シロー、シローという声に応えて尻尾を振ると、いつも頭を撫でてもらえた。大きな手のときもあるし、小さな手のときもある。
好きなものはミルク。小さな手がくれるパン。
毎日、夕方になると、小さな手がパンをミルクにひたして食べさせてくれる。
今日もそれを楽しみに寝ていたところ、突然、あたりが暗くなった。
不安になって吠えてみた。ところが何の反応もない。それから身体がずっと揺れ続け、気が付くと今度はまぶしい光のなかにいた。
「ごめんね、シロ。うちじゃやっぱり飼えなくて」
嗅いだことのない匂いと風に身体が震える。それでも聞き慣れた声に勇気づけられ、いつものように尻尾を振った。
「悪く思わないでね。お前は賢いから、自分で安全なところに行けるだろ。優しい人に拾ってもらいな。ね、シロ」
シロと呼ばれて、再び尻尾を振る。走っていくその人についていくと「シッ、シッ」と声がした。
「ついてくるな! お前はもう自由なんだよ、ほら! これあげる! 取っておいで!」
投げられたボールを追いかけた。それをくわえて戻ると、いつもみんなに喜ばれる。必死で追いかけ、ボールをくわえた。
振り返ったが誰もいない。あたりを走り回ったが、嗅ぎなれた匂いもない。
地面を嗅ぎながら歩いていくと、大きな物音がした。すさまじい勢いで、目の前をたくさんの黒い輪が転がっていく。
その音が消え、無数の黒い輪が動きを止めたとき、無我夢中で走った。しかし、どこまで行っても、いつもの匂いも声も見つからない。
歩き疲れてよろめいたとき、身体が宙に浮いた。
「おいおい、危ねえな、この犬、線路に入ろうとしてるぞ」
「子犬? 子犬にしてはちょっと大きいかな」
女があごの下をくすぐった。その手のやわらかさに、わずかに尻尾を振る。
「おっ、ここハチコウか。ちょうどいいや、ここに入れとけ」
「たしかに安全」
地面に下ろされると、大勢の人の匂いがした。そのなかに、なつかしい匂いがかすかにある。奥に進むにつれ、それはますます濃くなっていった。
(パンのニオイ……)
* * *
英語と数学の成績は悪くない。あと少し他の教科も頑張れば、もう一ランク上の大学が狙える。
担任の先生がそう言っている。
その「あと少しの頑張り」ができない。制服のスカートのひだを見ながら塩見優花は思う。
夏休み前には苦手科目を克服するための計画表を作った。休暇の約四十日間を十日刻みで四つに分け、基礎養成、復習、応用力養成、総仕上げと名付けたその表は我ながらほれぼれするほどの出来だった。
しかし予定は未定。計画通りには運ばない。
三日目までは計画通りにできた。四日目に寝坊をして、その日はだらだら過ごしてしまった。五日目に遅れを取り戻そうとしたが、気分がのらない。
六日目の夕方、台所でアイスを食べながらぼんやりしていたら、勉強しないのなら店を手伝ってほしいと祖母に言われた。
そこで、自宅一階にあるパン屋の手伝いをしたところ、その日だけのつもりが夏休み中、祖母の代わりに夕方からレジを手伝うことになってしまった。さらに計画は遅れ、夏休みが終わった今、宿題以外にやりとげたのは完璧な計画表を作ったことだけだ。
いや、違う。店のせいじゃない。
家の手伝いをするという名目で、自分は勉強から逃げていたのだ。
なぜ逃げているのか――。自分にそう問いかけたとき、先生の声がした。
「こら、塩見。ちゃんと聞いてるのか?」
「聞いてます。……いいんです、先生。私、高望みはしません。家から通えて無理なく入れる大学で十分」
「塩見は欲がないな」
予備校主催の全国統一模試の成績表を担任が差し出した。
