固く閉ざされたドアの内側に広がるそこは別世界だった。少なくとも翔太しようたがこれまでの二十一年に及ぶ人生で見てきたものとはまるでかけ離れている。
『カタラ』。それが新宿にある別世界の名だ。ギリシャ語で「呪い」の意味だと聞いた。
 ――「宝」にも通じるからちょうどいいじゃん。
 グループ創立者の城有しろありさんはそう言って命名したという。呪いと宝とではかなり違っているのではと思わぬでもなかったが、どうでもいい。自分如き末端が少しでも異を唱えたりしたら大変なことになる。それこそが掟なのだと理解していた。
 カタラは表向き会員制クラブということになっていて、実際に会員か関係者でなければ入れない。重厚なカウンターにゆとりのあるテーブル席。ダークブラウンの木材を全体の基調としながら、椅子やテーブルは言うに及ばず、随所にモダンなデザインが施され、間接照明の淡い光の中でことさらに落ち着いたムードを演出している。
 しかしあちこちから聞こえる歓声は、社会的な落ち着きとはほど遠い、若く華やいだものだった。
 着飾った女達。美しい女もいれば、そうでない女もいる。派手で目立つ女もいれば、そうでない女もいる。だが彼女達の相手をしている男達は、全員が若く、見栄えがよかった。スーツ姿も決まっている。
 自分もまたその一人だ。正直に言うとそんなスタイルにまだ慣れていないのだが、そうと悟られない程度には練習した。
 そして、カタラは決してホストクラブなどではない。
山科やましなさんて、大人なんですね」
 カウンターに腰掛けた翔太の隣で、愛実まなみが感心したように言う。恵比寿の路上で引っ掛けた女である。これまでに何度かデートを重ね、相手の話を聞くことに徹した。仕事や趣味の話から始まって、悩みや愚痴を引き出すまでそう時間はかからなかった。
 それから自分の〈職場〉へと、優しくスムーズに引っ張り込んだのだ。
「やめてくれよ、名字で呼ぶの。約束したじゃん、この前」
「あ、ごめんごめん」
 愛実はごまかすようにグラスを口へ運ぶ。高い酒だ。女は自分でその酒を選んだと思っている。
「でもさ、俺なんかが大人だなんて、ちょっと買いかぶりすぎじゃない?」
「そんなことないって。すごく大人、翔太君って」
「自分なんか、ここの先輩方に比べるとまだまだ修行中みたいなもんだから」
「おっ、よく分かってんじゃん、翔太」
 通りすがりに口を挟んだのはマネージャーの道後どうごだ。肩幅が広く筋肉質。見るからに頼もしそうなルックスをしている。マネージャーを任されるだけあって、実際に頼りがいがある兄貴分だ。
「こいつはね、新人だけどマジ素直で謙虚。そこがこいつのいいとこなんですよ」
愛実に向かってフォローする。そういう〈プログラム〉になっているのだ。
「もう、やめて下さいよ、道後さん」
「だってホントのことだし。保証しますけど、こいつ、絶対オレらよりビッグになりますから。愛実さんも協力してやって下さいね」
「はい」
 愛実は嬉しそうに頷いている。
 感じのいい笑みを残して道後が去ってから、翔太はこれまた〈プログラム〉に則った会話に入る。
「まったく、道後さんは調子いいんだから」
「なんでー? すっごくいい人じゃない」
 想定された反応を示す愛実に、道後を真似た笑顔を示し、
「いつもはえらい厳しいんだぜ、あの人。特に俺はメチャクチャ言われる。お客様には真心が大切だとか」
「それだけ評価してるのよ、翔太君のこと。それに翔太君、言われたことがちゃんとできてるし……分かった、だから翔太君は大人なのよ」
 女はすっかり打ち解け、寛いでいる。罠に掛かったとも知らず。
 何もかも〈マニュアル〉の通りだ。
 ここのスタッフであることを明かし、店に連れ込むまで、それなりの手間はかかっている。最初に愛実のような女が引っ掛かったのはツイていた。地元の先輩に誘われたのはいいが、自分にこんな仕事ができるとは考えたこともなかったからだ。
 ――簡単なもんだよ、マニュアル通りにやってさえいればな。
 今は六本木の支店に勤めている先輩はそう言っていた。実際にその通りだった。
