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 日記を書く他にも、様々なコミュニティに参加し、掲示板にコメントを残していた。たとえば岩手県出身者が集まるコミュニティ、東京で一人暮らしをする人たちのコミュニティ、そして好きなタレントやアーティストのコミュニティにも登録した。
 綾は、少し前からよく聴くようになったYUIというアーティストのコミュニティを開いた。綾と同年代の女性シンガーで、自らが作詞作曲した曲を、ギター片手に歌う姿が格好よかった。
 コミュニティに、「YUIの好きな曲を教えて!」というタイトルの掲示板があり、昨日コメントを残していた。
 綾は『TOKYO』という曲を選んだ。上京する新幹線の中で自分の境遇と重ね合わせながら聴いた、思い出深い曲だった。その後にどんな書き込みがあったのか気になって画面をスクロールすると、綾のコメントのすぐ下に、こんな文章があった。
「>AYAさん
 『TOKYO』最高ですよね! 僕も東京で一人暮らしをしているので、この曲が胸に沁みるんです」
 KENJIというハンドルネームだった。
 彼のコメントの下には、他にも好きな曲を挙げている人たちのコメントが並んでいたけど、綾はかまわず彼に向けたコメントを書き込んだ。
「>KENJIさん
 仲間がいて嬉しいです! アルバム聴くとき、あの曲だけ何回もリピートしちゃうんです」
 翌日、女性は子どもを産む機械だ、という趣旨の発言をした政治家のニュースを見ながらmixiを開くと、赤字で「新着メッセージが1件あります!」とあった。
「すいません、直接メッセージ送っちゃいました。AYAさんと同じ、『TOKYO』が好きだとコメントしたKENJIです。
 YUIが好きなんですけど、周りに聴いてる人がいなくてさびしい思いをしていました。同じ曲が好きだという人がいて嬉しかったです」
 綾はコメントを返し、KENJIのページに飛んでプロフィールを見た。
 東妻あづま賢治けんじというのが彼のフルネームだった。プロフィール画像には熊のぬいぐるみの写真が使われていて、素顔はわからない。
 年は二つ上、現在T大学文学部の三年生のようだ。T大学は、綾の学力では到底入学できないような偏差値の高い大学だ。弁護士になるための勉強で忙しいらしく、そのせいか日記はあまり更新していなかった。
 綾の方から、友達登録のためのマイミク申請をして、賢治と繋がることになった。メッセージ機能を使ってYUIの話をしたり、綾の日記に賢治がコメントを返してくれたりする日々が続いた。
 賢治がどんな人なのか毎日想像した。その際に手がかりとなったのが、一人称が「僕」であるという情報だった。日記のコメント欄に、賢治と最近会っていないと思われる友達が「お前、日記だと自分のこと『僕』って言うのか(笑)気持ち悪いな(笑)」と書き込み、賢治は「最近は友達と話すときも『僕』に変えたんだ。その方が自分らしいかと思って」と返信していたのだ。
 一人称が「僕」の大学生。きっと穏やかな人なのだろう。もちろん、T大学なのだから頭がいい人なのは間違いないけど、はやりの音楽をたくさん聴いているみたいだから、ただのガリ勉ではないはずだ。きっと背が高く、笑顔が素敵で、落ち着いた物腰で、理知的な会話を好み、だけど冗談も得意でいつも周囲を笑顔にさせる……。
 都合のいい妄想が止まらなかった。バイト中も彼のことを考え、バイト仲間から顔がにやけていて気持ち悪いと注意された。
 三月上旬、YUIの最新シングルが発売された。
『CHE.R.RY』という曲だった。発売日に買い、iPodに入れて何度も聴いた。多幸感溢れる恋愛ソングで、綾は聴くたびに賢治のことを考えた。賢治はどんな感想を抱くのか、聞いてみたかった。
 だけど最近、賢治はメッセージを送ってこなくなっていた。「足あと」という、自分のページを誰がいつ閲覧したかを確認できる機能があったが、賢治が綾のページを訪れた形跡はなかった。
 綾は思い切ってメッセージを送ることにした。
「YUIの新曲出ましたね! KENJIさんは聴きましたか?」
 続けて、勇気を振り絞ってこう打ち込んだ。
「あの、一度会ってみませんか? 直接話がしてみたいです」
 一時間おきにmixiを確認する日々が三日続いたが、賢治からの反応はなかった。
