダウンをするはずだったんですけど」
「へえ! カウントダウンのイベントやってるんだ」
「イベントはないみたいですけど、人がたくさん集まるはずだから行ってみようってことになったんです」
 綾は三度目のため息をついた。「どうしてこんなことになっちゃったんだろう。意味わかんない」
「意味わかんない」というフレーズを、つい最近、中学時代からの友人であるたから真希子まきこが口にしていたことを思い出す。綾が、二〇一九年四月三十日、つまり今日、平成最後の日に渋谷で元号が変わる瞬間を迎える、と告げたときに発したのだった。
「意味わかんない。たかが元号が変わるから何だっていうの? 革命が起きたわけでもないんだから、新しい時代が来るなんてただの錯覚よ。それどころか、人口は減る、高齢化は進む、景気はよくならない、消費税はまた上がる、いいことなんて何一つない。令和へのカウントダウンなんてのんきなことやってる場合じゃないよ。この子が大きくなったころ、この国はどうなってるんだろうね」
 真希子はベッドで眠る生後四カ月の三男に目をやった。
「そのカウントダウンを楽しみにしてる人の前で、よくこれだけ辛辣なことを言えるね。国の将来より、この口の悪い母親に育てられる子どもたちの将来が私は心配だよ」
 真希子は「うるさいなあ」と言って、
「でもさ、久しぶりのデートでテンションが上がるのはわかるけど、三十一歳にもなって渋谷でカウントダウンってどうなの。もう若者じゃないんだよ?」
 と続けた。
「相手の男性が行きたいって言うからしょうがないじゃない」
「相手に合わせるんだ。必死だねえ。でもどうせ、綾のことだから今回も失敗するんじゃない?」
「不吉なこと言わないで。私もそろそろ結婚したいし、この出会いは絶対成功させるよ!」
 と言いながら綾は拳を握った。その手は今、苛立ちをアルコールにぶつけるために、三杯目のグラスをつかんでいる。
 昼から話題の映画『翔んで埼玉』を観て、喫茶店に行った。夕方から、綾が予約したレストランで食事をして、センター街で時代が変わる瞬間を待ち受けるはずだった。
 それなのに、レストランへの移動中、綾が道に迷ったことがきっかけで大喧嘩になり、相手の男性が帰ってしまった。綾もしかたなく自宅の最寄り駅まで戻ったが、誰かに愚痴を聞いてもらいたくなって、駅前にあるいきつけのバーに足を運んだのだった。
「今回だけじゃないんです。私っていつもこうなんですよ。好きな人や恋人ができても、必ず今日みたいに、男性がたいした理由もないのに急にへそを曲げちゃって、理不尽な形で関係が終わっちゃうんです。ほんと、意味わかんないことばかりですよ」
 すっかり、「意味わかんない」が口癖になってしまった。
 みひろは、綾の愚痴を、微笑を浮かべながら聞き続けていた。綾が定期的にこの店に通い続ける理由は、みひろの存在にあった。
 綾が初めてこの店を訪れたのは一年前のことだった。職場での不愉快な出来事を思い返しながら駅のホームを歩いていたときに、線路沿いのビルの二階にある店の看板が目に入ってきた。看板には、手書きのような崩した字体で「Smile」とあり、店名の下には、その字を書くのに使ったと思わせる万年筆のイラストが添えられていた。ガラスの向こうから漏れてくる店内の照明は、綾を誘い込もうとするかのように妖しく光っていた。
 店は駅の北口にあり、綾のアパートとは反対側だった。ふだんは買い物も食事も南口の繁華街で済ませるので、北口にはほとんど足を向けたことがない。だけどこのときは店名と店の雰囲気に惹かれ、「Smile」という名のバーを訪ねてみることにした。それ以来、仕事で嫌なことがあったときや将来が不安でたまらなくなったときは、必ずこのカウンター席に座り、心の内をみひろにさらけ出した。綾の言葉を、みひろは柔らかな笑みとふくよかな体で全部受け止めてくれる。愚痴をじっくり聞いたあとで、必ず前向きになれるようなアドバイスをくれるのだ。
「どんなことにも理由はあるものよ」
 みひろが諭すように言う。「たとえば、走っている人と肩がぶつかって、相手から罵られることがあるじゃない」
