プロローグ 始まりの北風

 

 目が覚めると、窓の鎧戸の隙間から朝陽が差し込んでいた。

 トキニスは思い切り伸びをして、右隣に目をやる。

 愛しいアニタが、うつ伏せになって寝息を立てている。白い肌、すらりと伸びた四肢、レモンのように鮮やかな色の髪——オリンポスの女神をすべてあつめても、こんなに美しい裸身は拝めぬだろうと思った。

 昨晩の甘美な時間が頭の中に蘇り、トキニスは思わず口元がゆるんでしまう。アニタの夫は船乗りで、この町に帰ってくるのは七日後になる。少なくともあと六晩は、この女とめくるめく時を過ごすことができる。そう思えば、教室でガキども相手にきれいごとを並べ立てる、苦痛な授業も耐えられるというものだ。

 少し外の空気でも吸おうか。新しき日の自然の恵みを享受するのだ。

 トキニスはベッドから降り、鎧戸を開く。テラスに出ようとしてぎょっとした。

 見知らぬ若い男が立っていたのだ。

 銀色のつば広の帽子を被り、同じく銀色のコートで体をすっぽり覆っている。このグリース国ではおよそ見ぬ服装である。

「おはようございます、トキニス先生」

 男は言った。

「な、なんだお前は……」

「お忘れですか。イソップです」

 その名には聞き覚えがあった。生真面目で勤勉……だが成績はそこまでよくなかった、十二歳の少年……

「おお、イソップか」

 かつてトキニスが教えていた生徒の一人だった。たしかに面影がある。

「大きくなったな」

「二十五歳になりました」

「そうか。しかしお前、どうしてうちのテラスにいる?」

「先生、ベッドで寝ているその女性はどなたです?」

 イソップは無遠慮に部屋の中を指さした。

「……私の妻だ」

「正直にお答えください。船乗りヨナスさんの奥さん、アニタさんでは?」

 ぐう、と喉から出た。

「他者のものを盗ってはいけない。先生はそう私に教えませんでしたか?」

「恩師を詰問する気か、この恥知らずめ。人は正直に生きるものだ。私もアニタも、自分の気持ちに正直になった結果がこれだ」

「なるほど。それではヨナスさんにも正直に言うおつもりですね?」

「そんなことができるか」

「先生が不実だからですか」

 そのときトキニスは、イソップの目の異常に気づいた。瞳孔が黒ではなく銀色なのだ。見ているだけでゾッとするような色だった。

「不実な者には相応の報いがある。これも先生から教わったことです」

 イソップは両手を広げる。

 直後、およそ信じられないことが起きた。

 澄みきった青空に、もくもくと黒い雲が立ち込めてきたのである。その雲からはびゅうびゅうと風が吹き寄せる。寒くなって自らの両肩を抱くトキニスの目に、襲い掛かってくる白い粒が見えた。

 あれは、雪?

「嘘だろ」こみあげる恐怖と戦いながらトキニスは言った。「このグリース国に、雪など……」

 その言葉は、打ちつける氷雪によって遮られた。急速に奪われていく体温。寒さは痛さに変わり、しかし声を上げる暇をトキニスに与えない。

 すべては、一瞬で終わった。

 イソップはくるりと踵を返す。

「——この世には、正しい教訓が必要なのです」

 白い氷の像と化したトキニスの耳に、その言葉は届かなかった。

 

1.

 

 まったく、なんて酸っぱいブドウかしら!

 赤ずきんは悔しくてたまりません。せっかく知恵を働かせて手に入れたブドウだというのに、こんなに酸っぱくてはわりに合わないじゃありませんか。

「美味いなあ、美味い、美味い」

 目の前では一匹の狐が、口の周りを紫色にしながらブドウにがっついています。

「常日頃から美味そうだと思っていたが、みんなの目があるから食えねえんだ。だけど今日はみんな競走に夢中だから見られる心配はねえな」

「こんなに酸っぱいブドウ、よく食べられるわね」

 赤ずきんは自分のブドウを道に投げ捨てました。

「ええー、もったいない!」

 赤ずきんが捨てたブドウに、狐はかぶりつきます。人間と狐では味覚がちょっと違うのでしょうか。だとしたら今だけでも狐の味覚になりたいものだわ、と赤ずきんは天を見上げます。雲一つない青空。空気も澄んでいて気持ちいいはずが、全然気分は晴れません。

「また、知らないところに、置き去りよっ!」

 悲痛な声が、森の中にこだましました。

 

 

 赤ずきんは先ほどまで、ペルシャのクテシポンという町にいました。話せば長いのですが、アラビアの不思議な魔法が巻き起こす事件を次から次へと解決し、そのエピソードを使って一人のか弱き女性を助けたのです。その後は王の宮殿で歓待を受け、今朝、はるか遠くにある赤ずきんの森の中の家に帰ろうと、指輪をきゅっきゅっきゅとこすったのでした。

「お呼びだずか、ご主人様?」

 現れたのはピンク色の魔人です。この魔人は指輪をこすった者をご主人様と呼び、なんでも願いを叶えてくれるのです。

「私を、お家に連れて帰って」

「お安いごようだず」

 魔人はひょいと背中に赤ずきんを乗せると、ぐいーんと天高く舞い上がりました。クテシポンの人々に見送られながら、気分よく家に帰れる——はずだったのです。

 砂漠を通り抜け、海を渡り、青々と木の生い茂る半島の上空に差し掛かってしばらくしたときでした。

「ああ、いってて……」

 指輪の魔人が急にお腹を押さえたのです。

「どうしたのよ」

「なんだか、腹の調子が悪いだず」

「あんた魔人でしょ?」

「魔人だってたまには腹を壊すだず。あー、いてて!」

 魔人が急降下して、目の前に森が迫ってきました。どこかでガラリコローンとへんな鐘の音が響きます。

「赤ずきんさん、申し訳ねえだず。いったん、戻らせてもらうだず」

 そう言って、しゅるると魔人はピンク色の煙になって指輪に戻っていったからたまりません。赤ずきんは唯一の荷物であるバスケットと共に、森に真っ逆さまです。

「きゃああ!」

 地面に叩きつけられるかと思ったら、赤いずきんが木の枝に引っかかり、ぶら下がった状態になりました。骨が折れてしまうことはありませんでしたが、地上までは大人の身長ぐらいの距離があります。

