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 コーシローの里親になってくれる人は週末になっても現れなかった。
 月曜日の放課後、顧問の五十嵐と用務員の蔵橋に案内され、校長がコーシローを見がてら部室に来た。生徒会長の藤原がち上げた「コーシローの世話をする会」のメンバー十六人とともに、部室の椅子を集め、優花は話し合いの席を設ける。
 部室の隅では、早瀬が制服の上着を脱ぎ、カーキ色の作業服に腕を通していた。着替え終わると席に座り、今度はゴミ箱を引き寄せ、その上で黒い棒をナイフで熱心に削っている。
 早瀬の邪魔をしないように声をひそめ、ここ二週間、犬の里親を探したが見つからないと、藤原が校長に説明をした。
 藤原の話を補足するように、犬の飼育に詳しい蔵橋が、コーシローは捨て犬の可能性が高いという話を続けた。
 ケージのなかで眠っているコーシローに蔵橋が目をやった。
「あのコはここに来たときは砂まみれでした。もしかしたら海に捨てられて、そこから歩いてきたのかもしれません」
 鈴鹿山麓にある中学出身の女子が不思議そうに聞いた。
「あれ? 海って、ここから近いんですか」
「近くはないがな」
 五十嵐が駅の方角を指さした。
「まっすぐに行ったらそのうち出てくる。校歌にもあるだろう、『めぐる潮の音』って。ただその間に近鉄とJRの線路が走っているし幹線道路もある。この犬にとっては、かなりの距離だな」
 席の後方から男子の声がした。
「そんな距離を必死になって、こいつは八高まで歩いてきたってことですよね」
 校長が、声がした方に語りかけた。
「しかし君、捨て犬だとしたら、いくら待っても飼い主は現れないぞ」
 藤原が校長に向かって手を挙げながら、周囲を見回した。
「みんな、発言するときはちゃんと手を挙げて。先生にまず自分の名前を名乗ろうや。僕は生徒会長の藤原、藤原貴史です」
 よく通る声で堂々と名乗ると、藤原がなめらかに話し出した。
「実は近所で何人か里親に名乗りを上げてくれた人もいたんです。でも実際にコーシローを見ると、みんなやめてしまう。子犬ならいいんだけど、こいつ、ほとんど成犬になりかけてるから。中途半端に大きくなった犬って、いまいち情がわかないらしいんです」
「それもあって捨てられたのかもな」
 五十嵐が腕を組む。校長がためらいがちに口を開いた。
「では、引き取り手がないとなると、最終的には保健所のほうに連絡を」
 待ってください、と優花は手を挙げる。
「三年生の塩見優花です。まだ、これから引き取り手が現れるかもしれません」
 塩見さん、と校長がおだやかな目をこちらに向けた。
「この犬はこれからさらに大きくなっていく。成犬になったら、いよいよ里親は出てこないだろう。たとえば、塩見さんの家では飼えないの?」
「うちは家で食べものを扱っているので、動物は飼えないって言われて」
 藤原が再び手を挙げた。
「すみません、藤原です。校長先生、よろしいですか。僕ら『コーシローの世話をする会』では、このまま八高で飼えないかって意見が出ています。餌代や予防注射代などのカンパを集めました。家からペットフードやトイレグッズを持ってきてくれる人もいます」
「藤原君の家では飼えないのか?」
 校長の問いかけに、藤原が一瞬、言葉に詰まった。
「妹にアレルギーがあって。それ以前にうちの親、犬が大嫌いなんです」
「生徒のなかにもアレルギーを持っている人がいる。そこへの配慮は? それから仮にこの犬が誰かを噛んだら、その責任は誰が負うんだ?」
 用務員の蔵橋が「おとなしいコです」とコーシローを見た。
「無駄吠えもしないし。ずっと大切にされてきたんでしょう。人を信頼しています」
 うちで飼うことも考えたんですが、と五十嵐が校長に語りかける。
「ペット禁止の住まいでしてね。管理組合にもかけあったんですが、駄目でした。引き続き我々も里親を探しますから、それまで学校に置いてやるってのは無理ですかね?」
