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 来たときと同じ階段を早足で下り、翔太は海斗と大きく息をついた。今まで空気のない深海か宇宙空間にでもいたかのように、肺の中へ酸素が勢いよく流れ込んでくる。
 恐ろしい場所だった。だがそれを上回る栄誉に気分が高揚する。
「マジ凄い人だね、城有さんも、陣能さんも」
 海斗も上気した顔で言う。
「僕達って、つくづくラッキーだよね。あんな人達のビジネスを手伝えるなんて」
「でも、さっきの話からすると、『オメーら、やっぱ使えねえわ』って言われる可能性だってあるぜ」
「そうならないようにがんばらなきゃな。その点、翔太ならドジ踏むこともないから安心だよ。これが他の奴だったら、僕、心配で夜も眠れなくなりそうだ」
「それは俺だっておんなじだよ」
 二人して笑いながら歩き出す。
「……あれ?」
 翔太は自分の足が震えていることに気がついた。
「どうしたの」
「いや、なんでもねえよ」
 軽く答えて歩き続ける。だが翔太は、己の足の震えによって、陣能というヤクザの秘めていた何かを今さらながらに実感していた。
 陣能とは、これまで翔太が出会ったヤクザ達とはまったく異なる種であるとしか言いようはなかった。
 高揚が急速に霧散して、不安に取って代わっていくのを感じる。
 あんなヤクザと一緒にビジネスだって――?
「おい、翔太っ」
 海斗に腕を取られ、我に返った。
 クラクションが鳴らされ、すぐ目の前をトラックが横切っていく。横断歩道の信号は赤だった。
「なにぼんやりしてんだよ。嬉しいのは分かるけど、交通事故で死んだりしたら困るのは僕なんだから」
「すまない。これからは気をつける。おまえに迷惑はかけない」
「なに本気にしてるんだよ。冗談だって。でも本当に気をつけろよ」
「分かった分かった」
 何かを感知した思考が混沌へと形を変え、再び狂騒的な高揚となって溶明する。海斗の興奮が瞬く間に伝播してきて、もう何も気にならなくなった。

 それから二、三日おきに、翔太は城有に呼び出されるようになった。もちろん海斗も一緒である。
 指定された店へ行き城有と一緒に飲んでいると、大抵ボディガードを連れた陣能が後からやってきた。そして一時間ほど飲んで帰っていく。支払いはすべて城有持ち。言うまでもなく、陣能は翔太と海斗の器量を測っているのである。こちらもそれが分かっているから、気楽に飲むどころではない。
 陣能の目は、半分眠っているようでありながら、常にこちらの隙を窺っている。ほんのちょっとした挙動も見逃さない。その態度はときに冷淡で、またときに挑発的で、そうしたすべてがこちらを試すリトマス試験紙なのだった。
 ある木曜日、翔太はカタラの店内で海斗の来るのを待っていた。その日は店で落ち合い、新宿東口でのコールに行く予定になっていたからだ。
 スマホを確認するとLINEの着信があった。例によって城有からの呼び出しだった。[海斗が着き次第すぐに行きます]と返信してから、翔太は道後に声をかけた。
「道後さん、すんません、城有さんからの呼び出しなんで、今日はコール中止です」
 すると道後は嫌な視線をよこし、
「またかよ。おまえら、今月はほとんどコールやってねえだろ」
「でも、城有さんから――」
「分かってるよ。そうじゃなきゃこんなにサボらせるもんか」
 サボってるわけじゃねえよ――そう言いかけたが、かろうじてこらえる。
 だが道後はこちらの開きかけた口を見て、その後に続くはずだった言葉を正確に読み取っていた。
「なんだ、何か言いたいことでもあんのかよ」
「いえ、ありません」
「だろうな。いくらトップテン様でも、店じゃマネージャーの方が偉いもんな」