「では志望校は変更なしで。気が変わったらいつでも相談してくれ」
職員室を出て、優花は成績表に目を落とす。
校内順位、九十八番。全国順位は見る気にもなれない。
三重県四日市市、近鉄富田山駅のとなり。八方向に光が広がる八稜星が校章の八稜高校、通称「ハチコウ」は県内有数の進学校だ。学区内にある五十近くの中学校で成績上位を占める生徒の多くはここに集まる。そして入学と同時に大半が悟る。
世の中、上には上がいる。同じような好成績をあげてきた生徒のなかでは、自分は思っていたほど優秀でも特別でもない。むしろ凡庸だ。
成績表を小さく畳み、優花はスカートのポケットに突っ込む。
大学入試は志望校の知名度と偏差値が上がるにつれ、全国から優秀な受験生が集まり、しのぎを削る。そんな激戦を勝ち抜くなんて無理だ。たとえ入学できてもきっと高校以上に自分の凡庸さに絶望する。だから今で十分。失敗が怖い。
何者でもない自分に絶望するのは、もういやだ。
背伸びはしない。肩の力を抜いて、自分らしくいられる場所がいい。
鎖骨にかかる髪をゴムで結わえながら、優花は美術部の部室に向かう。
夏休み前まで部長を務めていた美術部は、現在、体育祭に使う看板を制作中だ。しかし美術部といいながら、この部に美術が得意な生徒はほとんどいない。
この学校の生徒は全員、放課後の部活動を義務づけられているが、美術部の活動はゆるやかだ。体育祭と文化祭に看板を作ること以外は、一年に一つ作品を仕上げるか、名古屋で行われる美術展を見てレポートにまとめるだけでいい。それも原稿用紙二枚で済むので、優花を含めほとんどがレポート組で、放課後はただちに帰宅。いわゆる帰宅部だ。
そのなかでもごく少数、熱心に作品づくりに取り組む部員がいる。
美術系大学の志望者か、絵やイラストが好きな生徒たちだ。彼らはそれぞれ部室のなかにお気に入りの場所を持ち、そこに席を設けて絵を描いている。
昔は校舎だった木造平屋建ての部室棟に入り、優花は一番奥の部屋の前に立つ。
「おいおい、コーシロー」
よく通る男の声が響いてきた。美術の教員で、部の顧問でもある五十嵐聡の声だ。
バリトンの美声で恰幅がよく、髭をたくわえた風貌から、五十嵐は音楽の教師と間違えられるが、教職の傍ら二年に一度、市内のギャラリーで個展を開く現役の油絵画家だ。
驚いたな、と五十嵐の陽気な声がする。
「コーシロー、お前、ずいぶん小さくなっちゃって」
「お手! おっ、お手ができる。伏せ! あっ、伏せもできる」
「コーシロー先輩、どこまでもデキる男」
楽しげな声に優花は首をかしげる。
コーシローこと早瀬光司郎は東京の美大を目指している無口な同級生だ。部室にいるときはいつも近寄りがたいほど真剣に絵を描いており、ふざけているのは珍しい。
彼は中三の二学期に優花の家の近くに引っ越してきた。最寄り駅が同じなので通学時によく見かけるが、そんな自分でさえ、彼と親しく話をしたことはない。
軽く咳払いをして優花は部室に入る。
「みんな、ちょっと騒ぎすぎ。廊下に声が漏れてる。特に先生」
「まあ、そう言うな」
五十嵐が照れくさそうに笑い、優花を手招いた。
「塩見も見てみろ、驚くぞ」
「私、看板作りの手伝いに来たんですけど……あれ? 犬?」
小説
犬がいた季節
あらすじ
著者の母校と実在した犬をモデルに、18歳の恋や友情、逡巡や決意を瑞々しく描く。かつて高校生だった、そして今、青春の真っ只中にいるすべての人に贈る物語。今回は第一話「めぐる潮の音」をお楽しみください。
めぐる潮の音(1/5)
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