一般に、特殊詐欺の世界は下っ端の実行犯のみが逮捕され、捜査の手は決して上層部に及ばない構造になっている。組の名は出なかった。原崎が組内でどういうポジションにあり、詐欺グループとどういう関係にあったのか分からなかったが、今回はそれだけ警察が本腰を入れていたのだろう。また原崎はこうした非常時に切り捨てられる程度の男でしかなかったということでもある。
城有さんの見立ては正しかった――
パトカーに押し込められる原崎の情けないストップモーションでニュースは終わった。
次の日、翔太は早めに店に入った。
「昨日は休んですんませんしたっ」
開店の準備をしていた道後は、頭を下げる翔太に対し、不機嫌そうに応じる。
「急に休んだりしてよ、あんまり勝手なことすんなよな。下のもんに示しがつかねえだろ」
「はい、すんません」
「おまえもさあ、トップテンの一人なんだろ。だったらそれくらい言われなくても分かりそうなもんじゃねえの。そうそう、新人の大地さ、あいつの方がよっぽど礼儀をわきまえてるよ。おまえ、あいつの先輩だろ。情けねえとは思わねえのかよ」
海斗はその日も休みであったが、道後はひたすら翔太にだけ嫌みを言い続けた。
「おっ、今日は早いね」
そこへ珍しく城有が顔を出した。
「ご苦労様っす」
道後が態度を一変させて城有に挨拶する。もちろん翔太も即座に頭を下げている。
「お、翔太もいるじゃん。ちょうどいいや、そこで待ってて」
「はい」
城有は道後と店の売り上げについて小声で話し始めた。どうやらその件で来たようである。話はすぐに終わり、城有は翔太を振り返った。
「待たせて悪かったな、さ、行こうか」
「行くって、どこへですか」
「そういうことはさ、いちいち目上に訊かないもんだよ」
「はい、すんません」
先に立って歩く城有に従い、店を出る。振り向きはしなかったが、背中に道後の視線をはっきりと感じた。
城有は店の外で待っていたレクサスに乗り込んだ。そしていつもの運転手に「新宿東口」とだけ告げる。
「あの、ご存じですか」
車内で思い切って話しかけた。
「え、なに」
「昨日、ニュース見てたら、原崎ってヤクザが捕まったって」
城有は「ああ」と頷いて、
「聞いた聞いた。あいつ、こういうときの切り捨て要員だったみたいだな。下っ端のクセしてオレに偉そうに説教たれやがって、ざまあねえよ」
鼻で笑って吐き捨てた。
「あの、ウチのグループに影響とかないんでしょうか」
「そんなもん、あるわけねえだろ。だってオレ、振り込めなんてやってねえし」
城有の横顔からは、それが真実かどうかは読み取れなかった。
「でも、原崎ってヤクザも陣能さんと同じ組なんでしょう」
「だからさ、奴は切られたの。分かる? それに陣能さんとは組内でライバル関係にある人の手下だったから、陣能さんにとっちゃかえってラッキーなんじゃねえの」
やはり〈上〉にはなんの影響もないシステムなのだ。損をするのはいつも〈下〉だけ。それがカタラグループで学んだことではなかったか。
「勉強させて頂きました」
礼を言うと、城有は楽しげに笑った。傍目には邪念のかけらもない晴れやかな笑みである。
新宿東口で下車した城有は、中央通りに並ぶ商業ビルの一つに入った。その六階にあるクラブで、陣能が待っていた。
「遅くなっちゃってすんません。ちょっと店に寄ってたもんですから」
そう詫びながら城有がテーブル席に着く。翔太も言われるままに腰を下ろした。
城有も陣能も、原崎の逮捕については触れようともしない。あえて話さないのではなく、まるで念頭にないようだった。
「で、どうです、陣能さん」
グラスに酒が注がれてから、城有の方から切り出した。
「今日は海斗はいませんけど、こいつらが使えるってこと、そろそろ分かってきたんじゃないすか」
それを聞いて翔太は身を固くした。城有は陣能に自分達の評価を迫っているのだ。
「そうだなあ」
陣能は間を持たせるように、指の間でグラスを回す。
矛盾する思いに翔太はどうしていいか分からなかった。
ここで陣能に拒否されれば、それは自分の能力や存在価値の否定を意味する。一方で、受け入れられれば陣能と城有の「ビジネス」に引きずり込まれる羽目になるだろう。いずれにしても、それはカタラでの居場所を失う結果につながりかねない。
