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 二階のキッチンに上がると、両親と祖父が夕食をとっていた。
 優花、ご苦労様、と言って母が立ち上がり、味噌汁を温め始めた。
「相羽さんから内線があったけど、子どもがケガしてるんだって?」
「自転車で転んだみたい。お祖母ちゃんが連絡先を聞いてる」
 味噌汁をすすった父が、「俊子としこ」と母を呼んだ。
「おふくろだけじゃ心配だ。あとで行ってやって」
「優花のごはんをつけてから」
「いいよ、それなら自分でやる。というか、もう一回、店へ戻るよ」
「いいのよ、優花は座ってて」
 布巾ふきんで手を拭くと、母が一人分の食事の用意を始めた。
 祖父が開いたこのパン工房は、昔は中高生や近所の常連客を相手に細々と営まれていた。それが十五年前に父の発案で石窯いしがまを導入してバゲットや食パン、惣菜パンに力を注ぎ、イートインコーナーを設けたことで、住宅街のファミリー層が足しげく来店するようになった。
 三年前には六つ年上の兄も家業に加わり、営業や配送を担当している。市内の飲食店に石窯で焼いたパンと菓子をおろす仕事も請け負い、工房の仕事はますます拡大していた。
 それなのに母は今も工房の経理と家事を一人で行い、空いている時間は店の接客もして、休む暇がない。
 母が味噌汁とご飯を食卓に置いた。
「優花、この前の模試の結果はどうだったの? お母さん、見せてもらってないけど」
「あまり良くなくて」
「良くなくても結果はちゃんと見せて」
 そうだ、と祖父が音を立てて味噌汁をすすった。
「試験だってタダじゃない。親が金を出してるんだから、結果ぐらい見せろ、食べる前に」
 仕方なく三階に上がり、母に模擬試験の結果を見せた。母が悲しげに首を横に振る。
「優花、だんだん成績が下がってるね。一年生のときは校内順位はもっと上だったのに。やっぱり……」
 店の手伝いが、と母が言いかけるのを察し、優花は声を張る。
「単純にね、一年生のときと違って、みんな頑張ってるから」
「優花だって頑張ればいいじゃない。やっぱり店の……」
 黙々と食事をしていた父が食卓に箸を置いた。
「俊子、そんなにガミガミ言うな。また頑張ればええやん」
「そうだ。勉強ができてもパンだねはふくらまん。おい、バサロをやっとるぞ」
 祖父がテレビのボリュームを上げた。背泳で金メダルを獲った鈴木すずき大地だいち選手が、バサロ泳法の話をしている。
 お茶を飲みながら、父もテレビに目を移した。
 お父さん、と母の声に非難の響きがこもった。
「優花は受験生なんだから、もっと勉強に専念させてあげて」
「俺もそうしてやりたいんだが、すまんな。来る人来る人、おふくろと相性が悪くて辞めていく。相羽さんとはおふくろ、仲良くやれるのに」
「急がなくてもいいだろう。家族が働く分には銭はかからん」
 本当にそうなのだろうか?
 食事を口に運びながら、優花は黙って考える。
 祖父は兄には給料を出している。その給料があるから、兄はこの家を出て部屋を借り、派手な車を乗り回して仕事をしている。
 自分や、そしておそらく母や祖母には報酬は出ていない。しかし、長男の兄だけは別だ。
「うーっす」とも「おーっす」ともつかぬ挨拶をして、兄がキッチンに入ってきた。
 父と祖父も似たような挨拶を返している。
「お母さん、これ、処理しといて」
 母に請求書を渡すと、兄が食卓に置かれた模試の結果を見た。
「へえ、これが優花の成績? なんじゃこれ。校内順位、九十八番。あーあ、中学では一番でも、ハチコウに行けばお前もただの人やな」
「しょうがないでしょう」
 母がなぐさめるように言い、兄の前にお茶を出した。
「たくさんの子が来るんだから。五十校から一番が集まったら、誰かは五十番になるのよ」
 しかし自分はその五十番にも入っていない。奥歯を噛みしめたとき、兄が笑った。
「カリカリすんな、優花。いいんだよ、これで。ガリ勉の女なんてちっとも可愛くない。男ってのは自分よりできる女は嫌いだ」
 そんな男はいらない。さらに奥歯に力がこもった。
「やめなさい、いさむ。そんな言い方しないの」
 母が険しい目を兄に向けた。
「まあ、俊子さんは賢いからな」
 祖父が音を立ててお茶をすすった。
「うちで一番賢いのは金庫番の俊子さんだ。わしらはただの兵隊、働きアリだ」
「そういう言い方はやめようや」
 父が、祖父の前にあるテレビのリモコンを取り、さらにボリュームを上げた。
 商業高校を卒業後、製菓用品を扱う店の経理部にいた母は、働きながら簿記の学校に通い、簿記一級の資格を取った人だ。父が望む石窯を設置するために資金繰りをしたのも、イートインコーナーを作ろうとアイディアを出したのも母だと聞いている。
 母がいなかったら、この工房はここまで大きくなっていない。
 それなのに祖父も祖母も、最近では兄までも母に強く当たる。
 かきこむようにして食事をして、優花は立ち上がる。
「私、お祖母ちゃんと代わってくる。お母さん、ゆっくりしてて。夜の店番も私やるから」
「いいのよ、優花。あなたは勉強しなさい」