 カタラグループにおいて上下関係は絶対である。それが分かっているから、道後も強気に出られるのだ。
「城有さんもなんでこんな奴ばっかヒイキすんのかなあ。ちょっとは俺の苦労も考えてほしいもんだ。他の奴らを抑えるのも限界だぜ。これで売り上げが落ちたのを俺のせいにされちゃたまんねえよ」
 メッキが剥がれつつあるのか、道後は日に日に性根の卑しさを露わにしつつあった。施設育ちの不良である自分から見ても、道後のゲスぶりは明らかだ。
 翔太は何も言わずに沈黙を貫いた。ここで面倒を起こすのはまずい。こうしたトラブルは評価を下げる最大の要因となるからだ。
「中卒のクセしやがってよ。海斗をうまいこと丸め込みやがって」
 それはグループの理念に反するんじゃないですか――
 またしても声には出さず胸に呑み込む。
 道後は翔太にばかり絡んで海斗には何も言わない。海斗と同じG大のOBだからだ。
「悪い、遅くなった」
 そこへ海斗が駆け込んできた。城有のメッセージは彼にも届いているはずだ。
「じゃ道後さん、お先失礼しまっす」
 海斗の腕を取るようにして店を出る。
「何かあったの?」
 さすがに海斗は勘がいい。
「なんでもない。城有さんを待たせちゃまずいだろ。万一陣能さんが先に来てたりしたら……」
「そりゃまずいよ」
 海斗は大仰な仕草で笑う。なんとかごまかせたようだ。
 タクシーを拾い、指定された店に向かう。
「あのさ、翔太」
 車内で海斗が口を開く。数秒前とはまるで違う、深刻そうな顔になっていた。
「なんだ」
 道後とのやり取りで頭が一杯だった翔太はぞんざいに応じる。
「君は陣能さんて人、どう思う?」
 意外なことを話し出した。
「どう思うって……おまえ、前はヤクザでも構わないって言ってなかったか」
「うん、言った。だけどあの陣能って人は違うと思う」
「違うってどういうことだよ。ヤクザはヤクザじゃないか」
 忘れかけていた先日の直感が甦る。陣能と初めて会ったときに抱いた感覚だ。
 海斗は慎重に言葉を選んでいる様子で、
「あれから冷静になって考えてみたんだけどさ、スマトラ島のリゾート開発は確かに合法的なビジネスかもしれない。それに参加すること自体はいいと思う。カタラの理念通り、他では絶対できない社会経験だ。だけど、陣能さんはなんだか恐い気がするんだ。あの人とは距離を置いた方がいいんじゃないか。仕事以外で何か変なことに巻き込まれるのだけは困るよ」
 内心で舌を巻く。素人の学生である海斗の推測は正鵠せいこくを射ていた。
「正直、俺もおまえの言う通りだと思う。けどさ、今さらどうやって距離を取るんだよ。城有さんに誘われたら断れねえぞ」
「そうなんだよなあ」
 ため息をつきながら海斗が頭を抱えるように、
「城有さんからはもっと学びたいことがたくさんある。だけどカタラの仕事を続けながら、この件についてだけ城有さんに逆らうのは……」
「まあ無理だな」
「じゃあ君はどうすればいいと思う?」
「分からない」
 混乱したまま翔太は答える。城有の待つ店はもう目の前だ。
「お互いしばらく考えてみることにしよう。そしたら何かいい手が浮かぶかもしれないし」
 そんなやくたいもない提案が精一杯だった。
「そうだよな……」
 海斗も弱々しく同意した。
 深夜に、というより夜明けに近かったが、帰宅した後も翔太はあれこれと考えを巡らせた。
 考えれば考えるほど、カタラグループとは翔太にとって居心地のいい場所だった。
 道後の態度は気にかかるが、問題はない。間もなく名実ともに自分と海斗が道後の上に立つだろう。そうなれば道後や一部の嫉妬深い連中も自分に最敬礼するしかなくなるはずだ。
 上等なスーツ。一流レストランのうまい料理。高価なワイン。不良ではない、育ちのいい仲間達。こんな経験は今までしたことがなかった。自分を施設出身だと蔑む者もいない。
