布珠と書いてふみと読むわたしの名前を、彼はやけに褒めてくれた。彼は真悟という名前で、わたしがシンちゃんと言うと「……ちゃん?」と微妙な顔をされたので、シンと呼ぶことにした。物腰が落ち着いているので年上だと思っていたけれど、おなじ十九歳だった。
シンの姿をじっと見ていたい欲求をどうにか抑え、不自然でないぎりぎりのあいだで見ては他のものに視線を移すことをくり返す。
知っている、という感じが体の奥でかすかに鳴り響いている。あの日見たことがあるという限定的な理由ではなくて、もっと違う何か。だけど、その感覚の正体を突き止めようとしてもつかみどころがなかった。
目、鼻、口、眉。すっきりとした黒髪の短髪。それぞれのパーツが、昔好きだった男子とか憧れていたミュージシャンとか、かっこいいなと思っていた宅配便のお兄さんなどに似ているからかもしれない。そのまま持ってきて取り付けたのかと思うほどだ。でも配置が違っていて、その集合体であるこの人は、彼らの全部の要素を持っていながら初めて出会う人として、固有の魅力を持って存在していた。なにかすごいことが起こっているような感覚をおぼえる。
ふとシンの背後へ視線を移すと、黒く縮れた長い髪に浅黒い肌をしたアーリア系の女性が視界に入った。元々あった戸口が取り払われた向こう側の広い部屋の席にいるその女性は、薄暗い美術館に飾られた絵画のように見えた。
「あのひと、すごく黒が似合う」
シンにだけわかるよう、わたしはその女性をこっそり指した。黒一色の服装に赤いペディキュア。みっしりと重そうなまつげを伏せてマックのパソコンのキーボードを打っている。
「黒が似合うのはああいう人種なのか、って今すごく納得した。日本人の女の人って黒が似合わないなっていつも思ってたんだよ。黒に存在をかき消される感じがして」
「そうかなあ。喪服着てる人素敵だと思うけど」
「黒の種類によるのかな?」
そこから日本人の女性に似合う色についての議論が始まり、ルドンの描く黒の話から好きな色に話題が移り、パーソナルカラー、サリーの絵柄、シンが研究しているインドの古典のこと、ヒンドゥー教、神はいるのか、ところでさっき見た萌黄の館の天井板の意匠は何だったんだろう、とどんどん話が移り変わっていった。
わたしとシンはほとんど途切れることなく喋った。ふたりの話すリズムと流れが合わさって、まるでセッションをしているような心地よさに、ひとつひとつの言葉の意味は溶けてどうでもよくなり、酔っているのにきりりと覚醒しているような、静かにハイになっているような状態がつづいた。どんなことでも、ふと頭に浮かんだことはシンに話してみようと思えるのが不思議だった。
言葉の行き先がある。このときのわたしは、そんな安堵感と信頼に満たされていたように思う。港があるとわかっているから、言葉を船に乗せて海へ送り出すことができる。わたしは目の前の人に、そんな「港」の存在を感じていた。
波のようなものがおさまったころ、話の流れで大学に入るために浪人中であることをわたしが告げたときだった。
にわかにシンの目に痛みのようなものが浮かんだ。
「僕も本当はあの、商業大学に入りたかったのに行けなかったんだ」
「あそこは商業大学じゃないでしょ」
街の名前を冠したシンプルな大学名にわたしは訂正し、
「自分の志望校の名前間違える?」
と笑った。てっきり一緒に笑うと思っていたのに、シンはあいまいに相づちを打っただけで黙り込んでしまった。
わたしはにわかに落ち着かない気分になり、
「そろそろお腹減らない? 何か食べにいこう」
そそくさと腰を浮かせた。
きっと彼も志望校に落ちたのだ。おそらく浪人する経済的余裕もなくて、精神的に辛かったのだろうと推測した。大学名すら言いたくないほどに。触れてはいけないところだったのだ。合格して大学生になった友達も、わたしと一緒にいるときはこんな態度だったとふと思い出す。