十一月十五日、横浜地方検察庁は、殺人と銃刀法違反の疑いで、美月を横浜家庭裁判所に送致した。送致を受けて、横浜家庭裁判所は二週間の観護措置を決定したという。
 事件の捜査は真相解明に向けて着実に進んでいる。けれど、匿名掲示板のシルバーフィッシュ文学賞のスレは、相変わらず美月の話題で混沌としていた。
〈青村の作品は、遠野美月の小説に負けてるのに単行本になるの?〉
〈コネなんだから刊行されるだろ〉
〈文高社、涙目。殺人犯の作品を選んだほうが話題になったのに〉
〈俺は青村の作品のほうが面白かったと思うよ〉
〈本人登場。青村、オツカレ〉
〈今頃、他社が遠野美月に声をかけてるだろ〉
〈そうかな。人殺しの本なんて出したくないはず〉
〈誰が書こうが面白ければ正解。金を払うのは読者なんだから〉
〈とにかく審査員の見る目がゼロってことでOK?〉
〈最終選考に残った作品、全部アップして、俺らが審査すればいいんじゃない?〉
〈特に前島は使えないもんね〉
 打ち合わせに向かう電車に揺られながら、小さな画面を見ていると吐き気がしてくる。鞄の中にスマートフォンを突っ込み、封印するようにファスナーを閉じた。
 事件から三週間が過ぎても、未だに匿名掲示板には、くだらない書き込みが垂れ流されている。その影響もあるのか、数日前、メールで進捗状況を確かめてみると、青村の反応はかんばしくなかった。原稿の修正作業が滞っているようだ。
 突然、車両が激しく揺れ、乗客たちのどよめきと同時に『急停車します。ご注意ください』という自動アナウンスが響いた。
 急ブレーキがかけられ、電車は不快な音を立てて動きを止めた。
 事故だろうか?
 周囲に目をやると、怪我をしている乗客はいないようで胸を撫で下ろした。
 私は慌てて腕時計を確認する。
 午後四時半。約束の時間の三十分前。あと一駅で目的地に到着するのに、電車はしばらく動きそうもない。連絡しなければ――。急いでスマートフォンを取り出そうとするが、焦ってしまってうまく鞄が開けられない。それでもどうにか取り出すと、打ち合わせの相手、北条ほうじよう伸介しんすけの携帯電話の番号をタップする。
 北条伸介は時間に厳しい作家として有名だった。桐ケ谷から引き継いだときも、「絶対に約束の時間に遅れるな」と何度も言われた。スマートフォンを耳に当てる。呼び出し音が続くが一向に繋がらない。留守電にもならない。一旦電話を切ってショートメッセージを入れ、再度電話をかけてみたが、やはり繋がらなかった。
 外に出られたらタクシーに乗れるのに――。
 電話が繋がらないのなら、方法はひとつしかない。
 桐ケ谷の携帯電話の番号を選択する。ふたコール目で『はい』という硬い声が響いた。
「申し訳ありません。北条さんとの打ち合わせに向かっている途中、電車が停まってしまって、約束の時間に間に合わないかもしれません。本当にすみません。北条さんとも連絡が取れなくて」
『場所を教えて』
 叱責の言葉で殴られると構えていたので、一瞬、何を訊かれているのか理解が追いつかず、口から「え?」という間抜けな声がもれた。
『打ち合わせの場所を教えて』
 いつもの苛立った雰囲気ではなく、早急に対応しようとしている冷静さが窺えた。打ち合わせの場所と時間を伝えると、桐ケ谷は一言も苦言を述べず、『代わりに行く』と言って通話を切った。
 私はしばらく奥歯を噛みしめ、スマートフォンを眺めていた。今、桐ケ谷はどこにいるのだろう。打ち合わせの時間に間に合うだろうか―。
 電車は動き出す気配もなく、座席を見回すが、腰を沈められる場所はひとつも残っていなかった。孤独と自分の不甲斐なさが押し寄せてくる。
 少しして、電車が急停車した理由が判明した。人身事故だったようだ。
 現場を目撃した人が『年配の男性が線路に飛び込んだ。やばい、トラウマ』とTwitterでつぶやいていた。喜ばしいことなどひとつもないのに、『年配』という言葉に安堵している自分がいた。人身事故だとわかった瞬間、なぜか生気のない青村の顔が頭に浮かんできてしまったのだ。
 結局、一時間ほど車両の中に閉じ込められ、駅に着いたときには午後五時半を過ぎていた。桐ケ谷にメッセージを送ってみるも返信はなかったので、約束の場所まで急いだ。カフェに入り、二階も含めて隅々まで店内を確認していく。ふたりの姿はどこにも見当たらなかった。
 打ち合わせが終了したのか、それとも場所を移動したのだろうか。桐ケ谷からの連絡もなく、次にどうするべきか判断がつきかねた。
 足がだるい。会社までの道のりが遠く感じられた。スマートフォンに連絡はないか何度も確認しながら歩道を進んだ。一歩踏み出すたび、どうしようもない脱力感が心身を覆っていく。それでも鞄を握りしめて歩き続けた。

