最初から読む

 

小学校の卒業式を間近に控えた美々加。ある日の夕方、寄り道しながら学校から帰る途中で黒猫を見かける。美々加のほうを振り返りながら歩いていく黒猫。気になってついていくと神社に辿り着く。黒猫は、そこにある巨木の根元の空洞に入り込んだ。美々加もくぐってみると……。

 

 どこにいるの?
「あどう。がびはー?」
 頑張って用を足し、念のため外に向けて言ってみると、
「がび? がびってなに?」
「がびーです」
「ああ紙? なくなった? あるでしょう、まだ」
 というお姉ちゃんの声が返って来た。
 まさか。
 紙は……。
 この四角いの?
 と覚悟を決めて、ごわごわの紙に手を伸ばす。あとは怖い穴からすっと離れ、立てかけておいた蓋をおそるおそるもとに戻すと、もうすることがなかった。なにか大きな手順がひとつ抜け落ちている気がしたけれど、ざばーっ、と流す水がないのだから仕方がない。
 ぐるりとまわりを見て、天井から垂れ下がった茶色いテープにあらためて目を留めたけれど、半透明で表面がねばついていそうなそれに、ハエらしき虫が二、三匹張りついていることに気づいて、美々加は肩をふるわせた。かつん、かつかつん、とサンダルを鳴らして、カギがあるのかないのかもわからない木戸を急いで開ける。
 すーっと思い切り息を吸った。口から……そして鼻からも。
「なに、大丈夫?」
 待っていてくれたお姉ちゃんが、明るく笑った。

