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 ――早く起きなっ。
 誰かが叫んでいる。わめいている。怒鳴っている。だが起きたくない。昨夜も遅くまで寝られなかったからだ。意地でも起きてやるものか。
 ――このクソガキが、聞こえてんだろっ。
 いきなり枕を蹴っ飛ばされた。施設のババアか。違う。そこは実家のアパートだった。まだ施設に入る前。狂ったように喚いているのはお袋だ。昨夜ゆうべ一緒にいた男の姿はどこにもない。とっくに帰るか死ぬかでもしたのだろう。
 しぶしぶ起き上がってお袋を見上げる。顔が真っ黒な影になっているのは逆光のせいではない。記憶からきれいに拭き消したせいだ。他に誰かいたような気もするが、それすらも定かでない。
 生ゴミの臭い。積み上げられたポリ袋。コンビニ弁当の容器。空のペットボトル。スナック菓子の袋。
 すべてが懐かしく、いとわしい。ゴミ溜めのような狭い部屋こそが自分の故郷だ。とっくの昔に更地になって、駐車場になって、小ぎれいなマンションになって、もうどこにも存在しないというのに、今でも夢の中に建ち続ける。心の一部で占有権を主張している。
 そして自分は立ち上がるのだ。何かに抗おうという気力もない。戦うための知恵はもっとない。それでも急かされるままに立ち上がるしかないのだ。
 耳許で喚いていたのは目覚まし時計のアラームだった。成長した腕を伸ばし、アラームを止める。午後一時過ぎだった。
 ベタつく膜のような悪夢の端を引き裂いて、現実へと起き上がった。現実だが、夢の中とさほど変わらぬ狭い部屋だ。違っているのは、夢より多少は片づいていることと、「アパート」ではなく「マンション」と呼ばれていることくらいだ。
 もっと広くてきれいな部屋へ引っ越せよ、と海斗は言う。仕事のためにもその方が好都合だとも。分かってはいるのだが、育ちのせいだろうか、この程度の部屋が自分には似合いだと思われた。またそれは翔太なりの戦略でもある。室内を見て顔をしかめた女にはこう囁くのだ、「おまえと一緒にもっといいマンションで暮らしたくて金を貯めているところだ」と。
 海斗は世田谷に豪勢な実家があるが、仕事用のマンションを何部屋も借りている。それが海斗の戦略だ。ターゲットの女同士がかち合うリスクを避ける意味もある。そうした方法論も対照的で、それくらい差異があった方がかえっていいと、自分も海斗も納得していた。
 手早く支度を済ませて新宿の店へ向かった。カタラグループは新宿以外にも渋谷と六本木に出店している。どの店も大きな利益を上げていると聞いた。ただし店名は全部違っていて、表向きチェーン店とは分からないようになっている。グループ名を店名に冠するのは新宿店だけであり、それこそが旗艦店の証しであった。
 いつもは海斗とコールに出るのだが、その日は先に店に寄れと道後から言われていた。
 固く閉ざされたドアを見習いのウエイターに開けてもらい、店内に入る。
 道後は奥のテーブルで誰かと熱心に話し込んでいた。その横には、海斗が直立不動の姿勢で立っている。
 こちらから挨拶しようとしたとき、道後と話していた男がゆっくりと振り返った。
 病的なまでに白い顔。それだけに剃り残しの髭がうっすらと目立つ。唇がいやにあかい。丸刈りと言っていいほど、髪はごく短く刈っていた。派手なシャツの上に白いブルゾンをぞんざいに羽織っている。何もかもSNSで見慣れたものだった。公称では年齢は二十八。
「あ、こいつが山科ですよ、城有さん」
 道後の紹介に、翔太は反射的に最敬礼する。
「山科翔太っす。はじめまして、城有さん」
「ふうん、キミが山科君か」
 視線を上げると、城有がこちらを値踏みするように眺めていた。
「キミさあ、スッゲーいいよ。ま、そこ座れよ」
 道後がすばやく立ち上がって席を空ける。翔太は海斗と並んで城有の向かいに座った。
「オレ、ちょっとこの子らとハナシすっから、おめーはあっちで帳簿でもつけてろ」
「ウスッ」
 道後が言われるままに席を離れる。店内では兄貴分的なリーダーである道後も、グループ全体を支配するオーナーには絶対服従であるらしい。
「聞いてるよ、キミ達、すっごくがんばってるんだって?」
「いえ、自分らなんかまだまだっす」
 翔太が答える。緊張しているのか、海斗は黙りこくっていた。
「ほんと? ほんとにそう思ってる?」
 城有はわざとらしく身を乗り出してこちらの顔を覗き込んできた。
「もうオレら無敵だとか思ってない?」
「まさか。先輩方には勉強させてもらうばっかりっす」
「へええ、道後の言ってた通りだな。辻井君はどう?」
 話をいきなり海斗に振った。おそらくこれは〈面接〉であり〈テスト〉なのだ。
「翔太とおんなじです。カタラに参加して以来、毎日学んでいます」
「学ぶって、何を」
「社会のルールと、そこで勝ち残るための方法論です」
「どんな方法論」
