長門国(現在の山口県)赤間ヶ関は、墨を流したような闇に沈んでいる。かちゃかちゃと音を立て、一人の鎧武者が石段を上っていく。
阿弥陀寺の山門の前までやってくる。門扉は固く閉じられているが、武者にとって障りとなるものではない。一歩踏み出すと、するりとその体は門扉をすり抜けた。
武者の名は、瀬波頼重。亡霊である。
かつては平家一門の侍として栄華に浴したものの、源頼朝が挙兵してからというもの源氏の勢力に押され、ついにここ、赤間ヶ関と豊前国(現在の福岡県)門司に挟まれた壇ノ浦にて、一族もろとも滅ぼされてしまったものである。心ある仏僧により海岸沿いに一門の墓所が作られたものの、仏僧亡き後、その墓所も荒れ放題、一門の魂は、いつ終わるとも知れない悔しさと虚しさの日々を過ごしている。
滅亡してから百余年――。
思いがけず、ここのところ一門には楽しみができた。今宵もまた、あの男の弾き語りに身を漂わせるのだ――。
「おや?」
ひょろりとした松の立つ庭にやってきたところで、頼重ははたと足を止めた。いつもの縁側に、芳一がいない。近づいていく。人の気配はない。
「芳一」
声をかけるも、返事はない。厠にでも行っているのであろうか。縁側より寺の中へ上がり、仏像の前を回った。いない。戸をすり抜けて廊下に出る。片っ端から閉じられた戸を通り抜けて部屋を覗いていく。いない。
「芳一、芳一」
焦った。今宵も一門の者は芳一の弾き語りを心待ちにしておる。芳一を連れて帰ることができなければ、言い訳が立たぬ。
寺じゅうを回って本堂に戻る。
「芳一、どこへ行った!」
苛立ち紛れに怒鳴ったそのとき、
――ぴぃーん
どこかから音がした。琵琶の弦の音である。耳をすませてもそれ以上聞こえぬが、音のした方向はわかった。
今まで何度もこの寺に来たが、気づいたことはなかった。庭の一隅に土壁の粗末な離れがある。頼重はその離れへ近づいた。
「芳一、ここか。開けろ」
声をかけたが、板戸が開く様子はない。だが、琵琶の音はここから聞こえた。拒むというなら、こちらから行くまでである。頼重は板戸をすり抜け、中へ入った。
畳を一列に八枚並べたほどの、奥に長い建物だった。がらんとして、粗末な筵が一枚と、琵琶、あとはなみなみと水を湛えた桶が一つあるばかり。見回しても人の姿などない。ここではないのか――と思ったそのとき、得も言われぬ気分の悪さが体を襲った。
「な、なんだこれは……」
人の耳が、宙に二つ浮いているのだ。
頼重は悟った。芳一は一門の前で弾き語っていることを、寺の者にしゃべったのだ。そしてそれを聞いた寺の者は芳一の体に、何かしらのまじないをかけたのだろう。だから頼重には芳一の姿が見えぬし、近づくのも憚られるほどおぞましい心持ちがするのだ。どういうわけだか、耳にだけはそのまじないがかからなかったと見える。
「小癪なことをしおって……芳一! 立たぬか!」
びくりと耳が震えたのはわかったが、従う様子はなかった。
「来ぬというのだな」
しばし思案する。よからぬまじないがかけられているとすれば、無理やり芳一を連れ帰ったところで、一門の者に苦しい思いをさせるかもしれぬ。
「この瀬波頼重、お前を連れて帰る役目を怠ったと思われるも心外。されば、寺を訪れた証に、そなたの耳をもらっていこうぞ」
反応はない。
頼重は近づき、両手で芳一の耳をつかんだ。力を籠めると、ぶちぶちぶち……と、両の耳を引きちぎった。
「さらばじゃ」
と、板戸のほうを振り返ったところで足を止めた。板戸の内側にはしっかりと閂がかかっている。亡霊たる頼重はこの戸をすり抜けるのはわけはない。だが今手元にあるこの耳は現世の物で、戸をすり抜けることはできぬ。かくなる上はこの閂を外してもよいが……と、再び離れの中を見て、気づいた。水の入った桶のちょうど上あたり、土壁の一部に穴が空いている。あれなら、耳くらい通り抜けられるであろう。
頼重は芳一の耳を携えたまま人魂の姿となり、その穴から外へ出た。
あとには、恐ろしいほど静かな闇が漂うばかり――。
こうして耳をなくした芳一。それがどうして殺人現場に倒れていたのか……個性際立つ陰陽師とのやり取りと合わせ、続きは本書でお楽しみください!