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 堀隆太郎が最初の三人を殺したのは、新宿の裏通りでの事だった。道を歩いていた堀は三人に因縁をつけられ、人気のない工事現場に連れ込まれた。堀は逆に二人の指を折り、その後、鉄パイプ等で殴打し殺害、残った一人が裕福な家の息子だと知るや、二十四時間稼働している銀行ATMコーナーに連れて行き、限度額ギリギリまで金をおろさせた。金を奪った後、堀はATMコーナー内で相手の指を折り、足で顔面を蹴り死亡させた。その一部始終は防犯カメラにも映っていた。床に散らばった歯を拾い上げ、ポケットに入れるところまで。
 資料を読み進めながら、笠門は胃のあたりが不快にうずくのを感じた。
 隣の部屋では、ピーボが静かに眠っている。床にお気に入りのタオルを敷き、その上で丸くなって眠るのだ。
 笠門の自宅は世田谷にあるマンションの一階だ。2DK駐車場つきで小さいながら庭がついている。巡査部長の払える家賃ではないが、総務課に配属となった後、無償で提供されていた。どう手を回したのかは知らないが、須脇の計らいだろう。むろんそれは、笠門のためではない。ピーボのためだ。
 実際、笠門の生活はピーボを中心に回っている。朝六時に起床し、ピーボを散歩に連れて行く。雨の日も雪の日も、基本的には休まない。通る道は毎日変え、時には二時間近く歩く事もある。
 食事をとらせ、ブラッシングをし、訓練も行う。ステイ、ダウン、シェイクなどの動きを確認し、同時に健康状態も見る。
 休憩を挟んだ後、車で警察病院に向かい、勤務に就く。
 何事もなければその繰り返しだが、今回のように特別病棟案件が浮上した場合は、変則的となる。ピーボにとっても、そうした変化はあまり良いとは言えないのだが、実のところ、特別病棟案件こそが、笠門とピーボの隠された本業なのであるから、仕方がない。
 笠門が捜査に入ると、病院は少しの間、休む事となる。子供たちに寂しい思いをさせてしまうし、ピーボにも負荷をかけてしまうが、そこは上手く調整していくよりないだろう。
 資料の映るモニターから目を外し、伸びをする。いつもながら、気の進まない案件だった。
 しかし、ピーボの前で沈んだ表情を見せるわけにはいかない。ピーボは笠門の気持ちに敏感だ。すぐに悟ってしまう。
 ピーボの前では、常に明るく前向きに。
 そう言い聞かせてはみるものの、今回ばかりはさすがに厳しい。
 パソコンの脇に、穏やかに笑う黒人女性の写真がある。彼女は笠門をハンドラーにしてくれた師匠だ。アメリカからピーボを連れて来日、警察犬訓練センターの一隅で、毎日、笠門にハンドラーとしてのノウハウを教えこんでくれた。
 期間はわずか半年だったが、警察犬担当であった事も幸いし、ピーボとの信頼を築く事もできた。
 彼女は俺たちの本当の目的を、知っていたのだろうか。死にかけた囚人の弱みに乗じて、秘密を聞きだす。社会正義のためとはいえ、何とも薄汚いやり方じゃないか。
 ひとしきり悶々とした後、笠門はすべてを脇に押しやり、資料の精読に戻った。
 今は職務をこなしていくよりない。ピーボのためにも。
 三人を殺害した堀隆太郎は、警察の非常線をすり抜け、姿を消す。彼の潜伏先が判明したのは、二ヶ月後だ。埼玉で男性の他殺体が見つかり、犯行手口、目撃談などから、堀の手によるものと断定されたからだ。堀は被害男性のアパートに転がりこみ、二ヶ月間、潜伏していたらしい。二人に面識はなく、堀が正体を隠し男性に近づいたものと思われた。
 警視庁は埼玉県警と合同捜査本部を設置し、総動員態勢で堀の行方を追った。しかしその後、約九ヶ月にわたり、警察は翻弄される。