「常に努力できるよう、自分の意識を変えていくことです。人より抜きん出た価値を身につけられれば、自然と人の上に立てます」
 畳みかけるような城有の質問に、海斗は淀みなく答えている。
 城有は大いに満足したようだった。
「マニュアルをちゃんと読み込んでるじゃない。こりゃあ成績も上がるはずだ」
 そして自らボトルを取り上げた城有に、翔太と海斗は慌てて手を差し伸べた。
「あっ、俺らがお注ぎします」
「いいって、いいって」
 鷹揚に遮って、城有は自分のグラスにウイスキーを注ぐ。そんな仕草にも、一種異様な艶めかしさがあった。単なる色気とはまた違う、人を惹きつける妖しい何かだ。
 実を言うと、同様の磁場を、翔太は海斗にも感じていた。自分と海斗が異なる如く、海斗と城有もまったく異なるタイプであるのに、匂い立つ官能がどこか似ている。決して露わにされることなく、いつの間にか忍び寄って、気がつけば相手をからめ捕っているような力。
 海斗は一見するとおとなしく無害な学生でしかないのに、ふとした折にそんな性的魅力を垣間見せることがある。そうした点もまた、翔太が海斗をパートナーと見込んだ理由の一つであった。
 それと同じものを、いや、何十倍、何百倍にも濃縮されたような原液を、城有はその体内に含有している。翔太にとって、そのことは不可解でありながら、また奇妙なまでに腑に落ちた。
 突然着信音が鳴った。城有のポケットからだった。スマホを取り出した城有は、発信者を確認してからためらわずに応答した。
「おう、どうした……うん……うん……そっかあ、しょうがねえなあ……分かった、じゃあ青山で……そう、『ロックオン・ワン』……いいからいいから、気にすんなって……じゃ」
 スマホをしまいながら城有が立ち上がる。
「悪いけど、ちょっと用ができたから、オレもう行くわ」
「お疲れ様っす」
 立ち上がった翔太と海斗が低頭する。
 そのまま出口へと向かいかけた城有が、ふと思いついたように足を止める。
「そうだ、キミ達も一緒に来ねえ?」
 翔太達が答えるより早く、城有は離れた席にいた道後に声をかけていた。
「こいつら借りるから。いいだろ、道後」
「もちろんっす」
「よし、じゃあ来い」
 否も応もない。翔太は海斗とともに城有の後に従った。店を出る瞬間、なにげなく振り返ると、うらやましげな道後の視線が目に入った。
 ビルを出ると、レクサスHSが停まっていた。運転手はやたらと体の大きい男だった。ボディガードを兼ねているのかもしれない。海斗がすばやく後部座席のドアを開ける。城有は何も言わずに乗り込んだ。翔太は海斗に後ろへ乗れと目で促し、自らは助手席に座った。
「青山のロックオン・ワン」
 城有は運転手にそれだけを告げると、翔太と海斗を交互に見ながら言った。
「ちょっと顔出してくれってツレに言われてさ。ファンサービス? あるんだよ、たまに。まあ、こういうのはまめにやっといた方がいいからさ」
 要するにファンが会いたがっているということだろう。
 城有はSNSの使い方に長けていた。若い世代の興味を惹きつけ、自らの思う通りの方向へと誘導する。今ではヘタな芸能人以上と言っていいくらいの有名人だった。
「それで、キミ達にもっと学んでもらういい機会かなと思って」
「ありがとうございます。ご一緒できて光栄です」
 海斗が間髪を容れずに応じる。
「キミ達なら、すぐにトップテンに入れると思うよ」
「マジっすか」
『トップテン』とは、グループ内でのみ共有されている成績優秀者ランキングの上位十名を指す。彼らは文字通り最高の男として羨望と憧憬の対象となるのだ。名誉だけではなく、莫大な収入も付随している。新宿店では三名がトップテンに名を連ねていた。
「ああ。新宿店はなんと言ってもグループの旗だろ。そこにトップテンが三人しかいないってのはマズいんじゃないかと思ってたとこなんだ。いやあ、キミ達が参加してくれてマジ安心したよ」
「いえ、そんな」
「いやいやいや、今だけは謙遜はいらねえから。キミ達にはもっともっと〈成長〉してもらわねえと困るから。グループの将来的にもさ」
 城有はこちらを持ち上げつつさりげない口調で試すように言った。
「分かる? オレの言ってること」
「女を嵌めるテクニックをもっと磨けってことですか」
 翔太が答えると、城有は手を打って笑った。
「そう、その通り。でも気をつけろよ、翔太」
「えっ?」
「その言い方だよ、言い方」
「あ、はい、すんません」
「オレらは法に触れることは何もやってないわけ。ここ大事。分かる?」
「はい」
「オレらの目的はあくまで自分磨き。女の子にもそう言ってるよね? お互い高め合おうって。その結果、女の子の方が気づくわけ。今のままじゃダメだって。そのためにはもっと効率よく稼ぐことが必要だって。オレらは善意でその相談に乗ってあげてるだけ。あくまで女の子が自分で判断したこと。そこまで相手の意識を高められるってことはマジ素晴らしいよ。そもそも自分の意識が高くなきゃ誰もついてこない。そうだろ」
