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 ひつぎの中のミチオくんは眠っているみたいだった。見覚えのある顔のようにも、全然知らない顔のようにも見えた。キャンパス内で彼がよくわたしを見失ったように、こんな特別な箱の中に入れられていなければ、自分も街中の雑踏でミチオくんを見つける自信はなかった。
 わたしはミチオくんによく見えるように顔を近づけた。
 わたし、誰だかわかる? ちゃんとがんばってメイクしてきたんだから少しはほめてよね。
 お葬式の最初から最後まで、ミチオくんの奥さんという人が彼のことを「いい人」と何度もくり返した。ほんとうにいい人で、と云っては泣き、いい人すぎて、と云ってはまた泣いた。ミチオくんはいい人だったっけ、とわたしはわからなくなった。お経みたいにあまりにも復唱するので、わたしも心の中で「いい人いい人どうでもいい人」とふしをつけて唱えてみた。
 しばらくそうやって気をまぎらわせていたけれど、途中でやっぱりつまらなくなってきた。なによりせっかく気合いを入れて決めてきたこの恰好を披露する場がなさすぎた。立ちあがって前に出るのはお焼香のときくらいで、それだって他の参列者はうつむいている人が大半でこちらを見ようともしない。だから喪主のあいさつの途中、声を詰まらせた奥さんに向かって、「まったくミチオさんはいい人でした」と云いながら抱きついてみた。嘘泣きは昔からけっこう得意だったのだ。それもすぐに現れた葬儀場のスタッフによってやんわりとひき剥がされてしまった。席にもどり、今の演技はいまいちだったか、とわたしは小さく舌打ちした。
 それからはおとなしくしていた。棺に白い菊の花を手向け、霊柩車が出発するまで見送った。あのときのドタバタした別れとは違う、長い別れの時間だった。わたしはミチオくんを乗せた車が視界から消えてしまっても、ぼけっとその消えたあたりを眺めていた。寒い。クリスマスイブだっけ、今日。両目のはしっこが乾いた涙ととれかけたマスカラがこびりついてごわごわしている。嘘泣きとはいえ、泣いたのはいつ以来だろうか。
 背後で屋内にもどる参列者たちの自動ドアの開閉音を耳にしながら、わたしはなにかをやり遂げたような充足感に包まれていた。

 ママから「結婚しようと思うの」と電話がかかってきたとき、わたしは「ほらね」と条件反射で返していた。
「ほらねってなによ、ちいちゃん。ママ、今はじめて云ったんだけど」
 ママは不満げな口調で云った。わたしが驚かないのがおもしろくないのだとわかった。でもいつかはくると思っていた。だから、ほらね。
「相手はどんな人?」
 水を向けるとうれしそうに語りだした。しゃべりたくてたまらない様子だった。すごくやさしくて、知的で、包容力があって……。少女のようにはずんだ声だけを聞いていると、どっちが母親でどっちが娘だか知らない人は迷うだろう。ママは相手の内面ばかり自慢していたけれど、きっと外見もかなりのレベルに違いない。あの男と離婚して年を経るごとにママの面食い度数はさらにアップした。つまりアクセサリーにより輝きと高い価値を求めるようになったということだ。それができるのは本人がその輝きに劣らないほどのうつくしさを保っている自負があるからなのだとわたしは思う。
「よかったね、おめでとう」
 てきとうに聞き流してから話をうち切るようにお祝いを云った。するとママは、あらあら、と軽く笑った。
「おめでとうはまだよ、ちいちゃん」
「でも結婚するんでしょ」
「紹介したいの。ママひとりじゃ、また失敗するかもしれないでしょう。ちいちゃん、うちにきてよ。近ごろ全然寄ってもくれないんだもの。それであれやるの、品評会。ほら昔ふたりでよくやったじゃない。たのしかったわよねえ。ちいちゃんの意見を聞かせて。それで結婚するかどうか決めるから」
「意見って云われても……」
 そんなものほんとうは必要ないということくらい、わたしにもわかっている。失敗するかもなどと殊勝なことを云っても、ママは本心ではもう決めているはずだ。家から足が遠のいたわたしを呼びつけたいのと、あともうひとつは単純に相手を見せびらかしたいからに決まってる。
 この人は一生こうなのだ。
 娘の婚約者に色目を使った挙句、結婚の約束を反故ほごにされたこともなんとも思っていない。その傷が尾を引いていまだ独身のわたしに、今度は自分の婚約者を紹介したいとのうのうとのたまえる鋼の心臓の持ち主なのだ。あくまで自分の欲望に忠実で絶大な自信があるからこそできる所業。一周まわってすがすがしいくらいだった。
「わかった。いくわ」
