時間ちょうどにやってきたサイトウさんにママを託し、外に出ると太陽がいつもよりまぶしく感じられた。スーパーの買いだしや病院の送り迎え、車でいくことも多いけれど、まったく陽の光を浴びない生活ではない。でもひとりの時間はめったになかった。まぶしいと感じる心の余裕も。誰かの家の庭先の花々がやけにうつくしく、一瞬鼻の奥がつんとなった気がして自分でも驚いた。
ママがああなってからここ数年、わたしはまともに泣いたことがなかった。そりゃはじめのうちは地団駄踏むくらい泣きわめきたいことはいくらでもあった。その時期が過ぎ、ママとの生活のサイクルにだんだん慣れてくると、障害物みたいに立ちはだかる問題をひとつひとつ片づけつつも、心を波立たせずに日々を過ごす方法を自然と身につけた。そうでないとママもわたしももたなかった。ママは病気で、わたしはもう若くはなかった。あの男を追いだしてからまたふたりで暮らしはじめたころのようにたたかう気力は残っていなかった。
大学二年の終わりに男は出ていった。家とそれなりの額の慰謝料がわたしたちには残された。わたしが社会人になるまでの学費と養育費は別に援助してもらった。それがあの男にわたしが出した条件だった。
再びわたしはママと暮らしはじめた。直後は気落ちしていたママも忘れていた自由を思いだしたかのごとく輝きをとり戻した。今のわたしよりずっと年上だったのにママはうつくしかった。ひとりの男に束縛されていた生活の反動のようにあたらしいボーイフレンドを何人もつくっては遊び歩き、わたしも負けじと彼氏を次々家に招いてママに紹介した。夜ふたりでお酒を飲みながら、それぞれの相手の品評会をよくやったものだ。誰が見栄えがいいとか性格がいいとか使い勝手がいいとか、そんなくだらない話題をだらだらと。
ママとわたしは母娘というより気のあう女友だちだった。それは世間的な感覚とはずれていたのかもしれないけれど、刺激的で調子っぱずれな浮ついた生活をふたりとも愛していた。わたしはやっと自分がママと対等になれたことがうれしかった。そしてまた女友だちは同時にライバルでもあり、常に裏切りと背中合わせでもあった。
どちらが先にちょっかいを出したのかはわからない。気まぐれにわたしたちはたたかった。水面下で。あの男のようにママの相手をその気にさせたり、ママもわたしの相手を誘惑したりした。簡単になびく者もいればそうでない者もいた。わたしに忠告してくれる人もいたし、わたしたち母娘を気味悪がって離れていく人もいた。
実際わたしたちはおかしかったのだと思う。なにがどの程度まで行われたか、たぶんママもわたしも正確には把握していなかった。今でいうにおわせみたいなことをしていただけで、ほんとうはなにもなかったかも。お互いに相手の持っているアクセサリーがうらやましくて妬ましくて、自分の価値を測るために利用していただけだった。ただの退屈しのぎよ、と優雅な貴族みたいな云い訳を自分の中にこしらえつつもわたしは真剣だった。ママはどうだったかわからないけれど、勝ったときは気分が昂揚し、負けたときは心の底からくやしかった。
デパートのフォーマル服売り場で喪服を見て歩く。黒一色の売り場なのにわたしの心ははずんでいた。たかが喪服といえど種類はさまざまだった。生地の質感や豊富なデザイン、鏡の前で次々にあててみる。いつの間にか店員がそばにきて、「試着されますか」とにこやかに訊ねた。
「あ、はい」
「サイズはそちらで?」
「たぶん……や、でも、急に太っちゃったからどうだろう」
なにが「急に」なものかと変な見栄をはる自分に呆れてしまう。結局ワンサイズ大きいものと念のためツーサイズ大きいものも持ってきてくれ、それを着た。いくつか試着した結果、デザインによりけりだがほとんどはワンサイズアップで入ることがわかり、わたしはほっとした。昔の自分を美化しすぎていたのかもしれない、体形が滅茶苦茶変わったというわけではないのだと安心すると、案外工夫すればいけるかもと欲が出てきた。
