男なんてアクセサリーみたいなものだとママは云った。持っていて損はない。ほんものでも、イミテーションでも、そこそこ清潔で見栄みばえが悪くなければそれでオッケー。それぐらいが自分を輝かせてくれるのにちょうどいいの。
 そういう意味で、ミチオくんと大学時代につきあったのは間違ってなかったと思う。控えめで、なんでも云うことを聞いてくれる、わたしがわがままを通してもいつもにこにこ笑っていた。かわいい彼女が隣にいてくれるんだから、あたり前っちゃあたり前の話。顔のつくりも地味だけど、よく見ればまあまあいい線いっていた。わたしはママみたいに面食めんくいじゃなかったから点数は甘めだったけどね。
 もちろん、貴重な大学生活をミチオくんとだけつきあっていたわけじゃない。その他大勢のうちのひとり。アクセサリーはひとつじゃつまらない。指輪を買えばネックレス、ネックレスの次はピアス、と自然と増やしたくなる。それに指輪にだって石の種類はいろいろあるのだ。ミチオくんはなんの石だろう。名前もわからない、みがけば光るかもしれないくらいの天然石、その程度の価値だった。
 そんなミチオくんのことをなぜ記憶の底から必死にひっぱり出しているかというと、それはつまり、彼が死んだと知らせを受けたからだった。どこがどうつながってわたしにまで連絡がきたか知らないけれど、きてしまったものは仕方ない。気のりしないまま、わたしはママに云った。
「ミチオくんさ、死んじゃったんだって」
 わかるわけがないと思っていた。もう二十年近く前のことだし、ママに紹介したあまたの彼氏のうちのひとりなのだから。つきあった期間もそんなに長くはなかった。完全スルーか、よくて「そんな子いたかしら」ぐらいの反応が返ってくるだろうとわたしは考えていた。
「まあ大変」
 ママは大きく口を開け、驚いてみせた。あごのあたりに開いた手をあてる。女優のような仕草。この間マニキュアを塗ってあげたばかりなのに、もう剥げかかっていた。ママは昔から不器用で、よくわたしに塗ってとせがんだ。
「ミチオくんて、ちいちゃんの彼氏だったミチオくんでしょ?」
「そうよ、ママ、よく覚えてたわね」
 ちいちゃんとはわたしのことだ。千奈ちな、だから、ちいちゃん。子どものころからそう呼ばれている。この年齢でちいちゃんもないだろうと思うけれど、わたしもママのことをママと呼んでいるのだから同じようなものか。
「忘れないわよ。かわいい子だったから」
「そお?」
「年下はみんなかわいいの。ミチオくんは純情でいい子」
「………」
 これだから。わたしはそっぽを向いて小さくため息を吐いた。ママは面食いだけど守備範囲はわりと広かった。そのことを忘れていた。忘れようとしていた。わたしはママとのたたかいの日々を思い返し、ぐっとのどが絞めつけられるように感じた。息苦しいと思うと動悸どうきがして手のひらが汗ばんだ。大丈夫。これはいつものことだった。プレ更年期の症状の一種だと婦人科の先生も云っている。あとでもらった薬を飲めば落ち着くはずだ。頭の中で順番に不安要素をうち消していく。梱包こん ぽう用の気泡きほう緩衝材かんしようざいをひとつずつ潰していくイメージで。ぷちん、ぷちん。それだけでずいぶん楽になった。
「お葬式、いかなくちゃ、かなあ」
 ママにというよりは、自分自身に問いかける感じで呟いてみた。近ごろひとりごとが多くなった。でも心の中で思うより、声にしたほうが自分がなにを欲しているのか答えを導きやすいと気づいてからは我慢しないことにしている。お葬式にいくかどうか、答えに耳を傾けようとした途端、ママがわたしの思考を遮った。
「そりゃあなた、いかなくちゃ」
 いきなり真顔で云うので戸惑った。ママがそんなに義理堅い人間だとは思っていなかったからだ。自分が主役の催しならいざ知らず、娘の、それもちょっと昔つきあったことがある程度の男のお葬式にいくべきだと断言するのは違和感があった。ミチオくんだからか、ミチオくんだからそんな風に主張するんだろうか。
