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 九月末の放課後、近鉄名古屋線を四日市駅で「やま線」に乗り換え、優花は家へと帰る。
 四日市は東は伊勢いせ湾、西は鈴鹿すずか山脈のふもとまで広がり、東西に幅広い。沿岸部は古くから東海道の宿場町として栄えてきた。
 昭和三十年代には臨海部に日本初の石油コンビナートが誘致され、それを皮切りに次々と埋め立て地に第二、第三のコンビナートが設けられた。高度成長期には大気汚染による公害が生じたが、二十年以上に及ぶ取り組みの結果、昭和六十三年の今、空気はきれいになっている。
 東の都市部に比べ、湯の山線が向かう西の地域は水田と里山が広がるのどかな場所だ。終点の湯の山温泉駅は御在所岳ございしょだけのふもとにある。その山麓さんろくに広がる豊かな丘陵地は長年、名古屋に通勤する人々のベッドタウンとして開発されてきた。 
 高角たかつの駅で電車を降り、黄金こがね色に色づいた稲穂のなかを優花はゆっくりと歩く。 
 祖父がおこした「塩見パン工房」は一生吹山いっしょうぶきやまと呼ばれる里山のふもと、高速道路沿いに広がる水田地帯にある。
 そのせいか店が面しているこの一本道は、舗装はされているが車の通りが少ない。一本道の先の東側には中学校、西側の先には高速道路の高架があり、そこをくぐった先は大規模な住宅街が広がっている。
 家に帰ると、店のほうから祖母の声が響いてきた。
「優花、帰ってきたん?」
 工房と自宅をつなぐドアから、白いブラウスに小麦色のエプロンをつけた祖母が顔を出した。
「遅かったじゃないか」
「ごめんね、電車一本乗り遅れて」
「早くしておくれ。もう部活はしてないんやろ?」
 部活がないのは、受験勉強をするためだ。しかし、夏休み中に始まった夕方の手伝いは、なかなかパートのスタッフが決まらないので今も続いている。
「着替えたらすぐ代わる。もうお祖母ばあちゃんはあがってもいいよ」
 三階の自室で店の制服に着替え、画用紙とペンを持って優花は一階に下りる。
 階段脇の工房をのぞくと、背中を丸めて父がスポーツ新聞を読んでいた。 
 夜明け前から働いているパン職人の祖父と父は、夕方のこの時間には仕事を終えている。二人の補助をしている祖母も朝が早いので、夕方はいつも疲れて不機嫌だ。
 店に入ると、パートの相羽あいば静子しずこがお客を送り出しているところだった。
「ごめんね、相羽さん、一人にして」
 大丈夫、と言いながら、相羽がずり落ちてきた銀縁の眼鏡を直した。
「それより優花ちゃんも受験で大変だね」
「早く誰か決まってくれるといいんだけど。相羽さんのおかげで助かってる」
 近所の住宅街に住む相羽は、中学生の息子が帰ってくる四時には家に帰りたいとのことで、これまでは三時でパートを終えていた。しかし、あまりに人手不足なので、今月からは週に三日、五時まで勤務時間を延長してくれている。
「応援してるよ、ほら座って」
 レジ脇のテーブルに相羽が椅子を置いた。
 今年、高校を受験する相羽の息子は八高を希望しているとのことで、いつも優しい。祖母といるときは許されないが、相羽と働くときは客がいない間に参考書を広げさせてもらっている。
「ありがとうございます、でも今日はポスターを描いてていいですか? 犬の里親募集の。……そうだ、相羽さんち、ワンちゃん飼いませんか?」
「うち、息子は飼いたがってたけど、夫が動物苦手で」
「そっか。うちも祖母が苦手で。食べもの屋でけだものを飼うなんてって言うんです」
「毛とか臭いとか気になるのかもしれないね」
 店内に流れているラジオから、パワフルな女性の歌声が流れてきた。浜田はまだ麻里まりの「Heartハート andアンド Soulソウル」だ。
 英語の「魂」と韓国の首都の名前をかけたこの曲は、十七日から始まったソウルオリンピックのNHK中継のテーマ曲だ。
