実習は六月だった。華は七月にあった教員採用試験の一次試験に合格した。その報告を兼ねて母校に勤める啓吾にもう一度会いに行った。啓吾も、周りの教師たちも合格を喜んでくれたが、華には教壇に立つ自信はなかった。本当に教師という仕事をやっていけるのだろうか。自分自身にいくら問いかけても、その答えはいつもぼんやりとしていた。
 そのことを啓吾にだけ伝えた。
 大学はもう夏休みに入っていた。一次の合格通知から十日ほどあとに二次の筆記試験があった。一次は合格するかもしれないと思えるだけの手応えはあったから、合格通知を受け取る前から二次試験に向けての準備を始めていた。
 仕事としてやっていく自信はなくても、目の前の試験は乗り越えていきたい。生真面目なのかただ負けず嫌いなのか、その両方だったと思う。きっと啓吾に対していいところを見せたいという思いもあったのだろう。
 試験科目は国語科だけ。集中すればなんとかなると思っていた。だが過去問題集をやればやるほどその難しさを感じ、だから夏休みに入ったといっても、勉強以外のことをする余裕はほとんどなかった。
 実際に啓吾とふたりで会うようになったのは、二次の筆記試験が終わってからだ。
「私、本当は人前に立ってみんなをまとめるとか、何かに向かって全員を先導するとか、そういうことにはあんまり自信がないんです」
 華は自分の奥底にある言葉を注意深く引っぱり出し、ひとつひとつを丁寧に組み合わせるようにして言った。
「そんなに自分が完璧な人間だとは思えないから。でも、じゃあなんで教師を目指すのかって言われると難しいんですけど、たとえば私みたいに自信が持てない子がいたとして、そういう子に寄り添うのもいいかもしれないって思ったのがきっかけで」
 それまでだれにも話せなかった思いを、啓吾にはなぜかはばかることなく話していた。
 啓吾はいつだって目を細めて、華を包み込むようにみつめていた。いや、少なくとも華にはそう思えた。これまでに出会っただれよりも自分は、この人にとって特別なのだという感情が、胸の底のほうで知らず知らずのうちに芽生えていたのだろう。
「僕も自信なんて全然なかったよ」と彼は笑みを浮かべ、「でもときどき考えてたんだ」と言葉を紡いでいく。啓吾の声は華の耳に優しく届き、胸に落ちていく。
 それから彼はたくさん話してくれた。
 たとえば中学生のころ、いやもっと幼いころかもしれないが、あのとき、もっとこうしておけばよかったなと思うこと、あるよね。人間なんて、現状にも過去にも満足も納得もせずに生きていくものなのだろうが、でも中学生よりもちょっぴり大人になった自分には、まだ未来を知らない彼らに伝えられることもあるだろう。あのときもっとこうしておけばよかったのにと、過去の自分を責める言葉をアドバイスに変えて伝えるっていうのかな。
 とそんなことを。
 そして啓吾は言った。
「もしかしたら、それがだれかの未来を創ることになるかもしれない」
 ああ、この人が、言葉にしきれなかった私の思考の欠片かけらを拾って、再現していく、と華は思った。
「僕は教師という仕事をそんなふうにとらえたんだ。実際にやってみると、そんなかっこいいことばかりじゃないんだけどね」
 表現こそ違えど、それから何度も啓吾は自分の言葉で語ってくれた。そのすべてが当時の華にはいつだって心地よく耳に、心に沁み込んでいった。
 それでも不安は次々とあらわれてくる。
 人前でうまく話せるのだろうか。実習のときの授業だってどうにかこなせたのは、そこに至るまで膨大な時間をかけて準備をしたからだ。あんなことを何年も、何十年もやっていけるのだろうか。
 結局そういう考えにぶつかってうつむいてしまう。そんな華を啓吾が覗き込んでくる。
「大丈夫だよ」
 華が見上げると、啓吾が頷く。そうすると頭をもたげていた不安は、それ以上深く掘り下げることなく消えてゆくのだった。
 さすがは国語科の教師だが、だがそれにしても饒舌じょうぜつに啓吾が語っていたのは、つまらないことを華に考えさせないためだったのだ。
 誠実で優しくて、まっすぐに夢を現実にしていく。啓吾はそういう男だったはずだが、ただ一点だけ曇りがあった。彼には以前からつきあっている恋人がいたのだ。その恋人とは実際に華とつきあうようになったあともしばらく続いていた。

