強い日差しが差し込み、チケット売り場の温度を一気に上げた。わたしはできるだけ日光の当たらない端に避難したけれど、一坪ほどの狭さなのであまり意味はなかった。
十一月に入ったばかりの午後だった。
中央に植え込みのある広い幹線道路を行き交う車、道路沿いにならぶパブやラーメン屋、マンションのエントランス、菩提樹の並木。歩道をゆったりと、ときに足早に通り過ぎる人たち。窓口の内側から眺める景色は、秋にしては明るすぎる日差しに照らされている。
山と海のあいだを東西にひろがる、スカートの裾のようなこの港町には、坂道が多い。幹線道路を越えたところから始まる山の手の一帯には、輸入食品店、エスニック料理店、モスクや教会、明治時代にやって来た外国人たちが建てた住宅──異人館が点在していて、異国情緒のあるそのエリアは人気の観光地でもある。
山の手にいくつもある異人館の見学チケットを売るこの売り場は、広い坂のふもとにある。わたしは週末だけのアルバイトだ。
「すみません、萌黄の館の入場券ってここで売ってますか」
窓口に、旅行客らしい女性二人が現われた。
「萌黄の館はうちじゃないんです」
わたしは、いくつもある異人館はそれぞれ別の会社や団体が管理していることを説明し、萌黄の館の券が買える場所を案内した。
「この坂を十五分くらい登ります。ヒールだとけっこうきついので、お気をつけて」
一人でお客さんを待つだけの仕事なら、合間に勉強や読書もできて一石二鳥だろうと当初は思っていた。でも実際はこうした対応に時間を取られ、落ち着いて勉強などできなかった。
ここからもっと東の、街を見下ろす山の手に、入りたかった大学がある。そこに落ちてから、わたしは浪人生というものになった。
高校生だった頃がどんどん遠ざかり、すでに遠い過去に感じられる。それなのに、次にいるべき場所にいないというのは、ずっと陸地に上がることなく漂流しているような気分だった。
どこにも属さなくなってからずっと、やわらかなよるべなさ、のようなものがまとわりついていた。わたしは真綿のようなその上にぎこちなく横たわり、また起きて、そこについた自分の輪郭を気まずい思いで眺めている、そんな日々だった。
英単語や数式を頭につめこんでいるときもふと、前方が見えない靄のなかにあてずっぽうに時間を投げ込んでいるような気がすることがあった。
週末だけバイトをすることにしたのは、夏のことだった。高校時代の友達が、完全にそれぞれの今いる世界に属するようになって、わたしと遊んでいる場合ではないのだとはっきり感じた頃。わたしにも意味があると確信できる時間がほしかった。
単純に金銭的な理由もあった。どこにも属していない身で、何度も小遣いをねだるのはためらわれたのだ。父は単身赴任していて、一緒に暮らしている母は仕事が忙しく普段はうるさいことを言わず放任してくれているのだけれど、お願い事には明確で納得のいく理由を求められるのだ。
自宅からは四〇分ほどかかるけれど、働くならこのあたりだと決めていた。時間と空間がまじりあい、凝縮されたようなこの界隈が好きで、予備校が終わったあとによく意味もなく歩きまわっていた。
坂を登りきった高いところで働きたい気持ちもあった。でも今の自分ではそこに身を置く資格がないような気がして、ここにおさまっている。街を見下ろすあの大学に受け入れられたらきっと、何のやましいところもなく坂の上の世界で働ける気がしていた。
とはいえ、天上界の入り口のようなこの場所にいるのも悪くはなかった。
車や人が流れるのをただ見ている。それは不思議と快い時間だったし、売り場にやってくる観光客のまとう空気は軽い。みんな何かを期待するような顔つきで、坂の上に吸い込まれていくのだった。
前髪だけクセがある四歳くらいの女の子と、その手を引く老夫婦にチケットを渡すと四時をすぎていた。そろそろ仕舞い支度を、と思ったときだった。
うつむいたわたしの手元にすっと影が差し、顔を上げる。
「券ください」
枯れ葉のような色をしたシャツを着た若い男だった。顔を見たとたん、心臓が圧迫されたように苦しくなる。伸びかけの黒い短髪、まっすぐな長い眉、黒い小魚のようなかたちをした切れ長の目。もしかして。
「でも、どこも五時に閉まっちゃいますよ」
どぎまぎと答える。徒歩での所要時間を教えようと思ったけれど、観光客ではない気がした。あまりにも街並みに馴染んでいる。
「いいんです」
こちらをまっすぐに見て、彼は答える。わたしの中身まで深くのぞきこんでいるようなまなざし。こんなふうに初対面の人を見る人間は、いない。
やっぱり、あの日あの部屋にいた人だ。
彼はトレイに小銭を全部出すと、硬貨に書かれている数字を確かめるようにして一枚ずつこちらに差し出し、代金を払った。外国人旅行者のようだなと奇妙に思いながら眺めていると、
「白い館って、中はいまどうなってるんですか」
にわかに問いかけられて、一瞬戸惑った。
「小林家住宅ですよ」
彼が重ねて言う。
「ああ、萌黄の館ですね」
長い間白く塗られていたその洋館は、平成に行われた修復の際に建てられた当初の色だった萌黄色に復元され、今の通称は萌黄の館だ。白い館なんてマニアックな呼び方をする人は初めてだった。
「中がどうなってるかと言われても……」
言葉につまった。
「あそこはうちの管轄じゃなくて、入ったことないからわかりません」
「管轄じゃないから? ずいぶん狭い範囲のことしか知らないんですね」
「すみません」
反射的に言い、失礼なことを言われたと気づいて後からむっとした。
「今度入ってきます」
ぶっきらぼうに言うと、
「じゃあ、いまから一緒に行ってみませんか」
彼の目に悪戯っぽい光がうかぶ。透明感があって少し曇った、磨りガラスを思わせる声に喉元をくすぐられるような感じがした。