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「あっちに行ってみよう」「次はこっち」
 順番に方向を選んで、薄青の黄昏たそがれに沈む路地裏をでたらめに歩いた。坂を登ったり下ったり、足の裏に感じるアスファルトは起伏に富んでいて、たまに息が切れた。
 坂の中ほどを横に入った東西にのびる通りにある、パキスタン料理のお店に入った。複雑な香辛料の味がするプラウという炊き込みごはんには、羊肉が入っていた。羊の肉を食べるのはふたりとも初めてで、シンが「想像したとおりの味だ」とやけに納得した様子だったのが笑えた。
 スパイスの香りに弾かれるように店を出て、ラッシーの甘い余韻が残ったまま、細い路地の坂を下る。まっすぐ立っていられないほど急勾配で、ひしめきあう家々はいったいどうやって建てたのだろう、まっすぐに住めるのかと疑問に思うほどだった。
 建物のすきまに見え隠れする夜景の切れ端が、歩くリズムに合わせてきらきらとバウンスする。どこかから、キンモクセイの香りがする。夜風が色づいたような気がした。ふたりとも、勾配で斜めになった勢いでワッと声をあげて駆け出しては、止まる。
「急な坂であぶないよね」「うん、あぶない」
 言い訳するようにふたりでつぶやいて、いつのまにか手をつないでいた。わたしよりほんの一瞬早く、シンの指が触れてきたことに、くすぐられるような嬉しさを感じた。シンのおおきな、乾いたあたたかい手。
 あまりの離したくなさに、おどろいた。
 そのとたん、ふたりの間で生まれて坂道を転がり出した何かを追いかけるように、わたしもシンも前方を見つめて黙り込む。お互いにその何かに気づいていないふりをして。わざとゆっくり歩いているのに、焦りのようなものに満ちていた。
 手のひらに神経があつまり、シンのささいな筋肉の動きを察知しては、手を離されるんじゃないかという恐れでいっぱいになる。
 無言のまま坂を下りきり、幹線道路に行き着いてしまった。
「布珠ちゃん、どこから電車乗るの」
「……阪急」
 立ち止まり、おそるおそるシンの顔を見てどきりとした。まるで鏡に映った自分の表情を見ているみたいだった。
「……僕の部屋は、実は坂の上なんだ。だからこのへんで」
 つないでいないほうの手で、シンがたったいまやって来た北の方角を指さす。ためらいながら、手の力をゆるめる気配を感じる。その瞬間、
「離したくないって思ってるくせに」
 口をついて出た。ほとんどけんか腰になった。
「思ってるよ。だからってどうしたらいいんだよ」
 シンの口調もむきになる。大人びた印象だったのに、意外とつられやすいようだ。
「もう一軒行こうとか言えばいいじゃん」
「遅くなったら悪いし、断られるかもって思ったんだよ」
「断らないよ」
「でも、引き延ばしてもいずれ帰っちゃうでしょ」
「帰らないよ」
 シンが黙ったので、わたしは一瞬「勝った」という気分になった。
「今日は帰らない」
「じゃあ……」
 シンがおずおずと、それなのに存在の奥までのぞきこむような目で見てくる。
 漆黒、とはなんて絶妙な言葉だろう。光を照り返すのではなく、しずかに懐に抱いてとどめておくような艶をもつ漆の色。漆のような、黒。シンは漆黒の瞳で、まるでこの世には他になにも存在しないかのように、わたしに向き合っていた。
 体の奥底から震えそうになるけれど、目をそらしたら負ける気がして見つめ合う。シンの唇が動く。──うちにくる?
 あの日はじめてこの人を見たときに逃げ出した何かと、いま向き合っているのだと思った。わたしはうなずき、ぼんやりした怖れの予感とともに、それを受け入れた。

 

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