午前中に溜まっていた事務作業を終わらせてから会社を出ると、秋の風が肌を撫でた。少し肌寒さを感じてジャケットのボタンを留め、人混みを縫って最寄り駅まで歩を進めていく。
 ホームに滑り込んできた有楽町線の車両に乗り込むと、空いている扉付近の座席に腰を下ろした。私はすぐに鞄からスマートフォンを取り出し、定められた義務のように中三少女刺殺事件について検索し始める。
 表示された内容を目で追っていると、気になるサイトを発見した。
 嫌な予感を覚えながらも画面に指を這わせ、『中三少女刺殺事件の加害者について』という見出しをタップする。予想どおり、サイトには加害者の個人情報が掲載されていた。
 クラスメイトが提供したのか、実名だけでなく、制服姿の美月の写真まで載っている。指で拡大してから、彼女の顔を眺めた。殺人とは無縁の大人しそうな雰囲気の少女。事件について知らなければ、何の変哲もない中学生にしか見えなかっただろう。
 次に匿名掲示板のシルバーフィッシュ文学賞のスレを表示する。前回確認したときよりも胸が痛むような言葉がずらりと並んでいて、思わず溜息がこぼれた。
〈もし加害者がシルバーの受賞者だったら、クラスメイトは殺されてなかったかも〉
〈両方読んだけど、完全に遠野美月がWinner〉
〈クソみたいな作品に負けたら、人を殺したくもなるよね〉
〈受賞したのは青村だけど、作品は完全に負けてた。もしかしてコネ?〉
〈もしコネなら、俺は絶対にシルバーには応募しない〉
〈お前が応募しなくても問題なし〉
〈どこで加害者の作品を読めるの?〉
〈メザソウ。ユーザー名『美しい月』〉
〈見る目のない選考委員、特に前島静江、叩かれて反省してくださいな〉
〈オレなら遠野の作品を買う。迷わず買う。青村はいらない〉
〈前島の評価って意味不明だし、独善的で苦手〉
 書き込んでいるのは、もしかしたら落選した者たちかもしれない。顔が見えなければ、人間はここまで暴言を吐けるようになるのだろうか。彼らの中には、文芸誌に掲載された青村の作品を読まずに叩いている者もいるかもしれない。
 もしもこの世界に物書きの神様がいるなら、匿名で汚い言葉を綴る彼らを受賞させることはないだろう。そう思わなければ、憤りが鎮まらなかった。
 画面を殴りつけるようにタップして、心無い言葉を視界から消した。
 大泉学園駅に到着し、ホームに降り立った。エスカレーターに乗って改札まで向かっていく。目的地に近づくほど、鞄がずっしりと重くなっていく気がする。
 改札を抜け、南口を出てから交通量の多い大通りを進んだ。しばらくしてから細い路地に入り、十分ほど歩いていくと、二階建ての一軒家が見えてくる。クリーム色の外壁、そこが青村の家だった。
 一年前、父親を病気で亡くして以来、青村は、母親の慶子けいことふたり暮らしをしていた。打ち合わせで青村家を訪れるたび、慶子はケーキやクッキーを焼いてもてなしてくれる。彼女はとても気さくで面倒見のいい人柄だった。
 通常、打ち合わせはカフェなどで行うことが多い。もしかしたら、編集者を自宅に招くのは青村なりの優しさなのかもしれない。慶子はお菓子作りが大好きで、誰かに食べてもらえるのを楽しみにしていたからだ。
 深呼吸をしてからチャイムを押す。ほどなくしてドアが開き、青村が顔をのぞかせた。いつもなら笑顔の慶子が出迎えてくれるので、少し戸惑いを覚えた。
 こちらの心情を読み取ったのか、彼は気まずそうに口を開いた。
「すみません。今日は母がパートでいなくて……」
 リビングに入ってから詳しい話を聞くと、慶子は週に四日、惣菜屋で働いているという。
「早く就職して母に楽をさせてあげたいのに、なかなかうまくいかなくて……」
 彼はテーブルに紅茶やクッキーを並べながら恥ずかしそうに言った。
「今は就職も厳しい時期ですよね。これから単行本の刊行に向けて、加筆修正する時間も必要ですから、就職活動はゆっくりがんばればいいと思います」
 無難な言葉を口にした後、胸が微かに波立った。
 本が売れない時代、新人賞を受賞しても作家を続けていくのは難しい。このままがんばれとは言えず、就職活動を勧めてしまう自分が情けなくて、うまく笑顔が作れなくなる。
 今年の三月、青村は大学を卒業し、四月から旅行会社に就職する予定だった。けれど、不況のあおりを受け、業績が急速に悪化し、入社直前に内定を取り消されてしまったようだ。その後、就職活動に励むも内定はもらえず、苦しい日々を送っていた。
 以前、シルバーフィッシュ文学賞の最終選考会が終わった後、青村に電話で受賞したことを伝えると、思いもよらない言葉が返ってきた。
 ――突然、入社直前に内定を取り消され、就職活動をがんばっても不合格ばかりで、自分にはなんの価値もないと思っていたんです。でも、受賞の連絡をもらえて……本当に生きていてよかった。