「もうちょっとおなかまわりを目立たせなくする方法はないかしら?」
「そうですね、それでしたらこちらなんていかがでしょう? ワンピースですので着ていて苦しくありませんし、胸もとからたっぷりドレープをとったデザインがとてもエレガントですよ」
店員が差しだした一枚はぱっと見ゆったりしすぎていて太って見えるんじゃないかと思った。布もたくさん使ってあるから余計だぶついてしまいそうだ。不服そうに見返すわたしの視線を自信に満ちた店員の視線が押し返す。その目力に負けてしぶしぶ試着室にもどった。
着てみて驚いた。店員の云うとおり着ていて楽なうえ、波打つようなドレープによって体形が完全にカバーされている。逆に痩せすぎていてはこうは着こなせないかもしれない。ある程度の肉感が必要なデザインだった。身体のラインを拾わないぶん、上品でありながら煽情的にも見えるのだ。
わたしは内心の興奮を押し隠してその喪服を買った。すると自分がいい女になった気がした。昔の痩せぎすで若さだけで突っ走った尖りまくりのうつくしさではない、ほんものを手に入れたような心持ちだった。買いものは喪服だけのつもりが、気づくと靴売り場で黒いパンプスをいくつも試して買ったのち、最終的には化粧品売り場をうろうろしていた。あたらしいメイクの仕方なんてもうわからないけれど、自分の肌にあう色を考えながら下地から仕あげまでをじっくり吟味しながら買った。あっという間に時間が経ち、帰るのがけっこう遅くなってしまった。
大小四つの紙袋を両手にたずさえ帰路につく。紙袋同士のこすれる音がやけにうるさく、両腕も重くてだるいけど平気だった。音はともかく腕はママの体重を支えて毎日鍛えられているのだからたいしたことではない。それにこれらはすべてわたしのものなのだ。そう思えばなんてことなかった。行きに眺めた庭先の花々も薄暮に沈み、どこにあるのかわからなくなっていた。わたしは目をこらすことなくその横を素通りした。花なんてもはやどうでもいい、はやく家に帰って買ってきたものをひと揃えで試着してみたかった。
試着室の鏡の中の自分の姿を思いだし、うっとりする。あれはほんとにすてきだった。そしてどこかなつかしい気がした。どうしてだろうと思い返し、わたしはママがパパと結婚したときに着ていたウェディングドレスのデザインと似ていることに気がついた。もちろん、あの男のことではなく一番目の夫、わたしの父親との結婚式に着ていたやつだ。ママは白で、わたしは黒。一度もウェディングドレスを着ることなくこの歳まできてしまった自分にとっては皮肉な巡りあわせかもしれないけれど、悪い気分ではなかった。バレエでも白鳥のオデットよりも黒鳥のオディールのほうが妖艶でうつくしく、より観客の目を惹きつけるじゃないの。
まあ、ママは白鳥でも、ちっとも清楚な王女ではなかったけどね。
わたしは苦笑する。ママとふたりきりの蜜月生活が終わりを迎えたのは、わたしの王子さまをママが誘惑したからだった。これまでの取りかえ可能なアクセサリーへのちょっかい程度ではすまされない、彼はわたしの唯一無二のエンゲージリングだった。そう、ママはわたしの婚約者にあろうことか色目を使ったのだ。彼からその話を聞かされたときは血の気が引いた。いくらなんでも婚約の報告をかねてママに紹介した彼にするはずはないと信じていたのだ。
ひょっとしてママはあの男にわたしがしたことを知っていて、その仕返しのつもりなのかと疑った。わたしは生まれてはじめて「信じられない、この女!」とママに向かって叫んだ。それから掴みあいのけんかになった。ママがあのときどう云い訳したのか、すっかり頭に血がのぼっていたわたしはまるで覚えていない。
その夜、わたしは家を出た。ほどなくして婚約者と別れ、それから何年もママとは会わなかった。
ママが三回目のウェディングドレスを着たのは今から五年前のことだった。