社に戻ると、心配そうな顔つきで颯真が声をかけてきた。
「青村さんは、大丈夫でしたか?」
「やっぱり、ネットの書き込みを気にしているみたい。それに悪戯電話もかかってきているみたいで……」
それを聞いた桐ケ谷は鼻で笑うと、呆れたような声を出した。
「作家に向いてないのかもな。今の時代、ネットにひどい言葉を書かれたくらいで心が挫けるなら、傷が浅いうちにやめたほうがいいんじゃない」
私が睨めつけると、桐ケ谷は涼しげな顔で視線をそらした。
作家の前では絶対に口にしない本音。それを社内では平然と言い放つ。これが編集者を長く続けられるコツなのだろうか――。
よく考えれば、建て前だけでは社会の荒波を渡っていけないのも事実だ。そのうえ、これまで編集者を続けてきた彼の言葉にも一理あるような気がした。そう感じた直後、もうひとりの自分が、本当にこんなことで挫ける人間は作家になるべきではないのだろうか、と問いかけてくる。
自分が目指すべき編集者とはどのようなものなのか。何を大切にして仕事をするべきなのか。考えはぐらぐら揺れ動き、目の前が霞んでいく。
場の空気が悪くなったのを察知したのか、颯真が明るい声で言った。
「前島先生は、加害者に対してブチ切れていましたよ。『人を殺して、くだらない言い訳してんじゃないわよ』って」
「さすが、前島さん」
桐ケ谷が感嘆の声を上げると、颯真が眉根を寄せて口を開いた。
「でも、ひとしきりキレた後、小声で『被害者のことを思うと心が痛む』って言ってました」
前島静江の作品は、根底に優しさが溢れている。彼女の作品を読んでいると、愚かな人間に対しても、彼らなりの想いがあるはずだと考え抜き、気持ちを汲み取ろうとしている姿勢が見受けられることが多い。そんな作品を書く人が傷つかないはずがない。おそらく、担当編集者に迷惑をかけないように気丈に振る舞っているのだろう。それを実行に移せるだけの経験と強さが彼女にはある。けれど、デビュー前の新人作家にそれを求めるのは酷なのかもしれない。
パソコンを立ち上げると、青村からメールが届いていた。
先程、打ち合わせをしたばかりなのに――。
慌てて『小谷莉子さま』から始まる文面に目を走らせる。どうやら打ち合わせのときは可能に思えたことが、いざ原稿に向き合ってみると、予想以上に難しい作業だと気づいたようだ。物語の辻褄が合わない箇所を修正してみるも、また新たな問題が発生してしまうという。メールには『実力がない』という自らを卑下する言葉も並んでいる。
思わず頭を抱え込んでいた。文芸編集部に配属されてから担当を任された作家たちは、みんなベテランだった。編集者が作品に対して難しい指摘を投げても前向きに修正案を提示し、原稿を仕上げる。けれど、新人作家に伝え方を間違えると、作品に対する指摘を、自分自身へ向けられた叱責だと受け取り、凹んでしまうこともあるのだ。心が深く沈めば連動するように筆も止まり、物語を創り出すのは難しくなるだろう。
作家の発想や想いを大切にしながら、より読者に届く作品に導くためにはどうすればいいのか――。どれほど考えても明確な答えは見つけられず、苛立ちと強い挫折感に苛まれた。
「当たり前だけど、新人賞はボランティアじゃない。多額の費用をかけているんだ。一作くらい世に出して、少しでも費用を回収してよ」
桐ケ谷の正当な嫌味が胸を抉る。言い返す言葉も見つからない。
自席から心配そうに見ていた編集長が声を上げた。
「物は考えようだ。この不穏な流れを好機と捉えて、世に良作を送り出せばいい。『プラスチックスカイ』はコネで受賞したわけじゃない。それは小谷自身がいちばんわかっているはずだ。あの物語は読者の記憶に残る、胸を打つ作品になる」