 ――オメーならゼッテーやれるって。はっきり言うとさ、まず顔がよくねえとダメ。でなきゃ紹介もできねえ。あと、いくらツラがよくったってバカじゃダメだ。そこそこでもダメ。大事なのはアタマなんだよ、アタマ。その点オメーなら大丈夫だ、翔太。ヘタなの紹介したりしたら、評価下げられんのオレだからな。
 マニュアルを覚えるまでは大変だった。なにしろ勉強などろくにしたこともなかったし、定時制高校も中退の身だ。だがマニュアルはそんな人間にとっても分かりやすく書かれていた。
[内容が理解できているか、不安なときは、声に出して何度も読め]
 翔太はその通りに実行した。
[ただし誰にも聞かれるな。マニュアルを部外者に見せてはならない]
 その注意書きも忠実に守った。
[必ずできる。意識を高め、自分を高める。人間力を磨く。それは必ず相手に伝わる]
 マニュアルを信じること。そして実行すること。翔太には他に道はないように思えた。やるだけやってダメだったらまたバックレればいい。そう考えていた。
「大人なのは愛実ちゃんの方だよ。そんなに酷い職場なのに、毎日そこまでがんばって。普通の人には絶対我慢できないよ。なんて言ったっけ、その上司」
「高木」
「そう、そいつ。信じらんねーよ、今どきそんな奴がいるなんて」
「ホント、嫌なオヤジ」
 少し水を向けてやるだけで、愛実は決壊したダムのように溜まった鬱憤を吐き出した。際限なく続く汚泥の洪水を、うわべの誠実さで受け止める。たまに流れてくる大事な情報は逃のがさない。家族の話。友人の噂。心の傷。それらを残らず頭の中に記録する。用が済めばまとめて削除すればいいだけだから、ここでメモリの容量は気にしない。
 自分が勝手に話しているだけなのに、こっちを「優しい人」だと思い込んでいる。愛実はそれほど「聞いてくれる相手」を欲していたのだ。そんな女を見分けるのが、〈メンバー〉の力でもある。
 二時間も経つと、勘定は結構な額になった。愛実と次の約束を取り付け、クレジットカードで支払わせる。総額の三十八パーセントが翔太の収入となるシステムだ。
「待っててね、仕事が終わったらゼッタイ電話するから」
 別れ際に囁くことも忘れない。
 愛実を見送り、戻ってきた翔太に道後が言った。
「この分じゃ、あと二、三回てカンジかな、あの女」
「はい。次の〈ステップ〉に移ったら、Fの紹介に入ります」
 Fとは「風俗」を意味するグループ独自の隠語である。
「スゲーじゃん、おまえ。最初からあんなチョロい女引っ掛けられて」
「ツイてただけっすよ」
「バーカ、オレらにはそのツキが大事なんだよ」
 道後は親しげに翔太の肩を叩く。
「その調子でがんばれよ。そのうち城有さんにも紹介してやっから」
「はい、がんばります」
 真に誇らしい気分となって、翔太は胸を張って応えていた。
カタラの入居している新宿西口のビルを出て、歩きながらスマホを見る。各種SNSやメールは店を出る前にチェック済みだ。なんとなくいじっていると、ニュースサイトが目に入った。
 ニュースなどそれまで興味もなかったが、[社会性があると女に思わせるためにもニュースは見ておけ]とマニュアルにもあった。五年後の二〇二〇年東京オリンピックを巡るゴタゴタの記事が今日も目立つ。会場の建設費やらエンブレムの盗作やら。知ったことかと翔太は思う。そんな金があるなら俺にくれ。施設でいつも腹を減らしていた記憶が甦る。園長は何かと理由をつけて飯の量を減らしたがった。国の予算が、とか、誰に言っているのかもよく分からない言いわけを独り言のように呟いて、そのくせ取り巻きの職員達と毎日のように高いメシを食っていた。
 オリンピックなど知ったことか。所詮しよせんは食うに困らない連中のお遊びだ。
 それにしてもやけに蒸す――
「山科君」
 背後から不意に声をかけられた。
 振り返ると、同僚の男が小走りに近寄ってくるのが見えた。自分とほぼ同じ頃に入店した新人の学生だ。
 名前は確か、辻井つじい海斗かいと
「僕も今上がったんだ。ねえ君、ちょっと時間ある?」
「なんだよ、俺をナンパかよ」
 そう応じると、辻井は明るい声で軽く笑い、
