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 五十嵐に近づくと、早瀬光司郎の席に白い犬がいた。まだ小さくて、なぜか砂まみれだ。
「どうしたんですか、この犬? 先生の?」
「俺のじゃないよ。藤原ふじわらから連絡受けてさ」
「部室に来たら、光司郎の席にこいつがちょこんと座ってたんだ」
 チェッカーズの藤井ふじい郁弥ふみやのような長めの前髪をした藤原貴史たかしは生徒会長で、生徒会の役員を三期務めている生徒だ。気さくで成績が良く、誰とでも気兼ねなく話をする彼は、男女の間でほとんど交流がないこの学校ではたいそう目立つ。
 藤原が白い犬の前にかがむと、頭を撫でた。
「塩見さんも呼んでみな。コーシローって呼ぶと、こいつ尻尾を振るんだよ」
 試しに「コーシロー」と呼びかけると、尻尾を振りながら優花の手をめた。むくむくとした白い毛とれた耳が愛らしい。
「ほんとだ。すっごく尻尾振ってる。どこのコだろう?」
「それがわかんなくて。なあ、高梨たかなし
 藤原の言葉に、美術部の新部長、高梨りょうがうなずく。丸っこい目をした彼は絵を描くよりも、美術史のほうに興味があるらしく、部室でいつも画集や歴史書を広げている。
「僕らも困ってて。とりあえず相談しようってことで、五十嵐先生に来てもらったところです」
「相談されてもなあ」
 五十嵐が白い犬を抱き上げ、背中を撫でた。
「犬のことはよくわからん。用務員の蔵橋くらはしさんにも連絡したんだが、なかなか来ないな」
「遅くなりました」
 品の良い声がして、灰色の作業服を着た蔵橋が現れた。きれいな白髪の蔵橋は声も物腰も柔らかく、五十嵐とは仲が良い。
「すみません、五十嵐先生。電球の取り替えに時間がかかりまして」
 五十嵐が抱いている犬を見て、蔵橋が目を細めている。
「これがその犬ですか。可愛いコだ。どれ……オスですね。プードルとダックスフントあたりが掛け合わさったような」
「雑種ってことですかね」
「おそらく。これ、ボクちゃん。ちょっと口を開けてごらん」
 蔵橋が上あごを押さえると、犬は素直に口を開いた。
「抵抗なく口を開けますから、ある程度のしつけもされていますね。子犬の域を出て、そろそろ大人になりかけたあたり」
「飼い犬ってことか。迷ってきたのかな」
「あるいは捨てられたか」
 蔵橋が犬の口から手を離した。
「どうしてこんなに砂まみれなのかわかりませんが、しばらく保護してやったほうがいいかもしれません」
「じゃあ飼い主を捜すか。貼り紙でも作ろう」
 よし、とうなずき、五十嵐が声を張った。
「誰かポスターを描いてくれ。白いふかふかの毛の犬を八高で預かってますって」
 ええっ、と抗議の声が部員たちの間からあがった。
「なんだよ、お前ら一応美術部だろうが。清香さやか、お前が描け」
「私が? ですか?」
 一年生の赤井あかい清香が不安げな顔をした。
「擬人化したワンコなら描けるけど、本格的な犬を描くってのは、無理が……」
「本格的な犬ってどういう犬だ? いいから描いてみろ」
 えー、と言ったあと、赤井が隣にいる男子生徒に目を向けた。
笹山ささやま君は美術の先生志望だよね、笹山君が描きなよ」
「いや、あの……」
 笹山が五十嵐をちらちらと見ながら言い淀む。
「あまりに難しいんで、最近志望を変えて。僕、国語の先生になろうかと」
 ちょっと待て、と五十嵐が犬を床に下ろした。
「お前、国語の先生も難しいぞ」
「夏休みにいちおう美大の予備校に行ったんですけど、もうむっちゃ、うまい奴ばっかで。光司郎先輩が大量にワラワラいる感じ?」
 それは怖い、と上がった声に、「だろ?」と笹山が応じる。
「美大志望なんて言ってた自分に恥じ入ったよ、俺は」
「先生、文字だけじゃだめですか」
 部室の棚にあった画用紙を取り、優花は「迷い犬」と大きくフェルトペンで書く。
「これに『写ルンです』で犬の写真を撮って、貼りましょう」
「なんだ、その適当に書いた字は」
 五十嵐が大きなため息をつき、ひたいに手を当てた。
「せめてレタリングをしてくれ。繰り返すけど、ここは美術部なんだから。塩見、お前は元部長だろ」
「くじ引きでなった部長に期待されても……」
 先生、と声がする。眼鏡をかけた、あまり見かけない一年生男子部員だ。
「塩見元部長が描いたポスターでは我が校の恥。看板作りにおいて、塩見先輩はまったく戦力になっていません」
「それならあなたが描いてよ。そもそも私の選択授業、音楽ですから」
「描いてもいいですけど」
 ちらちらとこちらを見ながら、一年生が言う。
「レタリングは得意ですよ。でも時間がかかるんで。犬のポスター描くヒマあったら、英単語のひとつも覚えたいというか」
 再びため息をつき、五十嵐が首を横に振った。
「いいから誰か、さくさくっと『迷い犬います』ってポスターを描いてくれ」
 誰のものかわからないが、ささやき声が聞こえてきた。
(先生が描いたら早くない?)
(完璧だよね!)
「もう俺、いやだ、お前らと話をするの。光司郎、光司郎はどこだ?」
 五十嵐の足元で犬が尻尾を振った。
「お前じゃないよ、人のほう。昨日も授業にいなかったけど、どうかしたのか」
「あいつ、お祖父じいちゃんが死にかけ……」
 おっと、と慌てて藤原が前髪をかきあげた。
「容態が悪いんで、病院に詰めてるって話です」
「それは知らなかった」
 五十嵐の表情が曇り、声が沈んだ。
 尻尾を振っていた犬が、急にあたりをおどおどと見上げたあと、うずくまった。何かにおびえているような様子に、優花は犬を抱き上げる。
 犬が身をすり寄せてきたので、そっと背を撫でた。
 震えているのか、手のひらにかすかな振動が伝わってくる。
 可哀想に、と蔵橋が犬の頭を撫でた。
「このコ緊張してる。飼い主に早く返してやらなきゃ」
 五十嵐が再びため息をつき、頭をいた。
「しょうがないな。とりあえず俺がワープロで貼り紙作って貼っておくか」
 先生、自分の手で描かないの? と女子の声がした。
「やかましい。先週新しいのを買ったばかりなんだ。使わせてくれよ」
 犬の居場所を作るように指示すると、五十嵐が部室を出ていった。
 
 コーシローと呼ばれると尻尾を振る白い犬は、美術部の部室の一角にケージが設けられ、保護されることになった。
 それから一週間、美術部の生徒たちは手分けをして近隣の施設や店に、迷い犬のポスターを貼った。しかし飼い主は現れない。
 十日目の月曜日、校長から犬の保護はひとまず終わらせ、飼い主が見つかるまで預かってくれる人を探すようにと言われた。そこで今度は受け入れ先を校内で募ったが、誰も名乗り出ない。

 

「めぐる潮の音」は、全5回で連日公開予定