 グループを離れたくない。それが本音に近かった。
 一方で、海斗の指摘にも同意する。このままでは危険だ。だがこの局面を回避する方策は見当たらない。
 城有に忠告することも考えたが、リスクが高すぎる。城有から陣能の耳に入ったらどうなるか知れたものではない。第一、あの城有が陣能という男の危険性を知らないはずがなかった。何もかも承知の上で、ビジネスパートナーとして付き合っているのだ。
 一睡もできないままコールに出た。
 待ち合わせの約束をしていた池袋に海斗は姿を見せなかった。こんなことは初めてだ。
 スマホの振動に気づき画面を見る。海斗からのLINEだった。
[カゼらしい。悪いけどしばらく休む。店にはもう連絡した]とあった。
 あれだけの緊張の後だ。海斗が体調を崩したとしてもおかしくはない。翔太は一人でコールを続け、中の上といったレベルの女を釣り上げた。
 数軒の店に案内してから女と別れ、午後十時過ぎにカタラに入った。メンバー全員と引っ掛けた女の情報を共有する必要がある。そして互いにフォローし合い、一人でも多くの女をFに送る。それがカタラグループの結束の力だ。
 華やいだ席の仲間達にフォローを入れつつ奥へ進み、道後に挨拶する。
「お疲れ様っす。今入りました」
「おう」
 道後は振り向きもせず無愛想に応じる。予想していたことなので気にもならない。
「翔太先輩、お疲れっす」
 背後から突然声をかけられた。
 振り返ると、洒落たスーツに身を包んだ大地が立っていた。人の顔色を窺い、すり寄ることの得意な大地は、翔太に反感を抱く店の古参メンバー達にかわいがられている。
 翔太が口を開きかけたとき、道後が満面の笑みで大地に言った。
「おう、大地か。おまえ、最近成績いいじゃないか。この調子でがんばれよ」
「あざっす」
 大地は道後に向かい頭を下げる。こちらに嘲りの視線をくれながら。
 翌日も海斗は休みであった。LINEを見ると、風邪が長引いているらしい。心配になってLINEを送ろうと思ったが、引っ掛けた女達からのDMや電話が次々と入り、その日は海斗に連絡できなかった。
 翌々日は翔太自身が体調不良で休みを取った。連日の疲れが溜まっていて、コンビニへ買物に出る気力さえ残っていなかった。こんなふうに海斗も疲れていたのだろうと、妙な納得感さえあった。
 ゴミの散らばるマンションで横になり、ただ放心して日を過ごす。それはそれで悪くなかった。
 そうだ、と思い立って海斗に電話してみた。
〈翔太か、僕だ〉
 海斗が出た。いかにも具合の悪そうな鼻声だった。
「風邪だって? 大丈夫かよ」
〈悪い、僕一人休んじゃって。連絡しようと思ったんだけど、女の子達のフォローで手一杯でさ。もう寝てる間もないくらい〉
「分かるよ」
 嫌というほど分かる。頻繁に入るLINEやDMの相手だけでも大変な手間だ。うっかり風邪などと言おうものなら、どの女も「見舞いに行く」とか言い出すだろう。海斗が複数借りているマンションのうちのどれにいるのか分からなかったが、万一女同士が出くわすようなことにでもなったら厄介だ。そうならないように、細心の注意を払って巧妙に嘘をつく必要があった。もしかしたら世田谷の実家にいるのかもしれない。海斗は女に実家の住所までは教えていないはずだった。
「実はオレも、今日は調子悪くて休んでんだ」
〈なんだ、そっちもか〉
 スマホの向こうで海斗は拍子抜けしたように、
〈君に迷惑かけてるなあって気にしてたんだ。一日休めばそれだけ成績が下がるからね〉
「気にすんなって、そんなこと。俺達、今日までメチャクチャがんばってきたからな」
〈ああ、そうだよね。それに……〉
「それに、なんだ?」
 珍しく言い淀んでいた海斗が、言葉を選ぶように、
