最初から読む

 

 洗顔後、これでもかというくらい化粧水を叩きこみ、乳液、クリーム、美容液とひたすら保湿する。下地をムラなく塗ったあと、ごまかせないシミやくまをコンシーラーでひとつずつ丹念に塗り潰した。ここまでを怠るといくら化粧をしてもくすんだ感じになってしまうのだ。
 ミチオくんのお葬式の朝だった。
 わたしは早起きしてママの食事を介助し、家のそうじや洗濯ものなど、ひと通りの仕事をすませた。お葬式は午後からだったけれど、やるべきことをやらないと落ち着かなかった。昼前にはヘルパーさんがきてくれるからママの昼食の心配はいらない。車椅子でうつらうつらするママを確かめてから気合いを入れて準備をはじめた。
 特にメイクには気を遣わなくちゃいけなかった。ふだんさぼっているそのツケがまわっているのは自覚しつつも、丁寧に肌のコンディションを整えていく。女優ライトを点けた鏡の中のわたしの耳もとで言葉がぶんぶん飛びまわっている。何年経ってもBGMにならなかった腹立たしい言葉。意味だけが独立して一匹の虫のようになってしまった言葉。云った本人がどんなだったか、姿や声もおぼろげにしか思いだせないにもかかわらず、この言葉の虫だけがしぶとく生き残っている。いつもは気配を消してふわふわと浮遊し漂うくらいなのに、今日はやけにうるさかった。
――千奈ちゃんはさ、化粧しているほうがかわいいね。
 口調はやさしげで率直な感想だとしても、云っていることはあの男と一緒だった。なんて他意のない、だからこそ失礼な言葉だろうか。そしてそれが真実であることをわたし自身が誰よりもよく知っていた。長年胸に刺さっていたくいをあの男がさらに打ち、その上からまたミチオくんが打って、いよいよ抜けなくしてしまったのだ。
 その言葉を聞いたのは、ミチオくんの部屋にはじめて泊まった日の翌朝だった。シーツにくるまり寝返りを打った瞬間、ちょうど起きたらしいミチオくんと目が合った。ミチオくんは、お、と声にならないけどそんな感じで頭をわずかに引き、そしてほほえみを浮かべながら云ったのだ。
 わたしは目をぱちくりさせた。昨夜恥ずかしがりながら素顔をさらした彼女に起き抜けにかける言葉とは到底思えない。なんなんだ、こいつ。猛烈に怒りがこみあげてきたわたしはミチオくんをベッドから蹴り落とした。なにが腹立つって、ふだんからミチオくんはわたしをよく見失った。デートのとき、方向音痴のミチオくんはしょっちゅう道に迷ったけど、それとは訳が違う。毎日通うキャンパス内で愛しい彼女がすぐ目の前に立っているというのに見失うのだ。いくら似たようなメイクとファッションに身を固めた若い女たちがごろごろいるからといってそれはないだろう。なかなか見つけてくれない彼にいらだって、「ミチオくん、こっち」と声をかけると、やっぱりさっきみたいに、お、と少し驚いた顔をしてから急いでやってきて照れたように云うのだ。
――女の子って集団でいると、みんな同じに見えて困っちゃうな。
 なにが、困っちゃうな、だ。メイクをしていても他の女と見分けがつかないくせに、それがなに? 化粧しているほうがいいって素顔がそんなにまずいってこと? もしそうだとしてもそこは素顔もきれいだね、とか、ナチュラルでいいね、とか、歯が浮くような嘘っぱちの台詞せりふでもなんとか絞りだすのが、一緒に朝を迎えた彼女に対する礼儀ってもんでしょうよ。
「あれ?」
 カーペットに転がったミチオくんは下着姿で首をひねって云った。ほめたつもりなんだけどな、と小声で呟く。その鈍感さにますます腹が立って、わたしは足もとに丸まっていたミチオくんの服を投げつけた。
「出てってよ」
「でもここぼくの部屋……」
「いいからっ」
 云われて素直に出ていくところも憎らしい。思いだした。わたしはミチオくんのそういうところが嫌いだったのだ。ピュアで裏表がなくて、だから悪気なんて全然なくて、自分とは真逆の天然記念物みたいな男。天然石だと思って拾ったら天然記念物だった。笑える。笑えないか。磨けば光るかも、なんて考えたわたしが莫迦だった。もうすでにミチオくんはじゅうぶん珍しかった。その混じりけのない輝きにこっちが目を背けたくなるほどに。わたしのアクセサリーに彼は必要なかった。アクセサリーに見劣りする屈辱などこっちから願いさげだ。