「店番しながら単語を覚えてる」
 祖父が大きくうなずいた。
「そうだ、優花。勉強なんてどこでだってできる。机の上で勉強するのがすべてじゃないぞ。俊子さん、お茶」
 母が大きな音をたて、椅子から立ち上がった。呼応するように優花も席を立つ。ついでに祖父の前のリモコンをひっつかんで大きな音量のテレビを消した。 
 驚いたのか、祖父が目を泳がせている。少しだけ気分がすっきりした。

 店の前の一本道で泣いていた子どもは、迎えに来た若い母親と一緒に帰っていった。近くの住宅街に住む子どもで、近所の里山に一人で出かけた帰りだという。
 パートの相羽が帰ったあと、店番をしながら、優花はポスターの制作を続ける。 
 ラジオから八時の時報が流れてきた。そろそろ店じまいの時間だ。
 犬の絵に色を塗り終え、優花は店の窓をすべて開ける。
 稲穂の上を夜風が心地よく渡ってきた。夏の間はうるさいほどだったかえるの声は消え、かわりに鈴虫の声が響いている。
 床をモップでひととおり拭いたあと、外を眺める。
 一本道のはるか向こうに、自転車のライトが見えた。
 窓を閉め、優花は特価になったパンの棚に近づく。
 祖父自慢のチョココロネと照り焼きチキンのサンドウィッチを店の袋に入れた。それから棚を見回し、ピンクのアイシングがかかった花のクッキーを入れようとして手を止める。考え直して、犬の形のクッキーを入れたところで店の扉が開いた。
 紙袋をレジ台の奥にしまい、「いらっしゃいませ」と優花は声をかける。
 大きなボストンバッグを肩に掛けた早瀬が店に入ってきた。
 木曜日のこの時間に来る客はいつも決まっている。コーシローの名前の元になった男、美術部の早瀬光司郎だ。
 挨拶をしても、彼は軽く頭を下げるだけだ。いつも無表情で三割引きになった食パンを持ってレジに来て、会計が終わると足早に立ち去る。
 早瀬が食パンを持ってレジに来た。しまいこんでいた紙袋に手を掛け、優花は声をかける。
「あのう、早瀬君」
 財布を手にした早瀬が不審そうな目をした。その視線の先に描きかけのポスターがあるのに気付き、あわてて優花は紙を裏返す。
「それ」と早瀬が小声で言い、ポスターを指さした。
「あの犬?」
「よくわかったね。色を塗ったらさらに変になっちゃって……」
 早瀬が一瞬目を閉じた。おかしなものを見てしまったという表情だ。
「そんな、絶句しないでよ。笑ってくれたほうがまだ傷つかない」
 早瀬は週に三回、名古屋の美大専門の予備校に通っているらしい。聞いた話では美大のなかでも最難関の、東京藝術大学を志望しているそうだ。
 早瀬が前髪を軽くかき上げた。顔立ちが整っているせいか、この人の仕草や表情はどこか冷たく見える。
「それ、どこかに貼るの?」
「駅、とか? でもだめだね、この出来では」
「急ぎ?」
「ちょっとだけ」
「ちょっとって、どれぐらいなのかわからない」
 実のない返事をとがめられた気がして、急ぐ理由をあわてて優花は言い添える。
「週明けに、ワンちゃんをどうするかって校長先生と話をするから、それまでに里親を見つけたくて。だから急ぎ。私はポスターの係なの。藤原君は生徒会でえさ代や予防注射の募金活動を始めてる。いっそ学校で飼えないかって署名運動をしようって話も。すごいよね、藤原君は」
「それぐらいやるさ、あいつなら」
 苦々しげな口調で、早瀬は東京の難関私大の名前を挙げた。
「藤原はあそこの推薦入学を狙ってるから。生徒会の役員をずっと務めているのもそれ狙いって噂だ。そういう活動をしておくと選考のときに有利になるらしい」
「それだけじゃないと思うよ。だって署名運動なんかしたら、学校から鬱陶うっとうしがられて推薦もらえないかもしれない」
「うまく立ち回るさ、あいつなら」
「早瀬君って、そういうことを言う人なんだ、すごく意外」
 反論するかと思ったが、早瀬がうつむいた。
 チョココロネとサンドウィッチを入れた袋を優花は早瀬に差し出す。
「これ、よかったら持っていって。あのワンちゃん、私たちがふざけて呼んだせいで、すっかり早瀬君の名前になっちゃって。……昨日も一年生に声かけられてたね」
「『こら、コーシロー!』って呼ばれて振り返ったら、あの犬が粗相してたよ。それで『コーシロー、こんなところで小便するな』って言われた」
「ほんと、ごめん」
 小さく手を合わせ、優花は袋を早瀬に押しつける。
「これ、ささやかだけどおび」
「いい、別に」
 早瀬が袋を手で押し戻した。「遠慮しないで」と優花は再び差し出す。
「いいの、どうせ捨てちゃうから。食パン以外もうちのパン、結構いけると思うの。祖父と父が毎朝丁寧に仕込んでいるから」
「本当にいいって」
 財布から食パン分の硬貨を出すと、早瀬がトレイの上にきっちりと並べた。
「いつも特価品しか買わないからって、食うに困ってるわけじゃないよ」
「そんなふうに思ってないけど」
「画材なんだ、消しゴム代わり」
「食べるわけじゃないんだ」
 そうだよ、と小声で言うと、早瀬が食パンをつかんだ。
「あっ、待って、早瀬君、袋、袋」
 ドアを開け、早瀬が店を出ていく。あとを追ったが、自転車を立ち漕ぎして、早瀬は走り去っていった。