 堀は見ず知らずの人間を襲撃し、金を奪った後、殺害。金が尽きると次の獲物を探すという行動を繰り返した。いつどこで誰が襲われるのか、まったく予測がたたず、警察は常に後手に回る事となったのだ。
 堀が捜査の目をかいくぐる事ができたもう一つの要因は、彼の行動がただ逃げる事のみに特化していたためだ。行動には何の目的もなく、欲望もなかった。保存食を買いこみ、廃屋に二週間隠れ続けたり、ホームレスとして他人との交流を一切断ち、黙々と空き缶拾いをしていた事などが、後の聴取で明らかとなっている。
 なぜ殺したのかという取調べ中の問いに対し、堀は常に「さあね」と答え続けたと資料にはあった。
 各所で殺人を続けた堀も、二〇一六年一月、神奈川県川崎市の公園にいるところを地域課の警察官に見つかり、逮捕される。所持金は三十円で、手荷物等はなく、被害者たちから集めた歯も持っていなかった。
 問題は七人目の被害者──。
 笠門は核心部分の資料に移る。
 七件目とされる事件は、二〇一五年、十月三十日に起きていた。場所は東京都板橋区蓮根はすね六丁目の住宅街だった。被害者は、安田文吾やすだぶんご、六十二歳。一戸建ての自宅内で撲殺死体となって発見されている。
 発見者は、被害者とも顔見知りの交番勤務員、伊吹久いぶきひさし巡査部長で、数日姿を見かけないと近隣住人からの報告を受け、念のため自宅を訪問したところ、玄関のドアノブに血痕を認め異常を報告、室内を確認し遺体を見つけたと記述されていた。
 被害者は撲殺。右手人差し指を折られ、歯も数本欠けていた。財布等から現金がなくなっていた事などもあり、捜査員は堀の犯行と早期に断定。足取りを追うと共に、蓮根一帯の防犯カメラの映像などを確認、堀の確保に繋げようと懸命の捜査を行った──。
 結果としてすべては空振りであり、堀はその二週間後、東京都町田市で飲食店勤務の女性を殺害し金を奪って逃走している。
 逮捕後の取調べで堀は、全九件の殺人を認めている。
 とはいえ、警察には非協力的で、ほとんど口をきかなかったらしい。死刑は免れないと自棄になっていた可能性もある。
 堀は死刑判決を受け拘置所に。三年後、体調不良を訴え、検査の結果、膵臓癌であると判明する。医療センターに移送後、治療が行われたが、既に末期であり、余命宣告を受けた。
 堀が医療センターから警察病院特別病棟に移されたのは、先月の初めだ。
 移送の決定を下したのは誰なのか。須脇である可能性は高いが、さらなる上層部の人間とも考えられる。
 いずれにせよ、決定を下した人物は、堀に対し何らかの疑念を抱いていた事になる。抱いていたからこそ、ピーボを使い「秘密の告白」をさせようと企んだのだ。
 狙いは的中し、ピーボは首尾良く秘密の告白を引きだした。
 だからってなぁ……。
 笠門は頭の後ろで手を組んだ。
 安田文吾殺しの再捜査。それは果たして、正しい事なのだろうか。
 ヒタヒタと微かな音がした。
 顔を上げると、開けたままのドアの前に、ピーボが立っていた。どこか悲しげな目つきで、じっとこちらを見つめている。
「ピーボ、起きてきたのか。寝てないとダメだ」
 ピーボは笠門の言葉など気にかけず、ゆったりとした動作で部屋に入ってきた。
 仕事中のピーボとは打って変わり、普段の彼はいたってマイペースだ。笠門の指示をきかない事もしょっちゅうだった。実際、この家の主人はピーボであり、笠門は同居人にすぎない。
 ピーボは床に散らばった資料を鼻で突き始める。情報整理のため、プリントアウトしたものだ。
 笠門はあきらめて、立ち上がった。
「さあ、部屋に戻ろう」
 近づいてそっと頭をなでる。その手にピーボは顔を擦り寄せてきた。
「ピーボ、すまないな」
 笠門はピーボと共に隣の部屋へ行く。真ん中に丸まったタオルがポツンと置かれている。
 ピーボは自らそこに戻ると、またくるんと丸くなって寝る姿勢をとった。
 笠門は壁際に座ると、足を伸ばした。