「ママ、もしかしてミチオくんとも……」
 云いかけて、口をつぐむ。そんなことを今さら訊いてわたしはどうしたいんだろう。無駄だとわかっているのに。
「女は喪服が一番うつくしいって云うじゃない。着ない手はないわよ」
「それだけ?」
「ええ」
 わたしは肩の力を抜き、ママに云った。
「でも一番はやっぱり結婚式のときでしょ。ウェディングドレスを着てきれいじゃない女なんていないもん」
「まあねえ。あれは何回着てもいいものねえ」
 それからわたしの顔をまじまじと見ると、心の底から不思議そうに云った。
「なのにどうしてちいちゃんは一度も着てくれないのかしら」
 ああ墓穴を掘った、と思いながら、わたしはママから視線をそらすと聞こえないようにチッと小さく舌打ちした。

 わたしにあんなことを云うだけあって、ママはこれまで三度ウェディングドレスを着たことがある。一回目は写真でしか見たことがない、わたしが生まれる前の話。ううん、正確にはママのおなかの中にいたのだから、わたしも一緒に写っていたと云えないこともない。少し目立ちはじめたおなかを隠すようにたっぷりとドレープをとったデザインのドレスだった。それがまるでほんものの聖母のようにうつくしかった。
 二回目はわたしが高校一年生のとき。最低の男だった。ママにとってはどうだったのかわからないけれど、わたしにとってはそう。スポーツジムを経営してて頭が筋肉でできてて小金だけは持っている自尊心の強い男。白すぎる歯も気持ち悪かった。さわやかな印象を演出すればするほど胡散うさんくささが際だつようなそんな感じ。でもママはそうは思っていなかったみたい。男らしくて頼りになる人だと云っていたから。
 結婚式に学校の制服で出席したわたしの耳もとでママはささやいた。
「ちいちゃん、ママより目立っちゃ嫌だからね」
 はいはい、とわたしは頷いた。子どものころからいつも云われ続けた言葉だった。ママは自分の晴れの舞台だけじゃない、わたしの入学式や卒業式でもそう云った。どんな状況でも自分が主役じゃないと気がすまない人だった。悪びれず、無邪気な笑顔のまま云うのだ。
 そんな心配をしなくても、こんなプリーツのとれかけた制服スカート姿のみすぼらしい少女に誰が注目するものか。それよりも自分の隣で笑っている異様な歯の白さのこの男を牽制けんせいすればよかったのだ。結婚式のあと、できあがった写真を見てわたしはそう思った。ママのウェディングドレスよりも目立つ白い歯を黒の油性ペンでおはぐろみたいに塗り潰して、ようやくわたしは溜飲りゆういんをさげた。
 あの男と暮らすようになってから、わたしは自分の居場所を奪われた気になった。あたらしい家には前よりも広い自分用の部屋が用意されていたけれど、そこではうまく眠れなかった。眠れないと食欲もなくなり、わたしはだんだん痩せていった。始終青白い顔をして痩せ細っていくわたしを見て、ママは「ちいちゃん、最近きれいになったわねえ」と云った。ちょっとくやしそうだった。
 大学受験を終えて、わたしは家を出た。念願のひとり暮らし。ママに反対されるかと心配していたけれど、あっさりお許しが出たので拍子抜けしたほどだ。ママはでも気づいていたのかもしれない。いつのころからかわたしに向けられるあの男の視線が微妙に変化していたことに。だからわたしをひき離そうとした。たぶん、娘のためではなく自分のために。
「パパ」
 家を出る日の朝、わたしはあの男にそう呼びかけた。はじめてのことだった。すると不自然なくらいうろたえながら男は返事した。
「な、なんだい、千奈」
 おいおい呼び捨てかよ、内心毒づいたのを笑顔の裏に無理やり押し込んでわたしは続けた。
「ママのこと、お願いね」
「ああ、まかせなさい」
 精いっぱい父親の威厳を保とうとする姿は滑稽こつけいだった。そばで父娘の会話を聞いていたママは複雑な表情で黙っていた。にわかに親密さが増したように見えるふたりの関係性をどう解釈したらいいのかわからないみたいだった。