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 一週間はあっという間に過ぎ、賢治と会う日になった。
 上野に向かう途中、真希子からメールが届いた。
「いよいよ今日だね! 確認だけど、動物園に行ってから、不忍しのばずのいけのボートに乗るんだよね? ボート乗り場まで来たら、乗る前に池の周りを一周したいって言ってね」
「何をするつもりなの?」と尋ねたけど、「それは秘密。ちゃんと演技するのよ」としか返ってこない。「演技、ってどういうこと?」と送ったが、そこでメールのやりとりは終わってしまった。
 上野駅に着き、公園口の改札を通った。この日も、賢治は先に待ち合わせ場所に着いていた。
「お待たせしました」
 参考書に目を落としていた賢治が、綾を見た途端に顔をほころばせた。
「服、似合ってるね」
 デートに合わせて買ったカーディガンだった。この一言をもらえただけで、来た甲斐があった、と綾は思った。
 上野動物園に向かう道は、大勢の人であふれていた。
「実は、上野に来るの初めてなんです」
「そうなんだ! このあたりって美術館がたくさんあるんだけど、来たことない?」
 右にある美術館を指さしながら尋ねてきた。
 綾は首を振る。漫画ならともかく、昔の絵画なんて何がいいのか綾にはわからない。
「母が絵を見るのが好きなんだ。高校生のとき、母と一緒に美術館巡りをよくしたんだ」
「お母さんと仲いいんですね。反抗期はなかったんですか? 私が高校生のときは、家族で外出するの嫌でしたよ」
「当時はなかったな。大学に入った少しあとにぎくしゃくしたことがあったけどね」
 そんなことを話しながら、綾たちは表門から上野動物園に入った。親子連れでにぎわう園内をぶらつきながら、ジャイアントパンダのリンリンや、ゴリラやライオンといった動物を見物した。賢治は特にカワウソがお気に入りだったらしく、飼育員が与えるえさを、顔全体を動かして食べる様子を見ながら「癒やされるなあ」とつぶやいていた。
 一時間ほどかけて園内を回り、不忍池の脇にある弁天門という出口から外へ出た。
「いやあ、楽しかった。最近勉強ばかりしていて気が滅入っていたから、とてもいい気分転換になったよ」
 賢治が満足そうに言った。
「勉強、大変なんですね。たまに日記でつらい気持ちを吐き出してますよね」
「ああ、見られてたか。恥ずかしいな」
 賢治が頭を掻いた。「あまりにしんどいとき、衝動的にmixiを開いてそのときの気持ちをぶつけちゃうんだ。そういう日記はいつもあとで削除するんだけどね」
 露店が並ぶ通りを歩き、その先にある弁天堂の脇を抜けたところにボート乗り場があった。池の上を、白鳥の形をしたたくさんのボートがゆっくり動いているのが見えた。
「乗る?」
「その前に、池の周りを歩きませんか? もう少し散歩したいです」
 真希子の指示どおりに言った。
 いよいよここまで来たか。
 人通りの少ない小道を、身構えながら歩く。この先で、真希子はいったい何を用意して待っているのか。横から賢治が話しかけてくるけど、緊張のせいでほとんど頭に入ってこなかった。
 そして、それは起こった。
「おう、姉ちゃん」
 道の先にしゃがんでいた茶髪の若者が、持っていた缶ビールを投げ捨てて立ち上がった。「姉ちゃん、かわいいじゃねえか。そんな男ほっといて、俺とデートしねえか?」
「あ……あ……」
 綾の口から声が漏れる。恐怖でうろたえたのではない。「あなた、何やってるの」と叫びそうになるのを懸命にこらえていたのだ。
 アルコールで顔を真っ赤にさせたこの男性は、見知らぬチンピラではなく、真希子の双子の弟、真太郎だった。真太郎は、高校卒業後、働くあてもないのにむりやり真希子についてきて、バイトしながら夜遊びに繰り出す毎日を過ごしていた。
 真希子の作戦が理解できた。真太郎を二人に近づけ、綾をむりやり連れ去ろうとする。綾を怖がらせることで、賢治に、綾を守らなければという使命感を与えるつもりなのだろう。
 真希子を罵りたくなった。こんな子どもだましのような計画が本当にうまくいくと思っているのだろうか。すれ違う人たちが見て見ぬふりをして通り過ぎていくたびに、綾は恥ずかしさのあまり、この場から逃げ出したくなった。
「なあ姉ちゃん、俺と一緒にボート乗らねえか?」
 綾はノリノリで演技をする真太郎をにらんだ。姉のめちゃくちゃな頼みを素直に受け入れる弟もどうかしている。
「ボートが嫌なら美術館行くか? お勧めの絵があるんだ。モーツァルトって知ってるか」
 モーツァルトは作曲家だ!