「僕も同感です。前島先生はすごいですよ。だって、犯罪者の作品を選ばなかったんだから」
颯真の意見に、桐ケ谷が反論した。
「そういう考え方は好きじゃない。作家の私生活や人間性はどうでもいいだろ。命を削って書いていますとか、そういうパフォーマンスはいらない。とにかく面白い作品を創り出してくれる、根性のある作家と仕事がしたい」
私が抗議の意を視線に込めると、颯真が慌てて口を開いた。
「厳しいなぁ。そんな『どうでもいい』って、断言するのはどうかと思いますよ」
彼の軽い口振りが、場の空気を少しだけ和らげた。
逐一、先輩編集者の態度に苛立つ自分より、颯真のほうがはるかに優秀だ。
文高社に入社して以来、私は文芸編集部を希望していたが、最初に配属された部署はファッション誌の編集部だった。そこで二年勤務し、電子書籍編集部への異動辞令が出た。
去年、念願の文芸編集部への異動が決まったが、実際に配属されてみると憧れが強すぎたのか、自分の編集者としての実力と現実とのギャップに悩みは尽きなかった。
桐ケ谷が席を外すと、颯真が小声で話しかけてくる。
「人間性はどうでもいい、って言っていましたけど、僕は殺人犯と仕事をするのは怖いな。だって、クラスメイトを刺したあと、薄ら微笑んでいたんですよ。そんな人とふたりで打ち合わせなんて、拷問じゃないですか。作品にダメ出ししたらキレられるかもしれないし、危険手当が出ても嫌ですよ」
先程の青村の言葉が耳から離れなかった。
――あの事件は、僕が受賞したから起きたのでしょうか。
文学賞の落選が原因で人を殺す人間がいるとは思えない。かりに、それが犯行の動機だとしても、なぜ穂村マリアを被害者に選んだのか疑問が生じる。たまたま恨んでいた相手が身近にいて犯行に及んだのか――。
いくら想像を掻き立てても真相は藪の中だ。それでも答えを探し求めてしまう。頭を目まぐるしく回転させていると、私の口から独り言がもれた。
「どうしてクラスメイトを殺害したんだろう」
「小谷さんって、犯行動機が気になるタイプですか」
「気にならないの?」
「現実の世界では、物事を深く考えるのが苦手なんです。だから物語が好きなのかも。最後まで読めば犯人の心情がわかるから」
「殺害の動機が存在しない物語もあるよね」
「そういう作品に会うと、『お前は理由もなく、どうして殺したんだよ』って叫びたくなっちゃいます。もしかしたら……人間を嫌いになりたくないのかもしれない」
颯真は珍しく神妙な面持ちで続けた。「昔、前島先生は『私は、悪人の気持ちを書きすぎているのかもしれない』って悩んでいる時期があったんです。でも、僕はそういう作風が好きだし、応援したいって思ってます」
きっと、颯真は前島静江と相性がいいのだろう。小説には、正しい答えは存在しない。明確な答えのない分野に挑むときは、潔さと覚悟も必要だ。作家と編集者、ふたりが信じている世界を大切にし、想いを込めて作品を創り上げるしかない。
自分も他人の目を気にせず、青村と一緒に最高の『プラスチックスカイ』を完成させればいいのだ。誰に何を言われても恐れずに、「それでも私たちは、この物語が面白いと思いました」、そう断言できる作品を創り上げる。その先に物語を支えてくれる読者が現れるかもしれない。ひとり、ふたり、支持する声が重なり、波が生まれる。それは出会ったこともない読者が作り出してくれる大きな波だ。
腕を広げ、作家と肩を組み、いちばん最初に小さな波を作るのは編集者だ。そして願いを込め、バトンを渡すように、営業の人たちに物語を託すのだ。
第一走者が怯えていては何も始まらない。叱咤する声が胸中で響くと、陰鬱な気分が少しずつ晴れ渡り、徐々に胸の奥から力が漲ってくるのを感じた。