 文芸編集部のドアを開けると、自席に座っている桐ケ谷の姿が目に入った。
 彼は真剣な面持ちでパソコンに目を向け、キーボードを叩いている。予定外の仕事を入れてしまったせいで、本来の業務が滞っているのかもしれない。情けなさと申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
 室内を見回した。こんな日に限って外出している者は少なく、編集部員の多くが席に着いている。私は腹をくくり、まっすぐ桐ケ谷の机まで向かった。
「ご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした」
 深く頭を下げてから顔を上げると、桐ケ谷は飄々ひようひようとした調子で言った。
「大丈夫。久しぶりに北条さんと話ができて楽しかったから」
 その返答に少し安堵したが、桐ケ谷の視線はパソコンに向けられたままだった。忙しそうな雰囲気を感じ取り、私がもう一度頭を下げてから自席まで歩き出そうとしたとき、抑揚を欠いた声が飛んできた。
「北条さんから担当を代えてほしいって言われた。さっき編集長と相談して、また俺が担当することになったから」
 真偽を確かめたくて編集長の顔を見ると、気まずそうに口を開いた。
「あまり気にするな。この前、俺が渋滞に巻き込まれて遅れたときは、作家から『いま読んでる本が面白いので、ゆっくりで大丈夫ですよ』って言ってもらえたんだけど、北条さんは厳しいからなぁ。仕方ないよ」
 完全に自分のミスだ。振り返れば、桐ケ谷から貰った引き継ぎノートには、何よりも大きな字で『北条さんは遅刻厳禁!』と書かれていた。口頭でも幾度も説明を受けた。万全を期して、もっと早く社を出るか、タクシーで向かえばよかったのかもしれない。
 担当を代わることに関して、文句を言える筋合いではなかった。ただひとつだけ確認したいことがあり、私は思い切って尋ねた。
「遅刻が原因ですか」
「何のこと?」
「担当を外された理由です」
「まぁ、そうなんじゃないかな」
 普段から桐ケ谷は歯切れの悪い言い方はしない。おそらく、遅刻だけが原因ではなく、別の理由があったのだろう。
 編集部員たちはそれぞれ原稿を読んでいるが、聞き耳を立てているのが伝わってくる。これ以上、ここで理由を深掘りする勇気はなかった。同僚の面前で、自分の欠点を耳にするのはあまりにも辛くて苦しい。
 自席に腰を下ろした途端、徒労感が増し、目の奥が熱くなる。
「小谷さんに非はないですよ。寝坊とかじゃないんだし、運が悪かったんです」
 颯真は痛ましげに顔を歪め、小声で続けた。「電車の遅延で怒るのは、ちょっと厳しいですよ。あの人、打ち合わせの席でスマホを出しただけで不機嫌になるみたいです」
 もしかしたら敢えて癖のある、難しい作家ばかり宛がわれているのかもしれない。真偽は定かではないが、最近、文芸誌が廃刊になるという不穏な噂が社内に流れている。実際、売り上げも芳しくなく、ページ数を削減されているのも事実だ。そのうえ、文芸編集者になりたい社員は後を絶たないのに、椅子の数は限られている。
 桐ケ谷は、私を文芸編集部から追い出したいのかもしれない。そんな邪推をしてしまうほど心の状態は悪化していた。
 作家の心が狭すぎる。遅延した電車が悪い。苦しんでいたのかもしれないが、運転手や乗客の気持ちも考えられず、線路に飛び込んだ人間が悪い――。
 なぜだろう。どれほど責任転嫁の対象を捻り出しても、心は少しも軽くならない。羞恥と惨めさが胸に込み上げてくるばかりだった。
 顔を上げて明日のスケジュールを確認すると、午後三時から青村との打ち合わせが入っていた。これまで何度か電話でも打ち合わせを行ってきたが、原稿の修正はうまく進んでいるだろうか――。
 もう匿名掲示板を覗く気力もなく、届いているメールの返信に意識を集中した。