「他にも西郷さんの像とか、顔しかない大仏とかいろいろあるんだぜ。さあ、行こう」
 真太郎が綾の手をむりやり引っぱった。
「痛い! やめてよ!」
 綾が本気で嫌がり、真太郎は一瞬手を離す。だけど、それではいけないと思ったのか、ふたたび綾の手を強引に引っぱった。酒臭い息が綾の頬にかかる。
「じゃあ、この子は俺がもらっていくからな。お前は一人でボートにでも乗ってろ」
 ぎゃはははは、と真太郎がわざとらしい笑い声を上げる。綾は怯える表情を作りながら賢治を窺った。
 賢治は動かなかった。両手を強く握りながら、黙って事態を見守っていた。
 え、まさか、助けないつもり?
 真太郎の顔を覗くと、やはり彼も動揺しているらしく、笑みが引きつっていた。早く俺を止めろ、とでも言いたげな、すがるような視線を賢治に向けていた。
「……るな」
 賢治が何か言った。
「あ、何だって?」
 真太郎が挑発すると、賢治は鼓膜が震えそうなほどの大声で怒鳴った。
「ふざけるな!」
 綾の体がすくんだ。顔を真っ赤にして怒りをむき出しにした賢治は、真太郎よりもはるかに怖かった。
「あんたのような、自分の欲望を満たすためなら平気で他人をないがしろにする奴が僕は一番許せないんだ。反吐へどが出る。あんたみたいな社会のゴミは、みんな死んでしまえばいい」
 綾は耳を疑った。数分前までの賢治からは想像できないような言葉遣いだった。
「誰が社会のゴミだって?」
 真太郎のこめかみに青筋が浮いていた。
 これはまずい。真太郎が本気で怒っている。
 真太郎が真希子と上京したのは親と喧嘩して家にいづらくなったのが原因だった。進路が決まらないまま高校を卒業する真太郎に親が説教した際、「このままじゃ社会のお荷物になる」という言葉に激高したと聞いている。
 真太郎が綾の手を離し、指の骨をならしながら賢治に近づいていった。
「そういうデカい口、二度とたたけないようにしてやるよ」
「今度は暴力か。どこまでも卑劣だな」
 賢治が真太郎に送る怒りのまなざしに、わずかに怯えの色が混じった。賢治は、背は高いが体は細く、とても腕力があるようには見えない。一方、真太郎は高校で空手部に入っていたから、殴り合いになったら結果は明らかだ。
「ねえ、やめて」
 綾の声は、怒りに支配された真太郎の耳には届かない。
 どうしよう、このままだと賢治がとんでもない目に遭ってしまう。
「覚悟しろよ!」
 拳を握り、真太郎が賢治に接近していった。
 そのとき、以前真希子が日記に残したコメントが脳裏をよぎった。
「そんな奴にはドロップキックだ!」
 迷っている暇はない。真太郎、ごめん!
 綾は全力で走り、真太郎の真横からドロップキックを見舞った。
「うおおっ」
 真太郎の驚く声と、地面に激突する音が周囲に響いた。
 真太郎は道と池を隔てるチェーンを乗り越え、斜面を転がって池に落ちていった。
 真太郎、ほんとにごめんね! 今度ご飯おごるから許して!
「逃げよう!」
 綾は賢治の手をつかみ、全力で走った。ボート乗り場を過ぎ、露店の人混みをすり抜け、ふたたび動物園の弁天門まで戻ってきた。
「ありがとう、助かった」
 息を切らしながら賢治が礼を言った。本当は賢治が綾を助けるはずだったのに、これでは計画が台無しだ。
「危なかったですね。何なんでしょうね、あの人」
「もう池には戻らない方がいいかもしれないね」
「結局、また動物園の前に来ちゃいましたね。何ならもう一回入ります?」
 綾が冗談めかして言ったが、賢治は答えなかった。動物園の方向を強張った顔でじっと見つめていた。
「あの、賢治さん?」
「今日はもう帰ろう」
「え?」
「ごめん。勉強で忙しいから、あまり長い時間遊んでるわけにもいかないんだ」
 賢治は駅のある方角に向けて歩いていった。綾はあわてて後を追う。駅までの間、賢治は一言も話さず、綾と目を合わせようとすらしなかった。改札を通ると、賢治は「僕はトイレに行くから、これで」と言って綾の前から消えた。
 綾はしばらく動けなかった。まだボートに乗っていないのに。YUIのアルバムも一緒に聴くはずだったのに。どうして急に帰るなんて言うんだろう。
 帰宅途中、真希子からメールが届いたけれど、開く気にはなれなかった。代わりにmixiを開くと、賢治の日記が更新されていた。
 そこには一言、「ああいうのは許したくない。自分勝手かもしれないけど、どうしても我慢できなかった」とあった。
 その日記は数時間後に削除された。それ以来、賢治とは会っていない。あれだけはまっていたはずのmixiにも、いつのまにかアクセスしなくなっていた。

 

「恋の謎解きはヒット曲にのせて」は、全6回で連日公開予定