カタンという音がして顔を上げると、いつの間にかテーブルに一冊の週刊誌が置いてあった。先週発売されたばかりの週刊文高だ。発売後、文芸編集部にも電話が殺到し、対応に追われたせいで、表紙を目にするだけで疲弊してしまう。
 その週刊文高には、中三少女刺殺事件の加害者がシルバーフィッシュ文学賞に応募していたという内容が掲載されている。他にも、メザソウに投稿したのは加害者本人だったという事実や、取材で得た新情報なども報じていた。
「新人賞の受賞を取り消してもらってもかまいません。もちろん、賞金も返します」
 唐突に青村から投げかけられ、私は堪らず真意を探るように訊いた。
「どうしてそんなことを仰るんですか」
「文高社さんに……ご迷惑をおかけしているような気がして」
 改めて彼の顔を確認すると、少しだけせたようにも見えた。目の下には青黒いクマがにじんでいる。もしかしたら眠れない日々を過ごしているのかもしれない。
 彼は息を吸い込み、声を振り絞るようにして言葉を吐き出した。
「中三少女刺殺事件の加害者は、最終選考に残った遠野美月さんなんですよね? みんな遠野さんの作品のほうが優秀だって評価しているから……僕の受賞を取り消してもらってもかまいません」
「みんなとは、誰のことですか?」
「ネット上に書き込んでいる人たちです」
「もしかしたら書き込んでいるのはひとりだけかもしれませんよ」
「どういう意味ですか」
「同じ人間が、他人のふりをして何度も書いている場合もあります。しかも誹謗中傷しているのは青村さんの友だちでも、大切な人たちでもない。そんな人間の言葉、気にする必要はないですよ」
 私の言葉が何も心に響かないのか、彼は目をそらして唇を噛みしめている。
 重苦しい沈黙が降り、時間だけが過ぎていく。
 編集長に「青村信吾さんの対応を頼む」と言われたときは、それほど重く捉えていなかった。作家の心が折れそうになっているとき、ベテランの編集者はどのように対応するのだろう。このままでは溝が深まっていく気がして、呼吸を繰り返すたび切迫感が衝き上げてくる。
 優秀な編集者とは、たった一言、作家を奮い立たせるような言葉を伝えられる人なのかもしれない。そんな魔法の台詞はどれだけ探しても見つからず、悪い空気に呑まれるように、こちらの気持ちも沈んでいく。
 青村は覚悟を決めたように顔を上げると、震えを帯びた声で確認した。
「あの事件は、僕が受賞したから起きたのでしょうか」
「それは違います」
「どうして断言できるんですか」
 うまく答えられず、適切な言葉さえ見つからない。どう返答すればいいのか。さっきから自分は表面的な言葉ばかり投げている気がして、焦りが胸を焼く。
 私は腹に力を込め、どうにか口を開いた。
「もしかりに落選が原因でクラスメイトを殺害したとしても、青村さんが責任を感じる必要はありません。あなたに非はないからです」
「ネットの書き込みで前島先生まで悪く言われてしまって……悔しくて、申し訳なくて、自分が情けなくて……」
「前島さんは、どんな状況になっても、『プラスチックスカイ』を選んでよかったと胸を張ってくれる方です」
 青村は思い詰めたように目を伏せて言葉を吐き出した。
「今までは気づかなかったけど、作家さんって、みんな強いんですね。ひどい書き込みをされても、動揺しないで物語を創作できる強さがある」
「そんなことはないですよ。もちろん、世間の声なんて気にならない人もいるかもしれない。でも、悔しい言葉に出会ったとき、反論もせず、歯を食いしばって、必死に原稿と向き合っている作家も多くいると思います」
 編集者という職業を忘れ、私は同じ人間として言葉をつむいだ。「もしかしたら傷ついた心を隠して、胸を張っている人もいるかもしれません。幼い頃は少し転んだだけで泣き出してしまうこともあった。でも少しずつ成長していくうちに、涙は見せないようになる。泣くのは悪いことではないけれど、痛くても笑顔を続けられる美しさもある。傷ついた頃の自分を知っている人は、いつか弱っている人に肩を貸すこともできる。その強さを武器に、懸命に物語を創作している作家もいると思います」
「全力で書いても……誰にも伝わらないかもしれない。刊行してもみんなにけなされるだけかもしれないから不安で……」
「難しいことかもしれませんが、他人の目を気にするのはやめませんか。世界中の人間に向けて書かなくてもいい。たとえ貶されたとしてもかまわない。この世界には、ただひとりに向けて書かれた物語があってもいいと思っています。それは自分自身に向けて書いた作品でもかまわない」
 青村は殴られでもしたかのように、目を見開いた。
 戸惑った顔を見つめながら、私は本音を口にした。
「三次選考に進んだ十作の中で、読後も胸を掻き乱し続けたのは、青村さんの作品だけでした。私には原稿が輝いて見えた。だから、どうしても応援したいと思ったんです。刊行後、かりに世間から叩かれたとしても、私は大声で『それでも、これは青村信吾が書きたかった物語なんだ』って、胸を張って笑ってやります」
 青村は潤んでいる目を隠すように、さっと顔を伏せた。
 沈黙を挟んだのち、彼は原稿に手を伸ばすと、自分のほうへ引き寄せた。その手が微かに震えているのに気づき、居た堪れない気持ちになる。
「中学の頃からシルバーフィッシュや他の新人賞に応募してきたけど……何度も落選して、やっと最終選考に残って、だから……」
 少しだけ瞳に輝きが戻り、彼が口を開こうとしたとき、テーブルの隅に置いてあるスマートフォンが鳴り出した。上半身をびくりと揺らした青村の目には、怯えの色が混じっている。やむことのない雨のように、着信音は鳴り響いていた。
 嫌な直感が大きくなり、私は尋ねた。
「出ないんですか」
 青村は左右に目を走らせたあと、スマートフォンに手を伸ばし、スピーカーフォンにしてテーブルに置いた。
『コネで受賞したというのは本当ですかぁ?』
 卑しい質問のあと、下卑た笑い声が鼓膜を刺す。電話は一方的に切れた。
「大学のとき、文芸サークルに所属していて……」
 青村は頬に笑みを刻み、言葉を重ねた。「文芸サークルのメンバーの多くは、文学賞に応募していました。昨日、サークルのメンバーだった前田まえだ君から連絡があったんです」
「どんな連絡だったんですか」
「電話では……僕を心配するふりをしていました。でも、彼から『コネで受賞したのは本当なの?』って尋ねられたんです。その後、知らない人から気味の悪い電話が掛かって来るようになって……彼は関係ないかもしれないのに、僕の電話番号を知っているのは友だちくらいなので、どうしても疑う気持ちを抑えられなくて苦しくて……」
 疑心暗鬼に陥っているのだろう。誰もが怪しく思え、敵に見えてしまうのかもしれない。
 青村は萎縮した様子で続けた。
「昨日の夜、中三少女刺殺事件の加害者の自宅が動画サイトにアップされていました。もうじき僕の家にも来るんじゃないかと思ったら怖くて、眠れなくなってしまって」
 私はこれまで今回の状況を甘く見積もっていたのかもしれない。青村に会うまでは、ここまでひどい状況になっているとは想像もできなかった。動画配信者の中には、再生回数を増やしたいがために不謹慎な動画をアップする者もいる。未成年の殺人事件も一種のイベントだと捉えている人間も存在するのだ。