「誰か下ろして、誰か!」

 叫んでいると、「あらあ」という可愛らしい声が聞こえてきました。枝を伝って、一匹のリスが赤ずきんのほうに向かってくるのです。赤いずきんにつけられたイーリス鳥という不思議な鳥の羽のおかげで、赤ずきんは動物の言葉がわかるのでした。

「あなた、誰か助けを呼んできてよ」

「誰かって誰よ」

 言いながら、リスは赤ずきんの足から腕を伝ってきます。そして、赤ずきんの指先を小さな両手でつかみました。赤ずきんは、リスの意図を理解しました。

「これちょーだい」

 指輪です。銀色に光る指輪に興味があって、外そうとしているのです。

「やめて。この指輪を取られたら、もうお家に帰れなくなっちゃうの」

「ちょーだいったら、ちょーだい」

 リスは言うことを聞く気がないようです。

 赤ずきんはリスを離そうと思い切り手を振りました。みしみし、みしみし、とその振動で枝に亀裂が入ってしまったようです。

 ……まさか。

 赤ずきんの予感は当たりました。ぼきりと枝が折れ、

「きゃああ」

 赤ずきんは地面に叩きつけられました。

「痛いっ!」

 赤ずきんが悶えている隙に、リスは指輪を抜き取りました。

「あっ、ちょっと……」

 赤ずきんは手を伸ばしますが、リスはもう木を登っていってしまいました。

「ううー……」

 さんざんよ、と嘆きながら赤ずきんはしばらくその場にうずくまっていましたが、ひょっとして熊や狼のような恐ろしい獣がいるかもと思い、立ち上がりました。

 不幸中の幸いと言いましょうか、そこは森の中の一本道でした。道に沿うように古い木のレールが敷かれていて、トロッコが通っているかのようでした。

 どちらに進めばいいのかわかりませんが、こういうときはとにかく北よ、と、太陽の方向から北を見定めて赤ずきんは歩きはじめます。枝から落ちたときに打った腰がピキピキと痛みます。それに、毎度のことながらお腹がすいてきました。

「ああ、絶望だわ」

 つぶやいたそのとき、道の脇に何か白い物があるのが見えました。近づいてみると、それはイタチの像でした。大理石でしょうか。いやむしろ、氷のように見えます。後ろ脚を地面につけ、両前脚を天に伸ばし、悲壮な表情で、まるで何かから逃げている最中のようです。いったいどうしてこんなところにこんなものが……と思っていると、

「酸っぱいに決まってる!」

 道の先から悔しそうな声が聞こえました。てっぺんに風見鶏がついた柱が中央に立つ十字路があり、四つ角のうちの一つに立派なブドウの木が生えているのでした。大人の身長二つ分くらいの高さに、おいしそうなブドウがわんさか生っています。その実を取ろうと一匹の狐がジャンプしているのですが、あまりに高くて届かないのです。

「くそっ、あんなの酸っぱいに決まってるよ!」

 そう悔しそうに言いながらもまたジャンプし、失敗し、負け惜しみを言って……というのを繰り返しているのでした。

「ねえ、少しは工夫しなさいよ」

 赤ずきんは思わず口を挟みました。狐は赤ずきんのほうを見て、恨めしそうな目をします。

「なんだあんた? いいんだよ、どうせ酸っぱいに決まってるんだから」

 負け惜しみが口癖のようになっているようでした。何か使えるものはないかしらと赤ずきんは辺りを見回し、木のレールのそばに、壊れたトロッコの底の部分が捨てられているのに気づきました。付いている車輪は動くようです。

「ちょっとついてきて」

 赤ずきんはレールに車輪を噛ませ、狐に手伝わせてそのトロッコの底板をがらがらと押していきます。そして、さっきのイタチの像のところまで戻ってきました。

「つめたっ!」

 やっぱりそれは氷でできているようでした。ですが、太陽の下でも一向に解ける気配はありません。不思議なものがあるわねと思いつつ、それをトロッコの底板に載せて再びレールの上を転がし、ブドウの木の近くまで持ってきます。そして、ブドウの下にイタチの像を置きました。

 冷たい冷たいと言いながら、赤ずきんはそのイタチの像によじ登ります。かなりいいところまで来ましたが、あと少し、手が届きません。

「狐さん、私の体を使ってジャンプしてみて」

「えー?」

 ほとんどやる気を失っているような狐でしたが、赤ずきんが「あきらめないで」と叱咤すると、勢いをつけてイタチ像から赤ずきんの背中を伝い、肩を蹴るように飛び上がってブドウをくわえたのです。

「やったわ!」

 こうして赤ずきんたちは、立派なブドウを二房、手に入れたのです。

 

家に帰りたいのに帰れず、ブドウを食べたいのに食べられず、散々な旅の途中の赤ずきん。このあと、立ち寄った村の住民が殺されて……。赤ずきん、がんばれ!!

 

『赤ずきん、イソップ童話で死体と出会う。』は全4回で連日公開予定