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小学校の卒業式を間近に控えた美々加。ある日の夕方、寄り道しながら学校から帰る途中で黒猫を見かける。美々加のほうを振り返りながら歩いていく黒猫。気になってついていくと神社に辿り着く。黒猫は、そこにある巨木の根元の空洞に入り込んだ。美々加もくぐってみると……。

 

 あ、あ、あ。
 お姉ちゃん、まだ話が。
 よろよろ追いすがろうとするパジャマ姿の美々加を、
「ほら、あんたはいいの」
 おばちゃんの分厚い手が引き止めた。がっちりと肩をつかまれている。
「大丈夫? まだ熱?」
 おばちゃんは軽く腰を落とすと、美々加の前髪をかき分け、さっきと同じように、額にちょんと手の甲を当てた。それから病気全快のおまじないみたいに、今度はてのひらをぺたっと当てる。
「うーん、熱は引いたみたいよ」
 ほっとしたようなおばちゃんの声に、美々加は無言でうなずいた。べつに熱のせいで、なにかおかしなことを言っているわけではない。それは美々加が一番わかっていた。だいたい、おかしなことを言っているつもりは一切ないし。
 むしろいろんなおかしなことを、こちらにはっきりわかるように説明してもらいたい。
 ……でも、どうしよう。
 あのう、ここはどこなんですか。
 どうにか話をまたそこに持って行こうと、美々加が全身に力を入れると、
「そんな顔しないの」
 おばちゃんは美々加の表情を見て笑い、なにを思ったのか、いきなり大きく手を広げてハグして来た。ぎゅっと。強く。
 うぐ。苦しい。知らないおばちゃん。
 でも、ちょっと甘くていいにおいがする。
 ほどなく腕の力がゆるんで、おばちゃんのやわらかい体が離れた。
「カルピス飲む?」
 見ると、やさしい笑顔で言う。
 カルピス。
 ごくっ、と喉を鳴らしたのをしっかり聞かれたのだろう。おいで、とばかりにおばちゃんは立ち上がって、
「今日は特別に、濃~く入れてあげるよ」
 ほら、と手招きをする。お風呂場のほうからは、ぺちょんと水の跳ねる音と、がこんがこんと板が鳴るような音がしていた。お姉ちゃんは、まだ出て来ないのだろうか。そちらに少し未練を残しながら、結局、年輩の女の人の大きなお尻のあとにつづいた。
 とりあえず怖い人たちではないみたいだから、冷たいものを飲ませてもらってから、もう一度ちゃんと話してみればいい。喉もからからだし。そのほうが上手く言葉も出るかもしれない。そのころには話のわかるお姉ちゃんだって、お風呂の用が済んで来てくれるだろう。
「こら、まさお、あんたまたスプーン隠してるでしょ」
 廊下に出ると、おばちゃんがいきなりきつい声で言った。男の子が、ちょうど小走りで来たところみたいだった。美々加はその場で小さく飛び跳ねた。
「ノーノー。持ってない。ノーノー」
 両手を挙げてすり抜けようとするまさおという少年の、半ズボンのベルトのあたりをおばちゃんが素早くつかむ。
「ないよ、ないって」
 きんきん声で叫ぶように言いながらも、まさおは大げさにおなかを押さえようとしたから、きっとそこになにかを隠し持っているのだろう。
 と、おばちゃんも同じ推理をしたのか、
「ここでしょ」
 と言うと、Tシャツの裾を引っ張りだし、
「ぎゃあ、H」
 と叫ぶ息子の手としばらく格闘した末、大きなスプーンを取り上げた。まさか……パンツの中に入れていたのだろうか。せめてのほうにしてほしいけれど。
「やめなさいよ、いい加減に。固いスプーンが曲がるわけないんだから」
「わかんないよ、そんなの。この前はちゃんと、止まってた時計が動いたんだ」
「なに言ってんの。テレビでやってたやつでしょ。そんなのたまたまよ。たまたま。絶対にインチキなんだから。ないよ、世の中に超能力なんて。もし無理にスプーン曲げたら、お小遣いで弁償させるからね」
 やさしい印象を一転させたおばちゃんはきつく言うと、男の子のおしりをぽんと叩いてから手を離した。「カレーもあんただけフォークだからね」
「はんたーい、賛成のはんたーい」
 よくわからないことを言うお調子者の男の子は、でもスプーンのことはもうあきらめたのか、べつに取り戻そうともせずに行ってしまった。
 ふっ、と鼻を鳴らしたおばちゃんが、
「あほらしい。もし本物の超能力っていうのがあっても、あの子にはあるわけないね」
 とひとりごとみたいに言い、つまんだスプーンをゆらゆらさせると、
「そういうのだったら、さらのほうがまだ可能性あるわ」
 と美々加のほうを見た。「ねえ。曲げてみる? これ」
 差し出された銀色のスプーンに息を呑んで、美々加は首を何度も横に振った。そういう超能力の話は前にテレビで見た覚えがあるけれど、残念ながら自分には一切なさそうだった。もちろん試してみたこともないけれども。
「ほら、持ってみて」
「……(いい)」
「あ、そう」
 おばちゃんは簡単に引き下がると、まさお少年が出てきたほうに向かった。さっきテレビの音がしていた部屋だ。こわごわついて行くと、思ったとおりそこには食卓らしいテーブルがあり、右手に流しや冷蔵庫なんかのあるキッチン、左手の奥にずいぶん古めかしいかたちのテレビが置かれていた。
 分厚い木箱に入った、家具調な感じのブラウン管のテレビだった。この家のレトロ趣味は、府中のおばあちゃんちにも負けないかもしれない。あちら側に見える花模様のポットも、前におばあちゃんちで使っていたのとそっくりだった。
「座ってなさい」
 流しのほうまでおばちゃんについて行こうとして止められた。食卓の椅子を引いてくれたので、ちょこんとそこに座る。長方形のかくかくしたテーブルを、スチール脚+青いビニール張りの椅子が四つ、五つで囲んでいる。ビニールクロスが、台布巾で拭ったあとみたいにちょっと光っていた。中央に小さな網でできたドームが置かれていて、その中におかずらしい鉢がいくつか見える。なすの煮びたしとか。ほうれん草のおひたしとか。きゅうりの酢の物とか。みんなもう夕食は済ませたのだろうか。そういえばお父さんという人が、もうじき帰るとか言っていた。どんな人だろう。お父さん。もちろん男の人だろう。
 ……ちょっとこわいかもしれない。
「はーい、お待たせ」
 コップが一つだけなのに、わざわざ木の丸いお盆に載せておばちゃんが戻って来た。からからん、と氷のいい音をさせて、美々加の前に置いてくれる。小さく頭を下げて手を伸ばすと、ごくごく、ごくごくと喉を鳴らして飲んだ。
 おいしい。カルピス。
 でもどうしよう。
 これを飲んだらどう話をしよう。
「おなかすいたでしょう。おかゆかおうどんこしらえようか。どっちがいい? もう熱は引いたみたいだけど。もうしばらく休んだほうがいいから……あ、あとで一応お熱もちゃんと計っておこうね」
 そう話す女の人のほうを見ながら、美々加はごくりごくりカルピスを飲む。おかゆ。おうどん。おなかはすいているような、すいていないような。でもどう答えよう。そのままなにも答えず、ただカルピスをくーっと飲み干すと、
「じゃあ帰ります」
 と美々加ははっきり言った。
「どこに」
 やさしげなおばちゃんが、思い切り不思議そうにしている。

 

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