「おやすみ、ピーボ」
 その声に安心したのか、ピーボは柔らかく目を閉じた。
 自室に戻った笠門は、散らかった資料を拾い集める。その一枚に、ふと目が留まった。先ほど、ピーボが鼻で突いていたものだ。
 こいつは……。
 思わずつぶやいていた。
 やはり調べてみる価値はあるのかもしれない。



 公園にやって来た渡辺彩名わたなべあやなは、たたんだエプロンを持ち、周囲をキョロキョロと見回しながら、近づいてきた。
 やって来た事を心底後悔している様子で、原因を作った笠門を険しい表情で睨んでいた。そんな寒々とした雰囲気を一気に暖めてくれたのが、ピーボだった。
 彼はベンチに座る笠門の横に腰を下ろし、彩名の目をしっかりと捉えていた。
「え……犬ですか」
 彩名が言った。
「ピーボって言うんだ。仕事のパートナーと言ったところかな」
「仕事の? じゃあ、警察犬?」
「ちょっと違うんだけど、まあそんなものだと思ってくれて構わない」
 笠門は立ち上がり、彩名に名刺を渡した。
「忙しいところ、申し訳ないね」
 彩名は目を丸くして、名刺に目を落とす。
「総務課? そんなところの人が、私の話を聞きたいんですか。それも、犬連れで」
 さっきまで見せていた後悔の色はもはやない。名刺とピーボに興味津々だ。
「頭、なでてもいいですか?」
「どうぞ」
 彩名は慣れた様子で、ピーボの頭を優しくさすった。
「すごく大人しい。どうやってしつけしたんですか?」
「まあ、いろいろ訓練をしてね」
「犬、飼いたいんだけど、今の部屋、ペット禁止だからなぁ。あ、ごめんなさい、昼休みあんまり長くないんで」
「そう。じゃあ」
 笠門はベンチの右端に移動し、隣に座るよう彩名を促す。座った彩名は、笠門とピーボに挟まれる形となった。左手でピーボを触りながら、彼女はリラックスした様子で、こちらの質問を待っている。
「電話でも話したけど、二〇一六年にあなたが書いた記事についてききたいんだ」
「あんな記事、よく見つけましたね」
 彼女はピーボに目を落としたまま、低い声で言った。触れられたくない様子が、ひしひしと伝わってきた。
「紙媒体ではボツを食らって、ネット掲載になったんですけど、結局、三十分もしないうちに削除されちゃった」
「捜査に関係あるものは、何でも集めてるから」
 彩名は不安げに笠門を見る。
「私、もしかしてやばい事になってます?」
「いや、その点は心配ない。事件の捜査資料を整理していたら、記事が出てきたので、一応、確認を取って来いと言われただけなんだ」
 本当半分、嘘半分だ。
「記事を書いたとき、君はフリーのライターだった?」
「まあ、そうですかね。記者志望だったけど就活でマスコミ関係全部落ちて、知り合いからネット記事中心に仕事を回してもらって……とかしてた時期ですから」
「それにしては、随分と思い切った内容だ」
「知り合いから人手が足りないからって声かけてもらって、書いたんです。ビックリするほど手応えあって。自分、この仕事向いてる? とか思いましたよ。これで人生変わるかな、なんてね。まあ、本当に変わりましたけど。良くない方に」
「いまはアルバイトだけで?」
「ライターはあきらめて、普通に仕事探したけど、なかなか見つかるもんじゃないし。今もスーパーでバイト。多分、来月で辞めて、国に帰ると思います」
「国はどこ?」
「福井なんですけどね。戻ったら、犬、飼おうかな」
 ピーボに笑いかけながら話していた彩名は、催眠術から覚めたようにはっとして顔を上げる。
「また余計な事喋っちゃいました。この犬、ピーボでしたっけ、すごく癒やされてつい喋っちゃう」
 笠門は苦笑しつつ、本来の質問へと移った。
「あなたが書いた記事は、蓮根六丁目で殺害された安田文吾さん。彼を殺したのは、堀隆太郎ではない、とするものだった」