こんなときに限って海斗がいないなんて――
相棒の不在までが翔太の不安をかき立てた。
「こいつはさあ、カタラには向いてないんじゃないの」
ややあって、陣能は予想外のことを言い出した。
やはり自分は不適格ということか――
息を呑む翔太を嗜虐的に眺めながら、
「どっちかって言うとさ、組に引っ張りたいんだよね。その方が役に立つっていうかさ」
「ダメですよ陣能さん。ウチはスカウト禁止ですから」
城有が笑いながら応じている。
「こいつはこっちで見つけた人材ですんで。オレの役に立ってもらわないと。独り占めなんてナシですよ」
「分かってるって。じゃあ、ビジネスの件は一から勉強させるんだな。次に会うときまでちゃんと仕上げとけよ」
「はい、オレが責任もって仕込んどきますよ。海斗の方もね」
「あの……」
遠慮がちに口を挟む。
「なんだ」
城有と陣能がこちらを見る。
「カタラでの仕事はどうなるんでしょう」
「もちろん続けてもらうさ。今トップテンが二人も抜けたら、ダメージ大きいもんな」
城有の答えに、翔太はどこか安堵を覚えていた。
不在である海斗の運命まで決まってしまったが、たとえこの場にいたとしても、海斗には抗するすべはなかっただろう。今の自分と同様に。
海斗の風邪は予想以上に長引いていた。ビジネスの件はLINEで伝えてある。既読は付いたが返信はなかった。
陣能やスマトラ島のビジネスについて一刻も早く海斗と相談したかった。直接電話しようかとも思ったが、LINEの返信もできないほどこじらせているのなら、どのみち集中して頭を使うことなど無理だろうと思い遠慮した。今はとにかく海斗の一日も早い回復を祈るばかりである。
海斗という相棒のいない翔太に対し、道後の主導するカタラ店内の風は予想以上に冷たかった。
いつものように賑わっているカタラの店内を歩いていると、「でもあたし、もうお金がないんです……」という消え入るような声が耳に入った。見ると、大地が相手の若い女に対し執拗に言い聞かせている。
「だからさあ、朋代ちゃんならいくらでも稼げるって」
「でもそれって、風俗なんじゃ」
「いいじゃん風俗で。でなきゃここの支払い、どうすんだよ」
「それは……なんとか仕事で……」
「仕事って、あのパソコン屋のバイト? あんなの、もういくらやっても返せる額じゃねえんだよ。おまえさあ、オレに恥かかせる気?」
「そんなつもりは……」
「だったらさ、オレのためにがんばってよ。朋代ちゃんに値が付くのって、今だけだよ。売れるのは若い間だけ。いい店紹介してやっからさ」
翔太は愕然として足を止めた。
こいつはマニュアルを読んでいないのか――
敏速に、しかし決して慌てているようには見せず、穏やかな笑みを浮かべてフォローに入る。
「どうした大地、こんなかわいい子を困らせちゃダメじゃないか」
朋代と呼ばれた女は助けを求めるように翔太を見上げた。一方の大地は聞こえよがしに舌打ちして横を向く。
「すみません、あたし、もうこれ以上このお店には来られません。お金は必ずお支払いします。だからもう……」
「朋代ちゃん、だっけ? 君はなんか勘違いしてるみたいだけど、大地は別に無理強いしているわけじゃないんだよ」
「だって――」
「大地はね、朋代ちゃんに本当に惚れてるんだろうな、きっと。でなきゃ、あんなわがままな言い方なんてしたりしない。こいつ、朋代ちゃんに甘えてるんだよ。それだけ朋代ちゃんを信じてるってこと。なあ、大地?」
話を振ってやったにもかかわらず、大地はふて腐れたまま笑顔の一つも見せなかった。朋代も横目で大地の様子を窺っている。
「ごめんね、朋代ちゃん。こいつ、いつもはもっと素直なんだけど、今日はスネてるみたい。俺達にとってもそういうとこがかわいいんだけどね。でもさ、こいつの言ってたことも一理あると思うんだ。時間てさ、誰にとっても限られてるじゃない。その時間をどう使うかによって、今後の人生が全然違ってくるわけ。だから――」
「大地君、そんなこと言ってませんでした」
失望のため息とともに、朋代は意を決したように言った。