 気づいたときにはそう返事してしまっていた。
 紹介された高梨たかなしさんは落ち着いた雰囲気の眼鏡をかけた男の人だった。無造作なグレーヘアが学者っぽく見える。ママが自慢するだけあってなかなかのイケメンだった。隣でゆったりとほほえむママも六十手前とはいえじゅうぶんきれいだった。ふたりが並ぶと絵になった。このまま鉄道旅行の広告に起用されてもおかしくないくらいだ。
 おだやかな話しぶりの高梨さんの横でママは出しゃばらず、うんうんと小さく頷きながら黙って聞いていた。高梨さんにも一回離婚歴があった。息子さんがひとりいるけど結婚し家庭を築いてしあわせに暮らしているという。幼稚園に通うお孫さんもすでにいるらしい。あちらのご家族は今回の再婚をとてもよろこんでくれていて、なんの問題もないという話だった。
「千奈さんにもわたしたちの結婚を認めてもらえるとうれしいのですが」
「はい」
「たった一度会ったくらいでその答えをいただけると思うほど図々しくはないつもりです。今日はまずわたしという人間を知っていただくというごあいさつ程度で」
「わかりました」
 相手が敬語で話すので、わたしのほうも合わせて返さざるをえない。今までママの周囲にいなかったタイプの人だった。丁寧すぎてどうも調子が狂ってしまう。だけどママはいつもよりもおとなしく、電話口では昔みたいに品評会がどうのこうのと軽薄に云っていたわりにはずいぶん落ち着いているように見えた。もしかしてあれはただの照れ隠しだったのだろうか。
「どうしてママと結婚しようって思ったんですか」
 直球を投げてみた。ふつうに疑問だった。高梨さんがママの男遍歴を知っているかどうか訊いてみたい気持ちもあったけど、さすがにそれは云えなかった。
「彼女となら、このさきの人生をおだやかでしあわせな時間の中で一緒に過ごしていけそうだと判断したからです」
 おだやかでしあわせな時間……。それはわたしとママの人生においてこれまで一度もなかったものだった。わたしたちは常に、云ってみれば狂乱の渦中にいた。その中でお互いに少しでも勝っているものを誇ることがしあわせだった。ママはこの人と変わろうとしている。それをわたしは祝福しようと思った。
「おふたりでおしあわせに。ママのこと、よろしくお願いします」
 結婚式はお互いの家族を招くだけのこぢんまりしたガーデンウェディング形式で行われた。ママのドレスも動きやすくシンプルなマーメイドタイプで、そのぶん髪のセットにブーケと同じ生花をふんだんにあしらい、顔まわりをはなやかにひき立てていた。花嫁用の控室でママはデコルテに手をやると顔をしかめて云った。
「やあね、太っちゃった。鎖骨が沈んでこれじゃ境目がわからないわ」
「そお? ママくらいの年齢なら痩せて貧相に見えるよりも少し脂肪がついたほうが上品で裕福そうに見えるんじゃない?」
「そうかしら?」
「そうよ。大丈夫、ママきれいよ」
 ママの背後に立ち、鏡越しにこう云うとやっと安心したようにほおをゆるめ、「ありがとう」と答えた。そしてひそひそ話をするようにわたしの手をとり自分のほうにひき寄せると、耳もとでささやいた。
「ねえ、ちいちゃん」
「ん?」
「ママより目立っちゃ嫌だからね」
「………」
 一瞬言葉に詰まった。まだ、云うのか。気をとり直して苦笑いしつつ、「はいはい」とわざとそっけなく頷いた。これまで幾度となくくり返されたやりとりだったのに、わたしは胸をつかれた思いだった。
 この人はいったいなにをこんなにこわがってきたのだろう。いつだってあなたは主役で脇役はわたしだったのに。どんなに対抗しても最終的には負けてきた。若さだけを武器に一本槍でたたかってきたのはこっちなのだ。でももうわたしもそんなに若いとはいえない、こわがる必要なんてどこにもないのだ。
 鏡の中のママと目が合った。瞳が揺れている。これまで押し隠してきた不安の色が消えずに残っていた。ママ自身、美貌のかげりに動揺しているのかもしれなかった。わたしはママと見つめあったまま、手の甲でぐいっと乱暴に唇を拭った。つややかなグロスごと口紅の色はほとんど剥げてしまった。こうするとずいぶん顔色がくすみ、一気におばさんになった気がした。
「これでいい?」
「ありがとう、ちいちゃん」
 式はお互いの家族を交えておだやかに進んだ。向こうの息子さん夫婦も感じがよく、小さなお孫さんはかわいらしかった。手入れが行き届いた庭には色とりどりの花々が咲き誇り、今ここにあるすべてがふたりを祝福しているようだった。
 結婚後、ママと高梨さんは郊外の別荘地に移り住み、わたしが残された家にひとりで住むことになった。