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 親もとを離れたわたしはママに云われたことを実践することにした。男はアクセサリー。そう云ったころのママはもっときれいだった。あんなくだらない男ひとりに自分をあずけて輝きを失いかけた女はわたしの知ってるママじゃない。自由でわがままなママにわたしは近づきたかった。
 メイクを覚え、ファッションを勉強し、男の子たちにとって魅力的な女の子になろうと研究を重ねた。ママとは素材が違うことは自覚していた。だから努力を惜しまなかった。そしてその努力の片鱗へんりんも見せず、なんの苦労もしていないような顔をして、男の子たちの前で自由奔放にふるまう瞬間は快感だった。
 かわいくなったわたしに許された特権を思う存分行使する一方で、ママに内緒であの男をちょくちょく呼びだした。パパお願い、とわたしが甘えた声でねだるとうれしそうにどこへでもついてきた。ちょろいもんだ。高価な買いものにぜいたくな食事、ただの財布代わりだった。
 最初の待ちあわせのとき、男はわたしを見てまぶしそうに目を細めた。
「千奈はママに似てきたな、きれいになった」
「メイクしてるからでしょ」
「化粧映えする顔なんだね、気づかなかったよ」
 にやにやする男に向かって、そこは否定しろよこの野郎、と思った。しないってことはママとわたしとでは土台が違うと認めているのも同じだった。生まれたときからさんざん思い知らされてきたことをこんなやつに指摘されたくはなかった。でも我慢した。おしゃれには資金が必要だったし、わたしはこの男を手なずけようとしていた。それはママへの復讐でもあり、またママのためでもあった。
 回を重ねるごとに、わたしは要求をエスカレートさせた。高級エステ代、自動車教習所の授業料、英会話の個人レッスン料、いく予定もない海外留学の費用まで。さすがに途中からきつくなってきたのか、しぶる様子を見せてきた。そんなときはしおらしく謝ったり、逆にじらすような態度をとったりした。男と食事中に別の男の子にわざと呼びださせてあっさり置いて帰ってしまう日もあった。わたしからパパと呼ばれる自分がなんのパパなのか、あの男はわからなくなって次第に疲弊ひへいしていった。あわよくば、なんて下心が働いているから自分を見失うのだ。わたしの知ったこっちゃない。
 ある日、ついに耐えかねてこう云ってきた。
「千奈、パパをふりまわすのもいい加減にしないか。留学の予定なんてほんとうはないんだろう。嘘はいけないな。これはママに報告しないと」
「わたしを脅してるの?」
「違うよ、なに云ってるんだ。無駄遣いは千奈のためにならないってパパは心配してるんだ」
「笑える」
 くすりと笑いをもらすと目を吊りあげて、「千奈」ととがめるように呼んだ。
「どのツラさげて云ってるのよ」
「な……」
「ママにチクりたいならチクったらいいわ。そしたらわたしもママに云う。一緒に住んでたとき、あんたがどんな目でわたしを見てたか。どうして部屋のクローゼットがわたしがいない間に開いてたのか。そういうこと全部、知らないとでも思った?」
「千奈、誤解だよ。きみはなにか勘違いしている」
「間違ってるのはわたしなの? それでいいわけ? じゃあママに判断してもらおうじゃない。こっちは証拠だってあるんだから。バスルームの前の廊下の映像。あんた、いつだったかわたしがお風呂に入っているときに開けようとしたよね? 鍵がかかってて未遂に終わったけど。ついうっかりですますつもりだった? 莫迦だよね、ほんと。用心されてるって気づかないかな、ふつう。あれ、こっそり撮ってたの、いわゆる切り札ってやつで」
 一気にまくしたてると、まっ赤だった顔がみるみる青ざめていく。もの云いたげな口もとから白い歯が覗いている。青白赤、トリコロールカラーだ。フランス国旗、愛国心の旗。わたしは必ず勝利する。ひれ伏すのはこの男のほう。録画しているなんて口から出まかせであっても。
「これでわかった? あんたはあの家にいるかぎり、わたしの云うことを聞くしかないの。ママにばらされたくらいじゃ、まだごまかせるとか考えてないでしょうね。だったらそうね、あんたのジムに送りつけてやる。それでおしまい。いい考えでしょ」
「………」
「あんたはあの家を出ていくか、このさきもわたしの云いなりになるか、選択肢はふたつにひとつ。どっちを選ぶにしろママには絶対ばれないようにして……てかもうだめじゃん。わたしの顔もまっすぐ見れないの、そんなんじゃすぐばれちゃうから。自信がないなら今すぐ黙って出ていくことね。そうしたらわたしの顔を二度と見なくてもよくなるわ」
