小学校の卒業式を間近に控えた美々加。ある日の夕方、寄り道しながら学校から帰る途中で黒猫を見かける。美々加のほうを振り返りながら歩いていく黒猫。気になってついていくと神社に辿り着く。黒猫は、そこにある巨木の根元の空洞に入り込んだ。美々加もくぐってみると……。
気づいたのは家の中だった。
暑い。
それか、熱い。
幼稚園のころ、母方の遠い親戚、どういうつながりか美々加には全然わからない人の家に遊びにつれて行かれて、海岸にほど近いその家から、ほとんど人けのない砂浜まで、水着姿で、大きな浮き輪をかかえ、べたべた、べたべたとビーサンを引きずって歩いて行ったのを思い出す。
やけにぬるい海だった。浅くて、周囲が岩だらけで。魚のにおいをたっぷり嗅いだ覚えもあるから、もしかしたら漁師さんの町だったのかもしれない。
年が近い、と言うにはだいぶ年上のお兄さんとお姉さんも一緒だったけれど、覚えているのはそのふたりの顔ではなくて、親戚の家のテレビで、夕方、『名探偵コナン』の再放送を見せてもらったことばかりだった。コナン、コナン、コナン君が見たいっ、と子供の美々加は騒いだのだ。それにたしか初日の海ですっ転んでしょっぱい水をたらふく飲んで、喉がずいぶんひりひりとしたから、二日目からは海に行くのは嫌だと言った。
あれはどこの海だったのだろう。
「起きた? 具合どう」
横から女の人が言った。びくん、とからだを固くすると、座っているその人が、なに? と笑い声で言ってから、こちらに手を伸ばして来る。
おでこにひんやりと手の甲を当てて、
「まだ熱いね」
と言った。
離れるところをさっと目で追うと、ぽっちゃりと丸いけれど、白くて、きれいな手だった。
まさか、母方の遠い親戚の人だっただろうか。ちょっとだけ見えた手の持ち主は、髪が短くて、丸顔だった。部屋は畳で、天井は板張りに見える。
それから、ぺちゃり、ぺちゃりと横で水の音がして、少しだけ冷たいタオルかなにかが、おでこに載せられた。
「ここ、どこ」
思い切って声にすると、
「客間でしょ、風邪ひいたから特別に」
あんまり求めていないような答えが返って来た。客間。風邪をひいた。誰の話だろう。
「まだ起きないで、ちゃんと寝てなさいよ」
三、四十歳くらいだったと思うその女の人は言い、物音からすると、すぐに部屋を出て行った。
どこだろう。ここ。
べっちゃり載せられたおでこのタオルが落ちないよう、右手を当てて、重い頭を少しだけ起こす。だいぶ遠くのほうから、首振りの扇風機がゆるい風を送ってくれているのが見えた。
夏用みたいなうすい布団に寝かされ、体にも夏がけのうすいピンクの布団がかかっている。頭を戻すと、タオルめいた感触の向こうに、水なのだろう、ぽよんと揺れるものがあった。ゴムかなにかで出来た枕の中に、水が入っているのかもしれない。
夢?
いつの間に眠ったのだろう。
こんなところで。
こんなところが夢なのか。こんなところで見ている夢なのかもわからない。
でも起きなきゃ。
早く起きなきゃ。
いくらそう思っても、体が言うことを聞かない。もう一度頭を上げ、うっ、とお腹に力を入れてもダメ。むしろはっきりとわかった。全身がだるい。
やっぱり熱があるのだろうか。苦手な熱冷ましの薬なんかも飲まされたのかもしれない。
結局、重力に負けて頭を下ろすと、すぐに意識が遠くなり、また眠りに落ちてしまった。
さら、さら。
さら、さら。
次に聞いたのはそんな声だった。今度はさっきよりも若い女の人みたいだ。
誰、と思ってぱっちりと目を開け、相手をじっと見ると、
「なんで睨むのよ」
黒い髪をまっすぐ垂らしたその女の人は、こちらを覗き込んで笑う。「まだ寝てる? もう夜だけど。すったりんごでも持って来ようか」
なんだかガーゼみたいな生地の、ふんわりやわらかそうな半袖のブラウスを着ている。それにシンプルな紺系のスカートをはいているようだったから、年の頃から言っても、高校生なのかもしれない。
長い。
夢だかなんだかわからないのが、長すぎる、と思ったまま、
「ここ、どこ」
と聞き、
「客間でしょ」
という答えをもう一度聞いて、目を閉じたらまた眠ってしまった。
つぎに目を開けると、今度は前髪ぱっつんの小柄な男の子がいた。まぶしい白いTシャツに、腿の付け根までぎゅっと丸出しになった、極端に短いカーキ色の半ズボンをはいて、にかにかと笑いながらこちらに近づいて来るところだった。嫌っ、助けて、ときつく目を閉じると、
「こら、まさお、入るな」
ばさばさっと襖が開く音がして、さっきの黒髪の女の人みたいな声がした。「ダメでしょ、さらが寝てるのに」
「ウソだあ。さら姉、もう起きてるぜよ。今、ちゃんと目が開いてたぜよ」
「なにその喋り方。バッカみたい。やめなさいよ」
「まーそのぉ」
「なーに? 今度はタナカカクエイ? くっだらないね。早くおいでって」
なんだかよくわからないチビ男子が、思い切りつぶした声で、まーそのぉ、まーそのぉ、と呪文みたいにくり返すのが遠ざかって行く。とりあえず小さな危機は脱したのだろうか。黒髪のお姉さんには、感謝しなくちゃいけないのだろう。
でも誰だろう。
ここで寝ている「さら」って。
ううん。
じつはもう起きているらしい「さら姉ちゃん」って。
こわい。
一体、自分の他に誰がいるのだろう。天井を見た感じでは、頭のうしろにもう一つお布団が敷けるスペースはなさそうだったし。
座敷童か、幽霊か。
大切な家の守り神様でもいるのだろうか。
ここがどこなのかも、まだ全然わからないのに。
こわい。こわすぎる。
しかもきつく目を閉じていても、今度は眠りに落ちてくれない。
もうたっぷり眠ったからだろうか。熱が引いたのかもしれない。
第一これは、夢ではないのだろうか。
せめて夢かどうかを疑いながら見る、ややこしいタイプの夢だったりはしないだろうか。
そして困ったことには……急にトイレに行きたくなって来た。