 その日、予想に反して早くに近畿に上陸した台風のせいで空は荒れていた。ふたりで会うようになって何度目かの夜だった。以前から約束をしていた。携帯で確認しあうこともせず約束した場所で落ちあった。そこには啓吾のほうが先に来ていて、いつも堂々としていた彼とはまるで違って見える横顔があった。
 今でも鮮明に思い出すことができる、十二年前の彼の横顔――。
 華が近づくと「来ないかと思った」と力のない笑みを浮かべた。
 それからふたりで少し歩いた。華が持っていた傘は骨が折れてしまった。しかたなく啓吾の傘にふたりで入った。肩もかばんも足もともすっかり濡れていたが、胸ばかりが熱くれていくのを感じていた。
 自分のなかにどんどん膨らんでいく想いを抑えることができなくなっていた。吹き荒れる雨と風の音を聞きながら、華は心のなかから押し出すように、想いを打ち明けた。
「どうしよう。きっと私、先生のこと、好きになりかけています。いえ、もう好きになっていて引き返せないところまできていると思います」
 よくも大胆にそんなことが言えたものだと、今でも思う。全身が熱くなったことを覚えている。だがそのとき、啓吾は静かに呟いたのだ。
「五年後に言ってくれたらもっとうれしいのに」
 ああ五年待ってもかまわない。五年経っても、この人への気持ちは変わらない。この先何年経っても変わらない。そう思う一方で、華の心は体がふるえそうになるほど啓吾を強く求めた。
「おつきあいされてる方がいるからですよね? それとも私はまだまだ子どもですか?」
 彼はどこかすがるような目で、華をみつめた。
「私、二番目でも全然かまいません」
 一瞬だけ彼の瞳に浮かんだ、乞うような色を、垣間見えた弱さを、華は見逃さなかった。強い思いが閃光せんこうのように体のなかを走った。その思いは言葉にするなら、この人と一緒にいたい、この人が抱える孤独をすべて覆い尽くしてしまいたい、ということだろうとあとになって思うが、そのときの華には、はっきりと言葉にできるものではなかった。
 その直後、雨が強くなった。
 啓吾は黙ったまま華を抱きしめたのだ。傘はどこかへ飛んでいってしまったが気にならなかった。饒舌だと思っていた啓吾は、このとき華の言葉には決して言葉で応えなかった。  
 抱きしめられたことがすべてだと華は思った。
 そのあと華と啓吾はホテルの一室で肌を重ねた。雨に打たれて華の全身も、彼の指も足も唇もすっかり冷たくなっていた。ふんわりとした布団のなかで体にやっとぬくもりが戻ってきたころ、啓吾は眠りに落ちた。それが、華が初めて見た彼の寝顔だった。
 社会に出れば必要なよろいを、彼もまた身にまとっていたのだと痛切に思った。そんな人が、たまたまかかわりを持っただけの華のことを必死で受け止め、胸のうちにある不安や濁りもまるごととかしてくれた。
 そのときの華にはそれで十分だと感じられた。
 啓吾の向こう側にいる女――そのだれかよりも自分は特別な存在だし、啓吾のことも深く知っている。それが恋人ではなく妻だったら、自分たちはそういう関係にはならなかっただろうか。いや、やっぱり自分は啓吾にかれ、そしてまた彼も自分を愛し、結婚していただろう。仮に結婚はしなかったとしても尚弥を授かっていたのではないかと思う。
 それなのに――。
 意識は手帳とは別の年に飛んでいく。
「五年後に」と言った啓吾の言葉を、華は栃村柚香の口から聞かされたとき、自分が大事に積み上げてきたものを壊されていくような恐怖を味わった。
 彼女のどこまでも白い、透きとおった肌と、啓吾と出会ったころの自分よりもずっと世間知らずな瞳を、今でも忘れることはできない。
 またカフェオレを啜る。
 啓吾に恋人がいることを知りながら突き進んだ。残酷で自分勝手で、そのくせ柚香をゆるせていない自分。本当は幸せになっていいはずはないのに、守りたいと願ってしまう。尚弥がいるから。尚弥が大切だからと、何度も自分に言い訳をする。
 カフェオレはすっかり冷めていた。

 

この続きは、書籍にてお楽しみください