「あたしが悪かったんです。大地君、あたしのこと気にしてくれてるのかな、なんてちょっとでも思ったりして。そうじゃなかった。最初からお金だけが目的だったんですね」
「違うって。大地はほんとに朋代ちゃんのこと――」
「やめて下さい。それくらい、大地君を見たら分かります」
女の視線の先で、大地は子供のようにそっぽを向いていた。自らの失態をごまかそうとしているのか、にやにや笑ってさえいる。
翔太は絶句するしかなかった。まるで他人事のような顔だ。マニュアルに従えば、一緒になって説得しなければならない局面であるはずなのに。
こいつは一体何を考えているんだ――
朋代は今や嗚咽しながらきれぎれに呟いている。
「お酒なんて別に好きでもないのに……こんなとこで言われるままにあんな大金を使ったりして……自分の責任は自分で取ります……今日はこれだけしかありませんけど、お金は必ず返しますから。ごめんなさい」
「待って、お金はいいから」
財布からカードではなく現金をつかみ出した朋代の手を押さえようとしたが、間に合わなかった。
「カードの限度額はとっくに超えてるし、第一、口座にはもうお金なんて残ってません。現金でお願いします」
「だからいいって。ここは俺が」
「失礼します」
立ち上がった朋代は、はっきり分かるほどに泣きながら店を出て行った。
他の客達もいつの間にかこちらを注視している。薄暗い中にも、メンバーの何人かが顔をしかめるのがはっきりと分かった。
最悪だった。各メンバーが女をFに送り込もうとしている最中に、とんだ冷や水をぶっかけた恰好だ。非難の視線が自分達に集中する。
「大地、翔太、ちょっと来い」
歩み寄ってきた道後が小声で囁き、奥へと向かった。翔太はやむなく道後の後に従った。不服そうにしていた大地も、少し遅れて立ち上がった。
控え室に入った道後は、いきなり翔太を叱りつけた。
「翔太、おまえ、えらいことやってくれたな」
「待って下さい、俺はプログラムの通りフォローに入っただけですよ。なんで俺が文句言われなきゃなんないんですか。もともと大地が女と揉めてたんで」
「本当か、大地」
「揉めてなんていませんよ」
大地は平然と言い放った。
そのふてぶてしい顔を、翔太は呆れて凝視する。
「オレ、あの女とはうまくいってたんすよ。夕べなんて、ラブホで何回もイカせてやりましたからね。もうくたくたになるまでサービスしてやりましたよ。おねだりだけはしつこい女ですから。なのに店のツケは払いたくないとか、勝手なこと言い出したもんだから、マニュアル通りに説得しようと思って。それで普通に会話してただけなのに、いきなり翔太さんが割り込んできたんすよ。あわよくばオレの獲物をかっさらおうとでも思ったんじゃないすかね。こんなのルール違反じゃないんすか、マネージャー」
「てめえ、ふざけるなっ」
思わず大地を怒鳴りつけた。
「なんて大声出してやがんだ、バカ野郎」
道後に頬を叩かれた。
「店の客に聞こえちまうだろうが。どうしてくれんだよ、え、おい」
「すんませんした」
大声を出してしまったことは謝るしかなかった。
「ですが道後さん、俺は本当に――」
「見苦しいぞ、翔太。トップテンのくせしやがって、後輩の女をかすめようなんてセコいマネ、よくできたもんだよな。そこまでして成績上げたいのかよ」
「聞いて下さいっ」
「なにがトップテンだ。おめえなんかにトップテンを名乗る資格はねえっ」
取り付く島もなかった。もしかしたら、道後は何もかも承知の上でこちらを罵っているのかもしれない。
気がつけば、背後にメンバーが何人か立っていた。一様に恨みがましい目で自分を睨んでいる。
「なんだ、おまえら」
「道後さん、オレらにも言わせて下さいよ」
中の一人がたまりかねたように口を開いた。
「おい翔太、なんだよさっきのアレ。女達、みんなビビってたぞ。おかげでこっちの努力が吹っ飛んじまったじゃねえか。一人連れ込むまで何日かかったと思ってんだ。成績下がったらどうしてくれるんだよ」
「文句があんなら大地に言えよ。俺の知ったことか」
「翔太、おまえ、まだそんなこと言ってんのか。いいかげんにしとけよな」
道後は一貫して大地を擁護する。やはり確信犯だ。
当の大地は、しおらしく俯いたふりをしながら嗤っていた。