 別れよう。
 約一時間後、ミチオくんはおそるおそるもどってきた。ドアの内側で靴を脱ぐかどうか迷っている。わたしがまだ怒っているか心配なのだろうと思い、「入ったら?」と声をかけてもまだぐずぐずしている。はやく決着をつけて帰ってしまいたかったわたしは再びいらいらしはじめた。
「ちょっと話があるの」
「あ、うん」
「だからはやく入ってよ」
「あ、いや……」
 なにをためらっているのか、よく見ると胸のあたりになにかを抱えている。きっとコンビニでもいって時間を潰してきたんだろう。ついでにわたしの機嫌をとるためにスイーツでも買ってきてくれたのか。この期に及んでまだ自分のためかもと浅はかな期待をふくらませるわたしをあっさり裏切って、ミチオくんは大事そうに胸に抱えていたものをそっと床におろした。
「え、なんで?」
 ミャア、とか細い声で鳴く、それは灰色の小汚い子猫だった。
「拾ってきたんだ」
「だから、なんで今?」
「なんでって……捨てられてたから」
「そうね、そうだろうね」
 わたしはうんうんと頷いた。
「じゃあ、別れよっか」
「え」
「ま、そういうことだから」
 立ちあがり、スニーカーを脱ぎかけたミチオくんがぽかんと見あげるのを無視して壁沿いを横歩きする。そうしないと小さな灰色のかたまりを踏んでしまいそうな気がしたからだった。せまい玄関でクロスしながら無理やりサンダルをつっかけドアを押し開けた。ひとりぶんのすき間に身体をすべり込ませると子猫が逃げださないようにすぐに閉める。われながら無様な退場シーンだった。
ドアを背にひと息吐くとわたしは歩きだした。
 ほんとうはもう少しスマートに別れたかった。ちゃんと話す気だってあったのだ。でもなんか、もうどうでもいい気分になっていた。あの場面で弱々しく鳴く子猫をはさみ、ふたりでなにを話せばよかったというんだろう。わたしはミチオくんを拾って捨て、ミチオくんは誰かが捨てた子猫を拾ってきた、それだけのことだった。ミチオくんはわたしにとってどうでもいい男だった。いらないから捨てられたのはミチオくんが全部悪いのだ。なのにどうしてだかわたしは自分が捨てられたように感じていた。あの子猫はこれからしあわせに生きるのだろう。着飾る必要も虚勢をはる必要もない、あの子猫のことをミチオくんは愛するだろう。それだけは間違いないように思えた。
 眉のバランスを何度も鏡で確かめながら慎重に描く。ブラシでぼかす手をとめ、そういえばあの猫はまだ生きているだろうかと考える。動物を飼ったことがないから猫の寿命にくわしくはないけれど、もう二十年近く経つんだし、おそらく生きてはいないだろう。あの小さかった子猫が大きくなって、老いて死ぬ。猫の一生分を超えてわたしたちは会っていなかったんだと思うと変な具合に胸が苦しくなった。
 メイクを中断して薬を飲む。ぷちんぷちん。大丈夫、今さらなにがどうなるものでもない。過去は過去、現在は現在だ。ぷちんぷちん。落ち着いて、しっかりしてよ。昔のあれこれなど思いだしたりするからこうなるのだ。
 たぶん二度と会う予定もなかった、忘れていたどうでもいい男。心配事をひとつずつうち消していく。それにそう、あっちの世界であの猫と暮らせるのなら、ミチオくんも少しはさみしくないでしょ。
 メイクを終えてあの喪服に着がえると、自画自賛ながら見違えるようだった。ママの云ったとおり喪服は女をうつくしく見せる。知らず知らずのうちに背すじまでしゃんと伸びているから不思議だ。まだいける。わたしはひさしぶりに自信をとり戻した。
 駅からタクシーで葬儀場に着くと、足を揃えて降りるよう気をつけた。ふだんはママの世話で動きやすい服装に慣れていたから乗るときに無意識に大きく片足を踏みだしてしまい、ワンピースの裾がぴんと伸びきりひやりとした。破れなかったかと車内でさりげなく確認し、無事だったことにほっとした。ワンピースだけではない、ヒールのパンプスも黒い薄手のストッキングも乱暴な動きをすると危険だった。そういう繊細なものを扱うのがだめな女にすっかりなってしまっていた。