 綾は誘ったことを後悔した。ほんの少しネット上でやりとりしただけの相手と会うなんて冷静に考えればありえないことだ。賢治は気味が悪いと思ったに違いない。会ってくれないどころか、もうメッセージすら送ってこないかもしれない。
 四日目の朝、返事が届いた。
「連絡遅れてすいませんでした。
 いいですね! ちょうど『CHE.R.RY』も出たことですし、花見の時期にでも会いますか」
 三月下旬、井の頭公園で会うことに決まった。
 
 改札をくぐり、思わず綾は立ちすくんだ。
 長身で、髪の短い爽やかな男性が、花壇の前で分厚い参考書を熱心に読み込んでいる。「こんな人だったらいいな」と、綾が思い描いていたとおりの人が、そこにはいた。
「賢治さん、ですよね?」
 彼のハンドルネームだからしかたないとはいえ、初対面の男性を下の名前で呼ぶのは恥ずかしかった。
「初めまして、綾さん」
 そして、初対面の男性から下の名前で呼ばれるのはくすぐったかった。
「すいません、待たせちゃいました」
「そんなことない。僕は家が近いから、早めに来たんだ」
「あ、本当に『僕』って言ってる」
 綾が指摘すると、賢治ははにかみながら「日記見たんだね」と言った。
 公園は桜が満開になっていて、老夫婦や若いカップルが歩いていた。遠くから、下手くそなギターの演奏音が冷たい風に乗って届いてくる。綾たちは、桃色の花びらを見上げながら園内を散策した。
「ネットで知り合った人と会うのは初めてだから緊張します」
「僕もだよ」
「初対面なのに、お互いのことを初めから知ってる、というのは変な感じですね」
「不思議だよね。でも、僕たちが初対面だということは、仮に別人が僕や綾さんになりすましていても、お互い気づかないことになるね」
「え?」
「いや、安心して。もちろん僕は本物の賢治だよ」
「わかってますよ。私だって本物です」
 賢治の誠実そうな様子は、彼の書く文章から想像するイメージに近かった。なりすますなんて、言葉で言うのは簡単だけど、実行するのは難しいはずだ。
「ごめん、変なこと言っちゃったね」
 ボートを漕ぐ人たちを眺めながら、綾たちは池に架かる橋をわたった。
「YUIはいつから聴いてるんですか?」
「『Good-bye days』の頃からだね。実は母の影響なんだ。夏休みに栃木の実家に帰ったとき、母がこの曲を聴いていて、それがきっかけで僕も好きになった」
「へえ、お母さん、音楽好きなんですね。私の親なんて、未だに七〇年代の古い曲ばかり聴いてるんです。今の曲は軽薄だ、なんて悪口ばかり言うんです」
「逆に、僕の母は流行り物が好きなんだ。音楽に限らず、流行の最先端を行く人だから。綾さんのご両親流に言うと、軽薄な人だよね」
 賢治の声音には皮肉が混じっていた。「でも、昔の音楽を聞き続けているということは、一生楽しめる音楽に出会えたということだよね。それってすごく素敵なことじゃない?」
 思いがけない意見に、綾は「なるほど」と唸るように言った。
「賢治さん、『CHE.R.RY』聴きました?」
「テレビで何度か聞いたけど、実はCDはまだ買ってないんだ。勉強で忙しくて、出かける暇もなくて」
「ありがとうございます」
「え?」
「忙しいのに、私と会う時間は作ってくれたんですね」
 綾が言うと、賢治は恥ずかしそうに笑った。
「私、今日iPod持ってきたんです。よかったら一緒に聴きませんか?」
 花びらが数枚落ちているベンチに座り、iPodとイヤホンを出した。イヤホンの片方を賢治にわたし、残りを自分の右耳に入れた。ほんの数センチ隣の賢治を意識しながら、曲を再生した。
「爽やかでいい曲だね」
 聴き終えると、賢治が満足そうに言った。「もう一回聴いてもいい?」
 ふたたび再生する。曲のリズムに合わせて、賢治が体を小さく揺らす。綾も一緒に体を揺らした。サビになり、賢治が小さな声で「恋しちゃったんだ」と歌い始めた。綾も次のパートで「たぶん気づいてないでしょう?」と一緒に歌う。そのまま、小さく動く賢治の口元を見つめながら、賢治の声に自分の声を重ね続けた。
「せっかくだから、他の曲も聴きましょうか」
 他の曲も再生し、同じように一緒に歌った。綾たちが知り合うきっかけとなった曲『TOKYO』ももちろんかけた。賢治と同じリズムで体を揺らしながら、綾はあたりを見わたした。