「……就業時間があと十五分あるんです」
「早じまいしたらいいじゃないですか」
「でも、四時半までって決められてるから」
「決められたことをしてたら、幸せになれるんですか?」
びっくりするほど真剣に、彼は言った。
その真剣さに魅入られたようにわたしは、いつのまにか売り場を閉めて外に出ていた。束ねていた髪をほどいてパーカーのフードをととのえる。
急ぎましょう、と歩き出した彼について坂を登り始めたとたん、すっと照明を一段階落としたように街が陰った。日が短くなってきている。頭はぼんやりとして、心臓だけがくっきりと動いている。月面を歩いているように、地面を踏んでいる感触がしなかった。
坂を登り切って上がった息をととのえる間もないまま、萌黄の館の敷地内にある売場で券を買い、正面扉をくぐった。扉上部には、橘の花をかたどったステンドグラスがはめ込まれていた。
古い板張りの床はみしみし音を立て、もう火が熾されることのない食堂の大きな暖炉の上には、イタリアの山を描いた油絵が飾られてある。アラベスク模様のほどこされたドラマティックな階段を、幾重にも折れながら二階へ上り、ベランダの窓から街を見下ろした。海側の空はみずみずしさを感じさせるマゼンタに染まっていた。
妙な勢いがついて「他も制覇しよう」ということになり、別の会社が管理しているふたつの外国人住宅にも入った。こちらはそこまで裕福でない人が建てたのか、こぢんまりした長屋風で、階段も部屋も狭かった。
内部は好き勝手なアレンジがなされていて、化石を入れた瓶が並ぶ戸棚や動物の剥製を集めた部屋があったり、水差しからあふれた造花のバラがバスタブを満たしている妙な展示や、羽の生えた豚が街の上空を飛んでいる絵が壁一面に描かれていたりした。階段の踊り場には、ガスマスクをつけた鹿の頭の骨が飾られていた。
見学を終えて、異人館のひとつをリノベーションしたスターバックスに入ったときには、足が痛くなるほど疲れていた。
注文したドリンクをぼんやりと待ちながら、彼がオーダーにやけに時間がかかっていることに気づいて注文カウンターに目をやると、真剣な顔をしてメニューを見ながら店員さんとやりとりをしている。「サイズはどうされますか?」という質問に、「やや大きめで」と答える声が聞こえた。
二階の角にある、半個室のような席を選んだ。元々はベランダだったと思われるちいさな部屋だった。住宅だった時代のものらしい、アンティークのちいさな円テーブルと、草花文様を織り込んだ布が張られた肘掛け椅子がふたつある。
「さっきの展示、どうなの?」
椅子に座り込むなり、わたしは言った。
「うーん、ものすごく行き当たりばったりでバカみたいに悪趣味だと思ったんだけど……」
彼が煮え切らない表情になる。
「そうだよね。でもさ」
「そう、でも」
わたしの語尾にかぶせるように彼も声を発した。
「一周回ってこの街を表現した現代アートかもしれないって気もしてきたりして、混乱した」
「一周回って?」
不可解な表情で、彼が聞き返した。
「一周回ったら同じ場所に戻るんじゃないの?」
「そう言われてみればそうだね」
「でも、その意見にはまったく同感」
「でしょ?」
嬉しくなって、握手を求める手を差し出す。慣れない様子で応じた彼は、手が触れるとはにかんだ表情でうつむいた。包み込むようなおおきな手と、ずいぶんアンバランスな表情だった。
「名乗りあいますか?」
彼の言葉が、甘い苦しさのような感情をよぶ。
「知らないままでもいいような気がする」
「じゃあ、名乗らないことにするよ」
「やっぱり知りたい」
「どっちだよ」
「あっさり言われると気が変わった」
「天の邪鬼?」
彼が笑う。静かで近寄りがたい雰囲気が一気に温かくなる、変化のあざやかさに引き込まれた。