 云い終えたところでタイミングよく迎えにくるよう頼んでいた彼氏が現れた。わたしはあの男に一瞥いちべつもくれず、彼のもとへ走った。腕をからめ、これ見よがしにいちゃつきながらその場を離れた。男がどんな表情をしているのか確かめたい気持ちに駆られたけれど、用ずみのうち捨てられた旗をふり返ったところでおもしろくもなんともない、と考え直した。
 そのとき呼びつけた彼氏がミチオくんだったかどうかは覚えていない。

 鏡の前に立つと、四十手前のくたびれた中年女が映っていた。化粧気のない顔、ほつれた髪が肌に貼りついている。若いころにはくびれていたウエストはバウムクーヘンのように何重にも巻きついた脂肪のせいで見る影もない。両肩と二の腕だけは脂肪ではなく筋肉で盛りあがっている。毎日ママを抱きかかえるため自然についたものだ。
 やわらかい脂肪と硬い筋肉のかたまりの中から昔の自分を彫りだそうとするけどうまくいかない。あきらめてクローゼットを開けてみる。クリーニングのビニール袋がかけられたままの何年も着ていない喪服。おそるおそる胸にあててみる。いけるだろうか、これで。部屋着を脱ぎ、下着姿になった鏡の自分から目をそらして喪服のワンピースからまず試してみる。ああ、やっぱりだ。ファスナーが途中からあがらない。無理にあげようとすると肩甲骨けんこうこつのあたりがつりそうになった。こんなことで痛めてどうする、わたし。やらなければいけないことが山ほどあるというのに。
 仕方がない、買いかえるか。
 そう思ったら、なんだろう、ふっと身体が軽くなったような気がした。なにが起こったのか一瞬わからなかった。鏡の中にはあいかわらずやつれた顔の自分しかいない。それも肩まであがりきらない中途半端な位置のまま、おかしな体勢でワンピースをどうにか身にまとっているなんとも情けない恰好なのだ。
 訪問ヘルパーさんの自費サービスでママの世話をお願いし、明日急いで買いにいくことにした。お葬式はあさってだからぎりぎり間にあう計算だ。そんな風に時間に追われるようにして出かけないといけないのに、わたしはお葬式にいくのをやめようとは思わなかった。ミチオくんに会いたいからという殊勝しゆしような理由ではないことは自分が一番よくわかっている。わたしは買いものがしたかった。自分のためになにかを買うこと自体ひさしぶりだったし、そのただ服を買うためだけに時間をやりくりして予定を組んでいく過程がうれしかったのだ。
 翌日、わたしはヘルパーさんがくるのを待ちながら出かける用意をした。持っている衣服からいくぶんマシな外出着を選び、何ヶ月も美容院にいっていない髪はママのおしゃれな帽子でごまかした。準備をしている間にも、ママはわたしを呼びつけてのどがかわいたと水を持ってこさせたり、テレビが見たいとリモコンで延々番組を選ばせたりした。わたしが出かけることを警戒して、あれこれ用事を云いつけているのだと思った。
「心配いらないわよ、ママ。ヘルパーさん、もう少ししたらくるから」
「あなた、どっかいくのね」
 非難がましい視線。
「いくけど、ただの買いものよ。すぐに帰ってくるわ」
「わたしをひとりにするつもりなの? ひどい人」
「もうくるから。ほら、サイトウさん。前にもきてくれたでしょう? やさしくていい人だったって、ママ云ってたじゃない」
「そんなの、知らない」
 ぷいっと横を向き、口を尖らせたまま「ちいちゃんはどこ?」とつっけんどんに訊ねてくる。
「まだ学校よ」
「がっこう……」
 ママの目が泳いでいる。途切れた記憶のどことどこがつながるか、わたしにも予測はできない。ママの中でわたしは今、何歳なんだろう。ママは今、なにを考えているんだろう。目の前で自分のことを「ママ」と呼びかける中年女をいったい誰だと思って会話しているのか。訊くと混乱するのでそのことには触れない。いつもそばにいる人という認識だけはかろうじて保てているとは思うけれど。
「あの子、お弁当を持っていったかしら?」
「大丈夫、朝ちゃんと持ってたわ」
「そう。ならいいんだけど……」
 それきりふっつりと黙り込み、窓の外を眺めている。点けっぱなしのテレビをどうしようかと思ったけれど、サイトウさんがくるまでそのままにしておくことにした。音はないよりはあったほうが気がまぎれる。空中を飛び交う言葉に意味を持たせなければ、それはただのBGMと変わらない。