小学校の卒業式を間近に控えた美々加。ある日の夕方、寄り道しながら学校から帰る途中で黒猫を見かける。美々加のほうを振り返りながら歩いていく黒猫。気になってついていくと神社に辿り着く。黒猫は、そこにある巨木の根元の空洞に入り込んだ。美々加もくぐってみると……。
しーん、と耳をすまして、廊下の物音を聞く。
「お手洗いに行きたくなったら、我慢しなくていいからね。そういうのはカラダに悪いから。授業中でも、はーい、先生、トイレ、って手を上げたら、あとはもう行っていいからね」
小学校での最初の担任、中山愛理先生に言われたとおり、はーい、先生、トイレ、と小さく手を上げてみる。
寝たままで。夏がけのお布団から、細い手だけを出して。いつの間にか、覚えのない半袖パジャマを着せられているみたいだ。
どうしよう。もちろん先生は部屋にいないし。
ただ、じっと我慢をしているのにも、限界がある。本当のぎりぎりになって、慌てるのも嫌だし。でもどうしよう。……ダメだ、もう、行く、と一気に体を起こしたのは五分後だったか。十分後だったのか。一瞬ふらついた体を立て直して、そのままの勢いで、みんなの出入りしていた方へ向かう。首振りの扇風機は、とっくに止まっているようだった。猫っ毛のうしろ髪が、幾筋かぺたっと首筋に張りついている。前髪もきっとぐちゃぐちゃだろう。漆喰の壁の向こう、襖の前に行き、黒丸のプラスチックに手をかける。
よく磨き込まれた、つややかな廊下に足を踏み出すと、みしっと小さく音がした。
木枠のガラス戸から、それほど広くもなさそうな庭が見える。ぼんやりした夕闇にひとつ、常夜灯のような白い光が丸く浮かんでいる。
どこだろう、ここは。
というより、やっぱり、まずお手洗いは。
廊下にスリッパがなかったから、そのまま裸足で行くと、やがて先の部屋から、明かりと笑い声、テレビらしい音がもれて来る。居間か食堂なのかもしれない。
どうしよう、と思わず足を止めたところに、
「やだねえ、もう」
明るく言いながら、一番最初に見た年輩の女の人が出て来た。
丸っこい体を木綿のワンピースに包んで、なんだかびらびらの、短いエプロンをしている。声は部屋の中の人たちに対してのものだったのだろうか。こちらに気づくと、
「あら、起きて平気なの」
と、少しびっくりしたように言った。「熱引いた?」
「……うん」
「お腹すいたでしょ」
ううん、と首を横に振って、トイレ、と小さく口にすると、
「あら、お手洗い? やだ、あっちじゃない、大丈夫? いける?」
と身を寄せて来た。
どうしてだろう、全然知らない人のはずなのに、不思議と怖い感じがしない。
いかにもぽっちゃり体型で、やさしげだからだろうか。それともこちらがまだ半分くらい夢見心地のせいだろうか。心細いところで最初に顔を見て、一種の刷り込み現象、親しみを覚えたのかもしれない。
うーん、と曖昧な返事をして、甘えてトイレまで連れて行ってもらう。
「待ってようか? 外で」
やさしい女の人に言われ、
「それはいい」
です、を口の中だけで言う。
ドアは木の引き戸で、電気のスイッチは中にあった。木製のサンダルを履き、床のタイルをかちんと鳴らしたときには、困ったーっ、ともう顔を大きくしかめたくなった。
苦手な和式だった。
外のお手洗いなら、黙って洋式が空くのを待つところだけれど、個人のお宅だし、もういよいよ我慢もできなくなってきた。いろいろ古風な家みたいだから、これで仕方がないのかもしれない。
……でも変わっている。和式の便器に蓋がかぶせてある。そういうのは、はじめて見たかもしれない。
それでおそるおそる、プラスチックの蓋についた把手をつかむと、それだけでもう、うぐっ、と鼻腔をつくモノがあった。
このトイレ、ぐざいがぼじれだい。後半はもう口でしか息ができない。そしてさらなる衝撃、蓋を取った下に、深く、暗い穴がつづいているのが見えた。
府中のおばあちゃんから話だけ聞いたことがある。
くみ取り式。
通称……ぼっとん便所。
なんでこの家には、こんな無茶なトイレがあるのだろう。
まさか。
ここは山奥かなにかなのだろうか。
よく見ればトイレットペーパーもない。どこを探しても。ホルダーごとない。
かわりに和式便器の向こうには、上からだらんと茶色いテープみたいなものがつるされ、右隅に置かれた籐のカゴに、なんだかごわごわしていそうな、再生紙でもそうはならないような、ごつい四角い紙がどっさりと積まれている。
わからない。なにをどう使うのか一切わからない。
無理。絶対に無理。漏れる。助けて、と泣きかけていると、
「どうしたのー、さら、大丈夫?」
ドアの外から声がした。とんとん、とんとととん、と小気味よくノックをする。今度は若い方のお姉ちゃんみたいだ。
さら? さらって誰? という疑問はおいて、
「やだー、ぐびどりじぎやだー」
半泣きで思わず口にすると、
「なにー、なに言った?」
と、ずいぶん困ったような声がドア越しに聞こえた。