 ただ素直に喜んでもらえると考えていたので、彼の言葉は責任という重量感を持って、自分の胸に痛いほど響いた。これから私は、彼の担当編集者になるのだ。作家としてのよき第一歩を踏み出してほしい。その手伝いがうまくできるだろうか――。
 初めて新人賞作家を担当することもあり、希望と不安がい交ぜになっていた。
 青村は正面のソファに腰を沈め、テーブルの隅に置いてある原稿に目を向けた。まるで他人の原稿を眺めているような、距離感のある眼差しだった。表紙に印字されているタイトルは『プラスチックスカイ』。シルバーフィッシュ文学賞の受賞作だ。
『プラスチックスカイ』は、少年ココと少女ルルの物語だった。
 十五歳の頃、ココは家族を事故で失った。それ以来、彼は森の中にあるログハウスで、ひとり静かに暮らしていた。ココが他者と関わりを持たなかったのは、右頬にある大きなあざが原因だった。村の人間は、彼の赤黒い痣を悪魔の象徴だと恐れ、忌み嫌っていたのだ。ココはその苦悩を小説に綴り、ひとり孤独に堪えてきた。
 一方、旅人のルルは森の中で迷子になってしまう。夕闇が迫り、途方に暮れて歩いているうち、彼女はログハウスを発見し、すがるように駆け寄った。ドアを叩いて助けを求めてみるも、中に人の気配はなく、鍵は開いていた。
 森は真っ暗な闇に包まれている。暗闇が苦手なルルは、ログハウスの中に入り、家主が戻るのを待つことにした。
 家具の少ない殺風景な部屋を見回していると、丸テーブルの上に書きかけの小説があることに気づいた。ルルは小説が好きだった。時間が経つのも忘れて夢中で読んでいると、ドアが開き、買い物から帰宅したココが現れた。
 咄嗟とつさに、ココは買い物袋を落とし、右頬の痣を両手で覆い隠した。けれど、ルルは痣を目にしても恐れることはなかった。彼女は左手でモノや人に触れると、すべてプラスチックに変えてしまう不思議な能力を持っていた。ルルも人々から恐れられ、ひとり孤独に旅を続けていたのだ。
 ふたりで過ごすうち、ルルは、ココが本気で小説家を目指していることに気づき、応援したいと思うようになる。少女は少年を励まし、ついに物語は完成する。けれど、悪魔の痣を持つ少年という悪い噂が広がり、ココの作品が日の目を見る機会は訪れなかった。
 孤独なふたりは、次第に心をむしばまれ、社会に対し不信感を募らせていく。やがて彼らは、この世界に蔓延はびこる『理不尽な悪』をすべてプラスチックに変え、ハンマーで打ち砕いていこうと決意する。悪事を働く村長、同じ村人を騙す村人、子どもを殺した犯人をプラスチックに変え、打ち砕く。次第にふたりは善悪の区別がつかなくなり、少しでも気に入らないものを発見するとプラスチックに変えていくようになった。
 村から次々に人やモノが消えていく中、少年は自分の気に入らないものをすべて消し去っても、心はむなしいままだと気づくようになる。その後、ふたりは意見の相違から言い争い、仲違いしてしまう。怒りを抑えられないルルは、ココに向かって左手を伸ばす。けれど、少年は一歩も動かなかった。哀しそうに涙をこぼす彼の姿を目にしたルルは、翌朝、そっと村から姿を消した。
 突拍子もない設定だが、彼らが何を許せないと思い、なぜプラスチックに変えようとしたのか、その動機や気持ちが丁寧に描写され、深く胸に残る作品になっていた。読後、しばらく物語から抜け出せなくなったのは、ふたりの怒りが誰の胸にも潜んでいる哀しみに起因していたからだ。
 一方、美月の作品『ムホウ』は、十七歳で家族を皆殺しにされた少年の半生を描いたものだった。頭脳明晰な主人公の名はハルト。満月の夜、ハルトの家族は何者かによって惨殺された。ひとりだけ生き残った彼は、家族を殺した犯人を恨んでいた。けれど、多くの痕跡がありながらも、未だに犯人逮捕には至っていなかった。
 ハルトから辛い過去を打ち明けられた者たちは、彼に深い同情を寄せるようになる。やがて成人したハルトは『満月殺人事件』という書籍を刊行し、ベストセラー作家になる。その後、『被害者遺族・ハルト会』を設立し、刑罰の厳罰化を求める人間たちに強く支持され、講演会などの依頼も受けるようになり、活躍の幅を広げていく。
 ハルトに同情を覚えたのは、担当編集者の桑田くわたも同じだった。桑田は独自に一家殺人事件の犯人を特定しようと奔走するようになる。けれど、真犯人にたどり着いた桑田は、ハルトによって殺害されてしまう。
 かつて家族を殺害した犯人は、ハルト自身だったのだ。満月の夜、彼は再び桑田殺しという犯罪に手を染め、優雅にワインを飲むシーンで物語は終わっていた。
 最終選考会では、美月の作品を推す声が大きかった。けれど、前島静江が「なぜハルトが両親だけでなく、仲のよかった弟まで殺害したのか、最後まで彼の思いを見つけることができなかった」と強く反対した。文芸誌の選評には、「非道な悪人にも、彼らなりの理由があるはずだ。たとえ、それが世間には理解されないものだったとしても」という言葉が掲載されていた。