「腹立ちますよね。だいたいそういうことする人っておじさんなんですよね」
「そうかもね。もちろん、私も最初はむっとなる。でも、もしかしたらその人は身内が危篤になって病院に急いでいるのかもしれないじゃない。あの人はきっと一秒も無駄にできないくらい急ぐ理由がある、そう考えると、腹を立てることもなくなる」
 みひろが笑みを見せ、口元にえくぼができる。
「これまでに、どんな別れ方したの?」
「え?」
「理不尽な別れ方、たくさんしたんだよね。あらためて振り返ったら、理不尽なんかじゃなくて、ちゃんとした理由があったことに気づけるかもしれない」
「どうしようかなあ……」
 綾は周囲を見る。みひろには聞いてもらいたいけど、他の人の耳に入るのは避けたかった。
 背後のテーブル席には客が一組いるが、会話が盛り上がっているので聞かれる心配はない。問題は、綾から数えて三席隣、カウンターの隅にいる男性だった。薄手のジャンパーを着て、髪の半分以上が白くなった気の弱そうな男性が、背中を丸めて一人で日本酒を飲んでいた。このお洒落なバーにはそぐわない、赤ペンを握りしめながら競馬新聞に没頭しているほうがずっと似合うような風貌だった。彼の耳に、綾の声が届いてしまうかもしれない。
 少し考えて、「まあいいか」とつぶやいた。男性はうつろな視線を下に向けていて、こちらに関心を抱いている様子はなさそうだったからだ。
「いいですよ。じゃあ、どの話からしようかな」
「学生時代の恋愛なんてどう? 何かある?」
「ああ、ありますよ。あれは……もう十二年前かあ」
 平成十九年、二〇〇七年の春。綾は十九歳だった。



 宮崎をどげんかせんといかん、とタレントから政治家に転身した男性がブラウン管の中で力説するのを眺めながら、綾はこたつに入ってパソコンを立ち上げた。
 大学一年生、初めての春休みだった。とはいえ、まだ二月。春なんていう言葉とはほど遠い、寒い日が続いていた。実家の岩手とは違い、雪は降らないし気温が0度を下回ることもないけど、寒いことに変わりはない。
 退屈な春休みだった。バイトに行く以外、ほとんど家にこもり、ワイドショーを見ながらインターネットばかりしていた。私のぐうたらな生活もどげんかせんといかんな、と思いながら、パソコンが起動するのを待っていた。
 テレビでは、宮崎の話題が終わり、団塊の世代がこれから定年退職を迎えるという話に変わっていた。退職者が増えることによって、就職は売り手市場になるらしい。二年後の就職活動を考えると明るいニュースだった。翌年のリーマンショックで事態は一転するのだけど、当時の綾はそんなことも知らず、のんきにあくびをしながらそのニュースを眺めていた。
 インターネットを開き、綾は真っ先にmixiをクリックした。
 mixiは、日記を書いたり、他人の日記にコメントを寄せたり、同じ趣味の人たちが集まって掲示板上で交流したりできるSNSで、綾の周囲では大流行していた。
 mixiを始めたのは真希子に招待されたのがきっかけだった。綾も真希子も、それぞれ東京の大学に進学していた。家の最寄り駅がどちらも同じ路線だったこともあり、よく二人で会っていた。
 オレンジ色のトップページが開くと、画面上部に赤字で「1件の日記に対して新着コメントがあります!」と表示されていた。クリックすると、昨日の日記に真希子からのコメントが添えられていた。居酒屋でのバイト中、酔っ払いに絡まれて鬱陶しかった、という日記に対して、当時プロレスに興味を持ち始めていた真希子が「そんな奴にはドロップキックだ!」とコメントしていた。綾は「よっしゃ! 今度やってみる!」と返した。
 その日見たテレビの感想、バイトであった出来事、思いついたくだらないギャグなどを日記に書き、そのたびに友達からコメントが届くのが何より楽しみだった。コメントが届いていないかが気になって、一日に何回もmixiを開いた。丸一日誰からもコメントがないとさびしくてたまらなかった。
 返信を終え、友達の日記を閲覧し、最後にコミュニティのページをチェックすることにした。