 午後二時過ぎの車両には、ほとんど人影はなかった。
 あと何回この電車に乗れば、作品が完成するのだろう。
 車窓から流れる景色を眺めていると、桐ケ谷の声がよみがえってくる。
 ――新人賞はボランティアじゃない。多額の費用をかけているんだ。一作くらい世に出して、少しでも費用を回収してよ。
 ベテラン作家の担当を外され、青村の作品も刊行できなければ、もう文芸編集部に身を置くことはできないかもしれない。与えてもらったチャンスを、自分は活かせなかったのだ。次はどこの部署に異動になるだろう。
 ――作家に向いてないのかもな。今の時代、ネットにひどい言葉を書かれたくらいで心が挫けるなら、傷が浅いうちにやめたほうがいいんじゃない。
 桐ケ谷に投げられた言葉ばかりが、頭を埋め尽くしていく。
 青村にやる気と能力がなかったと切り捨てれば、自分の立場を固守できるかもしれない。けれど、青村はそうではない。嘘をついて保身に走れば、胸の中にある正義は砕け散り、自分を心から愛せなくなる。
 青村は子どもの頃から本が大好きだったという。
 幼少期、両親が交代で絵本を読んでくれたのが、本を好きになるきっかけになったようだ。小学生の頃は、図書館の本を端から読み漁り、不幸な結末を迎える物語に出会うたび、自分なりに修正して、ハッピーエンドに書き換えていたという。
 そんな彼が大人になり、描いた作品はハッピーエンドとは呼べない物語だった。けれど、深く読み込めば、主人公の少女、ルルが村から姿を消したのは、少年ココへの愛情だったのではないかと察せられた。気に入らないものをすべてプラスチックに変え、粉々に打ち砕いた後、少女は何が本当に大切なのか気づいたのかもしれない。
 授賞式の日、なぜ『プラスチックスカイ』というタイトルにしたのか尋ねると、青村は緊張した面持ちで「空だけは、プラスチックに変えられなかったからです」と返答した。けれど、ルルがもうひとつプラスチックにできなかったものがある。それは、いちばん身近にいた人物。この物語は少女が少しずつ成長し、少年への愛に気づく物語でもあるのだ。
 青村を励ましながら、必ず完成させよう。匿名の暴言は覆らないかもしれないが、きっと読者の心に届く作品になるはずだ。
 いつものように大泉学園で下車すると、南口から出て青村家まで向かった。
 今日は慶子も家にいるようなので、手作りの美味しいお菓子が食べられるかもしれない。黒糖で作る彼女のお菓子は、どれも優しい味がする。
 青村家に到着し、インターフォンに手を伸ばしたとき、勢いよくドアが開いた。私は慌てて身を引く。
 飛び出してきた慶子は、青ざめた顔でまくし立てた。
「お願い、助けて、早く助けて」
 彼女は裸足だった。虚ろな目で「助けて……二階、助けて……」と口にしている。
 私は玄関に足を踏み入れ、靴を脱ぎ捨てて階段を駆け上がった。
 二階には三部屋あるようで、奥の部屋のドアだけが開いている。廊下を走り、開放されているドアから室内に入ると、不快な異臭が鼻を衝いた。
 目に飛び込んできたのは、扉が全開になっているウォークインクローゼット。細い洗濯紐が、ハンガーパイプに結ばれていた。その下に、男性が倒れている。すぐ傍にはハサミが転がっていた。
 私は一歩近づいて、足を止めた。
 外界の音が遠のき、恐怖心に搦め捕られ、身体が凍りついたように動かせなくなる。
 絨毯じゆうたんの上に倒れている青村の首は長く伸び、少し傾いていた。耳の奥から心臓の打つ音が響いてくる。口が渇き、声が出せない。息苦しくなり、どうにか呼吸を続けた。
 遠くから救急車のサイレン音が近づいてくる。
 窓際の机のモニターに目を移すと、『検証サイト・シルバーフィッシュ文学賞はコネだったのか?』というタイトルが目に飛び込んでくる。少し視線を下げたとき、キーボードの近くにライトブルーの便箋が置いてあるのに気づいた。
 固まっている足を前へ踏み出し、便箋を見下ろした。けたたましいサイレン音と鼓動音が重なり、便箋の文字がぐらぐら揺れる。

 文高社さま
 みなさん、ごめんなさい。許してください。
 僕には作家になる力がありませんでした。それなのに新人賞を受賞してしまい、申し訳ありませんでした。
 小谷さん、親身になって向き合ってくださり、ありがとうございました。とても嬉しかったです。それだけは信じてください。
 僕の作品が受賞したせいで事件が起きたなら、プラスチックスカイを刊行する資格はありません。
 みなさん、ごめんなさい。ごめんなさい。

青村信吾

 

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