 シンクロナイズドスイミングの解説を聴きながら、優花は画用紙に「ワンちゃんの里親募集」と大きくペンで書いた。
 しばらく眺めてから、鉛筆で犬の絵を描いてみる。
 真剣に描いたのに、犬とも狐とも猫ともつかぬ生き物になってしまった。
 ため息をついたとき、遠くから鳴き声のようなものが聞こえた。
「相羽さん、何か鳴いてる?」
 ラジオのボリュームを下げ、相羽は耳に手を当てた。
「何も聞こえないけど……」
「また猿が下りてきたのかな」
 空前の好景気の訪れとともに、鈴鹿山脈のふもとには多くのゴルフ場が建設されている。そのせいかこのごろ山を追われた猿が近所に下りてくる。
 ラジオから大きな歓声が沸いた。その歓声の底に、また何かが聞こえた。
 子どもの泣き声にも思え、優花は窓を開ける。
 朱色に染まった夕焼けのなか、稲穂が揺れている。その先の道に小さなものがうずくまっていた。
「あっ、相羽さん、あれ、子ども?」
 子ども? と聞き返し、相羽が落ちてきた眼鏡を上げた。
「あっ、そうみたい。えっ、どうしたんだろ? 泣いてるの?」
「私、ちょっと行ってきます」
 店を出て走っていくと、一本道の先で子どもが顔を伏せていた。かたわらには小さな自転車が倒れている。
「どうしたの、ボク? 転んだ? 自転車で」
 幼稚園か小学一年生ぐらいの小さな男の子が涙をぬぐった。
 膝をつき、優花は子どもと目線を合わせる。
「大丈夫? 痛かったでしょう」
 顔をぬぐう手を止め、男の子が優花の顔をまじまじと見た。
 不審そうな表情に、優花はあわてて背後の店を指さす。
「おねえちゃんはね、あそこのパン屋さんの子。おいでよ、手当てしてあげる、おうちはどこ?」
「だい……じょうぶ」
 かぶりを振って子どもは立ち上がろうとしたが、よろめいている。
 その前に座り、優花は背中を差し出す。
「よし、おねえちゃんがおんぶしてあげる」
 振り返って「ね?」と微笑ほほえみかけると、子どもは立ち上がった。
 歩き出した男の子の隣に並び、優花も足を進める。子どもが見上げてきたので手を出すと、小さな手がしっかりと握ってきた。
 怖がっているのだと気付き、優花もその手を強く握る。
 店に入ると、相羽は接客中だったが、レジの脇に救急箱が出してあった。子どもをレジ横の椅子に座らせ、優花は膝の傷を消毒する。
 絆創膏を取ろうとして立ち上がると、子どもと目が合った。
「大丈夫?」
 子どもがじっとこちらを見たあと、横を向いた。その目が今度は机の上の画用紙に注がれている。
「これ……いぬ?」
 絆創膏を手に取りながら、優花もポスターに目をやる。
「嬉しいな、犬ってわかる?」
「い、ぬ?」
「おねえちゃんたちの学校にね、可愛い犬がいるの。ボクんち、よかったら犬を飼わな……」
 子どもが顔に手を当て、再び泣き始めた。
「どうしたの? 傷が痛い?」
「いだぐ、ない」
 肩を震わせ、子どもが泣いている。
「寂しい? 怖い? 大丈夫だよ、すぐにおうちに連絡してあげる。パン食べる? クッキー好き?」
 店の奥の扉が開き、祖母が入ってきた。
「何を泣かせてるの、優花。こんな小さい子を」
「泣かせたわけじゃないけど……」
「もういい。相羽さんから話は聞いたから、奥でご飯を食べといで。かわいそうに、早く手当てしてやらんと」
 ため息をつきながら、祖母が子どもの膝に絆創膏を貼った。
「このぼうやのうちはどこ? 電話番号は聞いたん?」
「あっ、まだ……」
 祖母が再びため息をついた。
「勉強はできても、優花はこういうことにまったく気が回らん」
 貼ろうとしていた絆創膏をポケットに突っ込み、優花は外に出る。
 子どもの自転車を店の駐輪場まで引いていきながら、夕闇を見上げた。
 たしかに自分はどこかうといのかもしれない。
 でも、祖母が言うほど勉強ができるわけじゃない――。

 

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