「それはさあ、私だってぼっとんは嫌だよ。そんなの、ずっと言ってるよね。でもさあ、うち古いでしょう。ここらへんはまだ下水道の工事も必要みたいだから、あと一年ぐらい無理なんだってさ。……わかる、よねえ?」
 お風呂場にある洗面台まで案内してくれたお姉ちゃんが言った。さっきやさしそうなおばちゃんに親近感を覚えたのと同様に、このお姉ちゃんも全然悪い人には思えない。
 むしろそばにいれば、安心かもしれない。今もトイレを出た美々加が手を洗いたそうにしていると、
「なに? なんで甘えてるの?」
 と笑いながら、
「ほら、おいで」
 と先導してくれたのだった。
 美々加がまだ熱のせいでぼんやりしていると思ったのかもしれない。それとも全然知らない家で、やっぱり心細いと考えてくれたのだろうか。手を洗う間も、ちゃんと外の板の間から見てくれている。小さな洗面台はタイル張りの広いお風呂場の中、すぐ左手の壁にあって、L字に並べたの子づたいに行けるようになっていた。
「そんなのひどい、遅れてる、うちなんて建築屋なのにって、私もパパに何回も言ってるけど、知らん、俺のせいじゃない、区長かミノベに言え、だってさ。頭きちゃうよね」
 壁から突き出した陶器の白い洗面台のへりに、舟形のプラスチックケースに載った薄い石けんが置いてある。もちろん美々加は家にあるポンプ式のハンドソープに慣れていたけれど、固形の石けんだって、べつに生まれてはじめて使うわけではなかった。三回か、四回くらいは使ったことがある。
 あまり泡立ちのよくないそれを一生懸命こすって手を洗うと、水を止め、脇の銀色のバーにかかった白いタオルで手をぬぐった。それから小さく伸びをして、洗面台の上の鏡に顔をうつす。
 どうしよう、別人だったら。
 一瞬思ったけれど、いつもの自分の顔だったのでホッとした。髪がぐちゃぐちゃで、おでこも出て、ちょっとおかしいかな、というくらい。鏡のうしろが分厚い箱みたいになって、そのぶんが壁から飛び出している。物入れになっているのかもしれない。
 でも……ここはどこだろう。
「まさおだって、うっかりしてるんだから、そのうち落ちるよね、あいつ、ぼっとんに」
 お姉ちゃん自身もやっぱり不満なのか、くみ取り式トイレの話をまだつづけている。
「お、落ちるの?」
 美々加は振り返り、目を丸くした。まさお、というのはさっきの男の子だ。いかにもおっちょこちょいな男子という感じだったけれど、そんなにうっかりしているのだろうか。きっと勢いだけで、雑な子なのだ。ちょっとクラスの北村君を思い出す。
「だってもう何回も落ちかけてるじゃない、まさお。なんとか腕で支えて、助けてーって大声出して。そのたびママかパパに引っ張り上げてもらってるけど、次はわからないよね。もし誰もいないときだったらどうしようもないんだから」
 ひゅーっ、と暗い穴に落ちて行くまさおを想像して、美々加は首をすくめた。ぽちゃん、と遠くで落ちる音まで聞こえた(気がする)。首をすくめたまま、べこべこと簀の子を鳴らして歩くと、きれいな黒髪を真っ直ぐに切り揃えたお姉ちゃんが、横を向いて小さなあくびをした。
「学校だって、お友だちのうちだって、よそはもう、だいたい水洗なのにねえ」
「すいせん?」
「うん。学校だって新校舎は全部そうでしょ」
「しんこうしゃ?」
「なんかへんだよ、大丈夫?」
 よほど美々加が複雑な表情をしていたのだろうか。お姉ちゃんは心配そうに言った。いつの間にか、じっとこちらを見ている。「だいたいどうしたのよ、急に。ぼっとんが嫌なんて。さら、今までそんなこと、ちっとも言わなかったよね。いい子ちゃんで、我慢強いから」
 また「さら」だ。胸がきゅっと苦しくなる。
 さらって誰。
 ここはどこ?
 本当は美々加のほうから、早くそう質問しなくてはいけないのだろう。
 でもそれを訊くタイミングが本当に今でいいのか。もともと引っ込み思案なところのある美々加にはよくわからなかった。
 もしかすると、自分が「さら」という子に間違えられているのだろうか。
 だったら今すぐにでも、違うと教えたほうがいい。
 そう思う反面、じゃああなた、誰なの、と訊かれて問題にされるのもちょっとこわい。
 親戚の子かなにかと間違えられているのだろうか。
 その子と違うとわかったら、じゃあどうして家に上がり込んだの、と責められるかもしれない。
 出て行けー、と言われるならまだまし。泥棒ね、とか。お巡りさん呼ぶから待っていなさいとか。ねえ、みんな、なにかなくなっているものはない? とか。きゃー、本当、違うわ、この子、にせものよ、とか。
 自分から上がり込んだ覚えは一切ないけれども、そんな言い訳が相手に通用するかどうかもわからない。
 そもそも、なんで布団に寝かされていたのだろう。このおうちの庭かなにかで、熱を出して倒れていたのだろうか。
 服。服だ。
 一体自分はどんな格好をしていたのだろう。学校の帰りだったから、制服を着ていたはずだ。どこだろう、制服。ないとやっぱり明日から困るし。PASMOも返してほしい。じゃなくても、この青い小花模様のついた、てろてろの半袖パジャマのままじゃ帰れない。
「なに? どうしたの」
 お姉ちゃんがまだじっとこちらを見ていたので、美々加はようやく口を開いた。
「ここ……どこ(ですか)」
 気がつくと、喉がからからに渇いていた。
 だから美々加の声はほとんど出ていなかったかもしれない。それでもお姉ちゃんは質問の内容を理解して、
「家」
 とゆっくり答えた。美々加の真意を探るように、語尾をちょっとだけ疑問形にしている。
「他になんだって言うの」
「……家」
「うん」
「誰の家? 制服は?」
「誰のって、みんなのだけど……制服? 私の制服? 高校の?」
「そうじゃなくて、私の」
「私のって、どこの? やめて、さら、どうしたの」
「あのう、私……。さらっていう子じゃ……」
 その絞り出すような声を、
「あっ、ゆう、ちょうどいいわ。あんた、お風呂焚いて」
 いきなり朗らかなおばさん声がかき消した。ドアが勢いよく開いて、やさしそうな女の人の、丸い体がもう脱衣場の板の間に飛び込んで来ている。「水はもう張ってあるから」
「そんなことよりママ、さらがおかしいよ、ここどこ? だって。制服がどうとか」
 お姉ちゃんは言った。「記憶喪失かもしれない、小学校に制服なんてないのに」
「記憶喪失? 制服? なによ、それ」
 小太りなおばちゃんはまず不思議そうに応じると、
「さら? まだ調子悪いの」
 と美々加のほうを見て訊いた。
「うん。なんか様子がへんだよ、ぼーっとしてて」
 説明を加えるお姉ちゃんに、
「あらそう。わかった。夢でも見たんじゃないの」
 とうなずき、
「それよりあなたはお風呂お願い。お父さん、もう帰ってらっしゃるわよ」
 と手を合わせて娘に依頼をした。
「はーい」
 お姉ちゃんは答えると、不安げに見上げる美々加の様子を確かめ、さほど深刻なことには思わなかったのだろう、少し悪戯いたずらっぽく鼻の頭に皺を寄せた。そして家のお手伝いをするために、お風呂場のほうへと戻ってしまった。