「君と話したいことがあるんだ。ちょっとだけ付き合ってくれないかな」
 翔太は相手の全身を改めて眺める。どこからどう見ても清潔で感じのいい男だ。
「別にいいけど。ちょっとだけなら」
「じゃあそこのスタバで。メンバーの人達は近くのスタバなんて入らないからね」
 辻井は先に立って歩き出した。今の言い方からすると、他の同僚には聞かれたくない話のようだ。翔太は同意したことをわずかに後悔しつつもその後に従った。
 店は閑散として空いていた。それぞれコーヒーのカップを載せたトレイを持ち、外から見えない奥の席に陣取った。
「自己紹介のときは学校名まで言わなかったけど、僕、G大なんだ」
 育ちのいいお坊ちゃまか――
「君は」
「高校中退」
「そっか。でも凄いよね山科君」
 気まずさを微塵も感じさせず、辻井はすかさず話題を変えた。
「僕、同期の人達をずっと見てたんだけど、やっぱ君がダントツだよ」
「それはおまえの方だろ」
 現に辻井は、すでに女を一人Fに落とし、皆の前で道後から褒められている。
「マニュアルの通りにやっただけだよ。でも、その通りにできない奴の方が多いじゃない。なんでだろうね」
 その点は翔太も不思議に思っていた。簡単なのに。ただ実行するだけなのに。
「そこが道後さんの言う、できる奴とできない奴の違いなんだろうね。とにかく、山科君は間違いなくできる方だ」
「おまえ、一体何が言いたいんだ」
 コーヒーを一口啜り、辻井は真剣な目で翔太を見つめる。
「道後さんは僕らを互いに競わせて店の成績を上げようとしてる。気づいてた?」
「ああ。でもそれは――」
「そう、別に悪いことじゃない。有効な手法だし、よくあると言ってもいいくらい。だったら、僕らも徹底的にそれに乗ったらどうかと思って」
 辻井の口調が熱を帯びる。
「山科君は単にできる奴ってだけじゃない。君がイケてるのはカタラに採用された時点で保証付きだけど、性格もルックスも僕とは正反対のタイプだ。僕は見た通りのお坊ちゃん風、君は、そうだな、ワイルド系?」
 いささか自信過剰と言えなくもないが、辻井は自分のことを客観的に把握しているようだった。
「なんとなく読めてきたぞ」
 すると辻井は満足そうな笑みを浮かべ、
「そうだ、カタラで評価されるポイントは、いかに大勢の女の子を落とすか。数なんだよ、女の子の。だからみんな毎日東京中でコールをやらされてる」
〈コール〉とは、路上で女を引っ掛けること。つまりナンパである。カタラの新人メンバーは毎日最低五時間のコールが義務づけられていた。
「要はこのコールの効率をどう上げるか。一人で声をかけると、警戒する女の子も多い。だけど、二人連れの女の子なら、友達と一緒ということで警戒心も緩みやすいと思うんだ」
「分かった。ダブルデートに見せかけて引っ掛けるんだな」
「その通り。君と僕ならタイプが違うから、悪くてもどっちかは成功する確率が高まる」
「そして互いに相手を褒める。あいつはホントいい奴だって。女の方は友達同士だからそういう話はすぐ伝える。つまり俺達の好感度が同時に上がる。次の段階として、女の子同士を競わせる。君の友達はこれだけあいつに尽くしてるのに、君は俺に何をしてくれるのかなって。結果的に二人の女がFに行くってわけだ」
 辻井が大仰に瞠目する。
「そこまでは考えてなかった」
「全部マニュアルの応用じゃないか」
「即座に応用できるのはあのマニュアルを本当に理解できているからこそだよ。やっぱり君は頭がいいんだ」
「言っただろ、高校中退だって」
「どうでもいいよ、そんなの。ともかく、今の僕達は他の連中より評価されなきゃならない。そうでなきゃ、カタラに参加した意味はないよ」
 辻井は「入店」ではなく「参加」と言った。
「そうだな」
「じゃ、一緒にやってくれるね? 早速明日から――」
「待ってくれ。一つだけ条件がある」
 翔太はそこでようやく砂糖の紙袋を破り、冷めかけたコーヒーに半分だけ投入した。
「山科君はやめてくれ。俺のことは翔太でいい」
「じゃあ、僕は海斗だ」
 プラスティックのマドラーでコーヒーをかき混ぜながら、ゆっくりと答える。
「分かった、海斗」

 

(つづく)