この野郎――
殴りつけたくなる衝動を必死にこらえる。こんなことで騒ぎを起こせば「マニュアルの精神を理解していない」と吊るし上げられ、孤立を深めるのは目に見えている。
「すんませんした。みんなに迷惑をかけるつもりはありません。勘弁して下さい」
屈辱に耐え頭を下げる翔太に対し、日頃から不満を募らせていたとおぼしいメンバー達が一斉に詰め寄ってきた。
「それで謝ったつもりかよ」「トップテンになって天下を取ったつもりにでもなってたんだろう」
「マニュアルちゃんと読んでんのかよ」
おめえらよりは読んでるよ――喉元まで出かかったそんな言葉を、無理やり押し戻すようにして呑み込んだ。
仲間であったはずなのに。
ここは自分の居場所であったはずなのに。
自分は誰からも一目置かれるトップテンになったはずなのに。
居心地のいい店が、オセロゲームのように一瞬で反転した。
一体どうして――
その夜自宅マンションに戻った翔太は、怒りを叩きつける思いでひたすらスマホを打ち続けた。
現在〈交際〉中の女達に対する〈営業LINE〉だ。
[元気?][がんばってる?][俺にできることない?][すぐにでも君の力になりたいな][二人で一緒に夢をつかもう][大事なのは向上心だよ][君ならきっと成長できる]
使い慣れた言葉の数々が、どういうわけか空虚に白々しく見えた。
目をこすりながら思う――疲れているせいだ、だから目がかすむんだ。
[学び][努力][成長][自己実現][金][金][金だ][とっとと金を払え][いい思いさせてやっただろ][いいから黙って風俗行けよ][おめえらは一生俺に金を払ってりゃいいんだよ][その程度のモノなんだよ、おめえらは]
とっくにバッテリーの切れたスマホに向かい、口に出して喚いていた。
「おめえらのせいで俺が成長できなかったらどうしてくれんだよっ」
早く戻ってきてくれ、海斗――
心の中で呻いていた。
海斗さえ復帰すれば、あの輝かしい日々もまた戻ってくるに違いない。
城有と陣能のビジネスに対する躊躇や葛藤は跡形もなく消えていた。むしろ城有によるビジネスと自分達二人の抜擢が、一刻も早く公表されることを望んでさえいた。
そうなれば、状況が一変するはずだと信じられたからだ。
そうなれば、きっと。
翌日も一人でコールに出た翔太は、ほどなく地方出身の女を引っ掛けた。再会の約束を取り付け、場所を変えてコールを再開する。
午後七時、以前から約束していた女と表参道のフレンチ・レストランで食事。それから西新宿のカタラへと案内した。
「ここは完全会員制でね。社会的に身許のしっかりした人間でないと入れないんだ」
いつもの決まり文句を囁きながらエレベーターのボタンを押そうとする。
その瞬間、周囲を見知らぬ男達に囲まれた。
「警察です。山科翔太さんですね」
正面に立った男が言った。
「山科翔太さんですね」
男が強い口調で繰り返す。
「そうですけど」
「職業安定法違反の容疑であなたに逮捕状が出ています」
右側にいた男が令状を示す。同時に別の男が動揺している女をどこかへと誘導する。
正面の男が腕時計を示し、
「はい時計見て。午後九時五十一分。確認しましたね。ちゃんとよく見て。令状も確認しましたね。いいですね、あなたの名前ですね。はい午後九時五十一分、被疑者確保」
同時に左右から両腕をつかまれた。
「待てよ、おい、俺は法的には何も――」
手を振り払おうとした途端、正面の男が一転してドスの利いた唸りを発した。
「抵抗すっと公妨(公務執行妨害罪)もつけんぞコラ」
なんだ――何がどうなってる――
そのときエレベーターのドアが開き、翔太と同じく警官に囲まれた道後達が下りてきた。
「道後さんっ」
大声で呼びかけると、道後は一瞬、醒めた目でこちらを見たが、そのまま何も言わずに連行されていった。
「さあ、おまえも来いっ」
抵抗など思いもよらない。翔太は左右の腕を捜査員につかまれ、道後とは別のパトカーに乗せられた。
運転席の制服警官がすぐに発進させる。
背後に遠ざかる夜の風景を振り返り、今度カタラに出勤できるのはいつだろうかとぼんやり思った。
本書は10/18に刊行予定です。お楽しみに!