「私立ならそれもできるだろうが、うちは公立だからね。前例がない」
 校長がスーツのポケットをさぐって煙草たばこを出した。すぐに思い直したような顔で再びポケットに戻す。
「それに今回の一件で、八高に捨てたら面倒を見てもらえると、犬や猫をどんどん捨てていかれたらどうするんだ? そもそも自分たちでは飼えないから、学校で飼おうという発想がおかしくないか。安易でしょう」
 安易という言葉に、優花はケージのなかのコーシローを眺める。
 生後間もない可愛い子犬だったら、引き取ってもらえたのだろうか。
 外に目をやると、窓ガラスに自分の姿が映っていた。
 子どもではないが、大人でもない。飛び抜けて優秀ではないが、まったくできないわけでもない。
 中途半端な存在。コーシローは自分とよく似ている。
 言葉が口をついて出た。
「安易かもしれませんが」
 全員の視線が集まり、優花は言葉に詰まる。深く息を吸い、もう一度同じ言葉を繰り返した。
「安易かもしれませんが、では、学校に迷い込んできた犬を見て見ぬふりをして、見殺しにすればよかったんでしょうか。私たちは、どうするべきだったんでしょう? どうすることが、安易ではないやり方なんでしょうか」
「難しい質問だ」
 そう言ったきり、校長が考えこむ。それから皆が黙った。
 沈黙に耐えきれず、優花はうつむく。
 言いすぎた気がする。しかも何の解決にもならないことを言ってしまった。
 突然、部屋の隅から拍手のような音がした。
 その音に勇気づけられ、優花は顔を上げる。
 イーゼルの前にいる早瀬と目が合った。まっすぐな眼差しでこちらを見ている。
 小気味よい音を響かせ、彼は指で紙を弾いていた。
 指先を布で拭きながら、「ちょっといいですか」と早瀬が立ち上がった。
「三年生の早瀬光司郎です。僕はその犬とはまったく関係ないんですけど……」
 早瀬がケージに近づき、眠っているコーシローを抱き上げた。
「正直、それほど愛着もない。でも勝手に僕の名前をつけられたあげくに保健所で殺処分。それは非常に気分が悪い」
 目覚めたコーシローが早瀬の肩に前脚を置き、首筋の匂いを嗅いでいる。愛着はないと言うわりに、優しくその背を撫でると、早瀬が校長にコーシローを差し出した。
 意外にも手慣れた様子で校長が受け取り、小さなため息をもらす。
「早瀬君、保健所に引き渡したらすぐに殺処分になるわけではないよ。無事に里親が見つかるケースもある」
 そうかもしれませんが、と早瀬が校長の前に立つ。
「公立の小学校でうさぎや鶏を飼っているのに、どうして公立の高校で犬を飼ってはいけないんですか?」
「それはそうだな」
 五十嵐が何度もうなずき、校長に顔を向けた。
「小学生でもちゃんと飼育してますからね。八高の生徒なら、それはきちんとやれるでしょう。ハチコウに犬。しゃれもきいてる、なあ、コーシロー」
「僕に言ってるんですか、それとも犬?」
 両方だ、と五十嵐が手を伸ばし、校長からコーシローを受け取った。
「いかがでしょう、生徒が責任持って面倒を見るなら、しばらくの間、美術部の部室の一角を提供してもいい。顧問の私はそんなふうにも考えるんですが」
「前例がない」
 五十嵐に抱かれたコーシローが、校長のもとに戻ろうとしている。その様子を見ながら、校長が言葉を続けた。
「しかし……いいでしょう。飼い主が現れるまで飼育を許可する。ただし、他の生徒や学校側に迷惑をかけるようなことがあれば、即座に新たな対応を検討するが」
 先生、と藤原が手を挙げた。
「つまり、それってOKってことですか。……言い直しますね。コーシローに居場所を提供していただけるということですか」
「そういうことだ。至急、世話人の窓口を決めて私に報告するように」
 校長が立ち上がり、全員を見回した。  
「責任とは何か。命を預かるというのはどういうことか。各自、身をもって、それを考えていきなさい」

 

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