「はい」
「だからこそもっとがんばろうって気にもなれるわけ。もっとがんばってより大勢の女の子を目覚めさせてあげようってね。それでお金も儲かるし、お互いに高め合って、それで社会がよくなっていく。まさに正のスパイラルってとこ。こんな意義のある仕事はないよ。今の世の中、ただぼんやりしてるだけじゃ取り残されるどころか、いつホームレスになるか分かんないんだから。重要なのは自分を高め、人より上に出ること。高みに立つんだ。高いとこに立ってみなきゃ見えないことがいっぱいあるからな。逆にそれをやんなかった者が落ちこぼれて何も見えなくなる。で、将来小汚いホームレスになったりする。それが負のスパイラル。オレらは絶対そうならない。だってもう目覚めてるもんな」
 目的地に着くまで城有は熱弁を振るった。海斗は熱心に耳を傾けている。それどころか、手帳を取り出してメモを取ったりしていた。その様子に、城有がいよいよ上機嫌で目を細める。
 青山のロックオン・ワンは、立地にふさわしい洒落た店だった。
 城有が入ってくるなり、若い女の歓声が沸き起こった。城有のファン達だ。
「城有さん、お忙しいとこすんません」
 日に焼けた男が立ち上がって挨拶する。どう見ても城有より年上だ。
「こいつらがどうしてもお目にかかりたいって」
「いいからいいから。オレ、別に芸能人でもなんでもねえし、せっかく会いたいって来てくれてるのに、冷たいマネなんてできねえよ」
 口調が微妙に男らしいものへと変わっている。女性客達がさらに沸いた。尋常ではない興奮ぶりだった。
 これが城有さんの人気か――
 城有のカリスマは、SNSを通してより広く、より強烈に伝播する性質を帯びているような気さえした。
「あのー、お写真撮ってもいいですか」「あたしも一緒に写っていいですか」「インスタにアップしていいですか」
「おお、いいよ。インスタでもなんでも好きにアップして構わねえよ」
 女達の要求に対し余裕に満ちた態度で応じている。実に堂に入ったものだった。
 城有の周囲にはたちまち十代とおぼしき女の子達が集まった。翔太と海斗は少し離れた席に座ろうとしたが、
「おい、何やってんだ、おめーらもこっち来いよ」
 城有に呼ばれて同じテーブルへと移動する。
「こいつらは翔太に海斗。二人ともオレの弟分みたいなモン。みんなも仲よくしてやってくれよ」
 無遠慮な熱い視線が翔太の全身に浴びせられる。
 二人ともイケメンじゃん――ほんと、カッコいい――さすが城有さんの弟分――あたしは右側の人がいいな――あたしはゼッタイ左側――
 あからさまな品定めの声が聞こえてくる。それは決して不快ではなかった。
 城有がこちらに向かって頷きかける。だが甘く優しい視線ではない。その意味を翔太はすぐに理解した。
 ここにいる女達は全員が〈ターゲット〉だ。言い換えれば宝の山だ。そしてここから、さらに〈学べ〉と言っているのだ。
 その夜は最高だった。何よりも最高なのは城有だった。
 女達を笑わせ、男達を愉しませ、いつでも場の中心にいながら、隅々にまで抜かりなく気を配る。
 若者達の流行を先取りする感覚。それに基づく気の利いたジョーク。気取らず、親しみやすい雰囲気を演出しつつ、時折危険な横顔をほんのわずかに覗かせてみせたりもする。まさに完璧な〈みんなの兄貴分〉だ。
 なるほど、この人があのマニュアルを書いたのだとひたすら感心するばかりである。人を惹きつける技術を余すところなく身につけている。海斗に至っては女の子よりも熱い視線で城有を見つめていた。よほど感激したのだろう。
 高価な酒が次々と開けられ、グラスを掲げた城有と女の子達の笑顔にスマホのカメラが向けられる。それらの写真は今夜のうちに拡散され、城有の信奉者が幾何級数的に増えていくというわけだ。
 午前一時を過ぎた頃、女性達は三派に分かれてロックオン・ワンを後にした。城有に付いていくグループ、そして翔太、海斗に付いていくグループだ。当然ながら城有に付いていく女が一番多い。全部で六人。ちょうど全体の半数だ。そして翔太が三人、海斗が三人を別の店に案内することになった。
「キミ達もうサイコー」
 店を出るとき、城有は翔太と海斗を両手で抱き寄せ、耳許で囁いた。
「今度またゆっくりろう。キミ達のこと、もっと知りたいから。今夜は二人ともじっくり学んでくれよな」
「はいっ、ありがとうございましたっ」
「お疲れ様でしたっ」
 最敬礼で城有を見送る。翔太は海斗と目を見交わして、それぞれタクシーを止めて女達と乗り込んだ。
 三人か――城有さんがいたというのに悪くない成績だ――
 この三人の中で、カタラに引きずり込めそうなのは誰か。助手席に座った翔太は、如才なく女達に話しかけながら、冷徹な観察を心がけた。
 それこそが城有の言う〈学び〉なのだから。

 

(つづく)