そのおおきな部屋は、空洞だった。
見上げるほど高い天井、規則正しく配列されたライト。マットな白に塗られた壁。中央に二列に並んだ太い柱たちが支える、宮殿を思わせる広い空間。
アーチ形の扉を抜けて足を踏み入れると、プールの水のようなひんやりとした空気に全身が包まれた。静かにライトを照り返す床のつめたさが、靴底を通じてつたわってくるようだった。
実際には空洞ではなく、さまざまな展示物があった。生糸検査場として一〇〇年近く前に建てられた、この建物の歴史をたどるパネル。かつて使われていた、生糸を検査するための大小さまざまな器具。二列の柱が形づくるゆるやかな通路の奥、神殿なら神官が座っていそうな位置にはモニターがあり、当時の様子を紹介するモノクロの映像が流れている。
それでも、生きているものの気配がない、過去だけが並べられた空間は、どれだけ物が置かれていても空洞に感じられた。
このギャラリーに来るのは初めてだった。ゴシック調の、入り組んだ建物の外れに位置するこの部屋にたまたま辿り着いたのは、ふと思い立って階段を使ったからだ。いつもエレベーターでまっすぐ、二階の中央にある図書館に向かっていたのだ。階段は、アールデコの装飾がほどこされた絢爛な大理石の手すりがあり、特別な場所に向かうのだという気持ちにさせられるつくりだった。
部屋のなかには誰もいない。ゆっくりと一周して、展示パネルを見るともなしに眺める。九〇年前につくられた、生糸の水分含有量を測る大きな円筒形の器具の艶にみとれた。生糸を巻き取る機械は、変わった形をした骨組みだけのピアノのように見えた。
ガラスケースにおさめられた分銅を覗きこむ。ガラスにわたしの姿がうつったそのとき、かすかな足音が聞こえてきた。
つめたい床を歩く音がだんだん近づいてきて、部屋に誰かが入ってくる気配がした。この空間に、自分以外に生きた人間がいることになぜか息が詰まるほど緊張して、背中がこわばる。
顔を向けないようにしたけれど、視界の端でとらえたシルエットは男のようだった。こちらに近づいて来る。まるでわたしを目指して歩いているのかと思うほど、まっすぐ迷いのない歩き方。心臓が音を立てそうなほどつよく打ち、胸が苦しくなる。
その人物がぴたりと動きを止めた。耐えきれずに目をやると、彼はさっきまでわたしが見ていた器具の前に立ち、手を触れていた。
まず指の長さが、それから手首に浮きでた骨のかたちが、シャッターを押したように目にやきついた。若木のように痩せてひょろりとした背格好。彼の横顔が、全身が発するせっぱつまったような空気感が、わたしの動きを止めてしまう。視線に気づかれる前に目をそらしたかったのに、できなかった。彼の顔がこちらを向く。
目が、合う。
漆黒の瞳と青みがかった白目が、濡れたように光った。静かな過去たちのなかで、彼の眼の質感は圧倒的にナマモノだった。
頭のてっぺんからつま先まで電流が走ったようになり、ざわりと鳥肌が立つ。正体のわからない感情が濁流のように押し寄せる。彼が壮大な何かを問いかけていてわたしはそれに答えないといけない、もしくは、彼が何かを強く求めていてわたしはそれに応えないといけない、というような。
わたしを捕らえようとする濁流から逃げ出すように、足早に部屋を横切り入り口へ向かった。パネルのモノクロ写真のなかで白衣を着て働く職員たち、彼らが向かい合う器具、窓の外に広がる半世紀以上前の、ビルのない街並み。
いまここにある、二度と動かない器具。ブラインドが下ろされた現実の部屋の窓、床に落ちたライトの光、自分の靴音。次から次へ、通りすぎていく。それらが濁流のなかでまじりあい、区別がなくなっていく。自分がどこにいるのかわからなくなる。体が実体を失っていくような感覚に、めまいがした。
小説
繭の中の街
あらすじ
歴史の中で多くの出会いを見届けてきた神戸の街を舞台に、様々な形の出会いと別れ、あるいは破壊と再生を描く短編集。ある時は運命的な男女の出会いを、ある時は破滅的でさえある恋を、またある時にはパラレルワールドに存在する神戸での不思議な邂逅を描く。読後感も、時にジャンルさえも全く異なる独立した物語たちである一方、それらは確かな繋がりを持ち、それぞれに響き合って世界を美しく彩る。読み終わった後、誰かと語り合い、分かち合いたくなるような魅力に溢れた1冊。
エデンの102号室(1/5)
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