〈いろいろ考えをまとめるいい機会かも、なんて思ったんだ〉
「考えって、なんの」
〈だからいろいろさ……これまで学んだいろんなこと〉
 カタラでの学びに対して海斗は人一倍熱心に取り組んでいたから、その話には得心がいった。ことに陣能の件については、お互い消耗することが多かった。だが、それでも微かな歯切れの悪さを感じなかったと言えば嘘になる。
〈とにかく、今はお互い体が第一だから、この際ゆっくり骨休めといこうよ。女の対処は手間だけどさ〉
 そこで海斗は大きく咳き込んだ。
「おい、ほんとに大丈夫かよ」
〈大丈夫だって。君もこじらせないように気をつけろよ〉
「ああ、分かった。お大事に」
 相手の体調を慮って、翔太は早々に電話を切った。自分自身の頭がぼんやりしてきたということもある。
 海斗は何を考えているのだろう――
 漠然とそんなことを思った。海斗が嘘を言っていたとは思わないが、重い空気のような不安がまとわりついて、全身を緩やかに締め上げているようだった。
 体調のせいだ――体が弱っているから、こんな気分になるんだ――
 立ち上がって全身の汗を拭う。それから洗面所に行き、コップで水道の水を飲んだ。立て続けに三杯飲むと、だいぶ気分が楽になった。
 寝室に戻って再び布団の上に身を投げ出す。テレビのリモコンをつかみ上げ、スイッチを入れた。どの番組も面白くはなかったが、それでも気晴らしにはなった。
 やがてニュース番組が目に入った。しばらく何も考えずに眺めていると、よくある振り込め詐欺のニュースが始まった。
 またかよ――
 お定まりの内容である。押収された携帯電話やパソコンの映像。逮捕され、送致される末端の被疑者達。イラストを使用した組織の図解。
 翔太はよく知っている。振り込め詐欺をはじめとする特殊詐欺を仕切っている組織の多くは半グレだ。その〈上〉までは知る由もないが。
 半グレはカタギの世界に身を置きながら、アタマの悪い連中を操って詐欺をやらせる。翔太と同じ施設出身で、振り込めに加担してパクられた奴は大勢いる。普段は仲間に虚勢を張って自分を大きく見せたがる、いっぱしの不良気取りが多かった。パクられて当然と思えるような間抜けばかりだった。
 暴力沙汰も日常の一部で、シメたのシメられたのという話は朝昼晩の挨拶と同じ数だけ聞いていた。
 ヤクザになった奴もいる。城有も言っていたが、それこそ最大のバカだ。好きこのんで施設よりも厳しい規則の世界へ飛び込んでいく。理解できない。こちらから上納金を払ってキツい仕事をやらされる。相手がバカと分かっていても、兄貴分には絶対服従。どうかしているとしか言いようはない。
 その点、半グレは自由だ。ヤクザのように法律などには縛られない。法の隙間で好き勝手ができる。だがそれだけに、ヤクザ以上に抑えの利かないバカも多い。六本木で事件を起こした連中のように。
 そういうグループは無数にある。芸能人をはべらせ、寄ってきた若いアイドル志望の女の子を政治家や実業家に提供し、夜通し騒ぎまくる。
 くだらない。
 醜く、おぞましく、汚らしい豚の世界だ。
 カタラは違う――間抜けじゃない――使われる側なんかじゃない、俺は使う側なんだ――
 そんなことを呟きながらニュースに見入る。
 その呟きは誰に対してのものなのか。逮捕された間抜けにか。他人事だと思って呑気に見ている世間にか。自分自身に対してか。それとも海斗に対してか。
 だがそのうち見知った顔が画面に現われ、翔太は思わず身を起こした。
[暴力団員 原崎健一けんいち(42)]
 パトカーに乗せられる組員の映像に被って、そんなテロップが表示される。
 原崎。青山のクラブで城有に上納金の値上げを迫った男だ。
 あいつ、パクられちまったのかよ――

 

(つづく)