いつも利用している阪神電車のホームに立つ。道を歩いているときよりもずっと強い風と冷たい空気にさらされる。こういう季節にホームで何分も過ごすのは嫌だから、たいていは時刻表を確認してから学校を出るようにしている。ところが時刻表通りに電車は来ない。
スマホで運行情報を調べているあいだに、事故のために電車が遅れているとアナウンスがあった。そのうち向かい側のホームに電車が滑り込む。風はいっそう強くなる。電車の窓に灯るいくつもの白い光が、よけいに空気を冷たく感じさせた。
電車のシートはほとんど埋まったままだ。華が利用しているこの路線は、乗客がそう多くはなかった。だが、「ミナミ」と呼ばれる繁華街にある駅まで延伸したことで、利用客が年々増えている。電車のなかにぽつぽつと立っている人の姿が見える。やがて電車がゆっくりと動きはじめた。二駅行けば尼崎だ。大阪市の西の端のこの街よりも、ずっと賑やかで乗降客も多い。
華は電車を待ちながらスマホで検索して、あるブログを開いた。洋菓子店のチョコレートのつめあわせの写真がアップされていた。チョコレートは平べったい円形で、表面にはその季節に因んだ絵が描かれていた。来月はクリスマスだから、サンタクロースやクリスマスリースなどの洒落た図柄になっていて、それらは一枚一枚違っていた。味もブラックやホワイト、ストロベリーとさまざまで、そのひと箱で実にいろいろなチョコレートを楽しめるようになっている。
写真には「今も人気のある洋菓子店。想い出はどこまでも甘く」という文章が添えられていた。「思」ではなく、わざわざ「想」という文字をつかって綴られている。ブログは栃村柚香のものだった。華には、それが自分を挑発しているように感じられる。
ホームの電光掲示板を見ると次の電車はすでに尼崎を出ている。華はブログを閉じた。あと五分もしないうちに電車は到着しそうだ。爪先が冷たくて、エンジニアブーツのなかですっかり固まっている。最近体の冷えが気になる。柚香が突きつけてくる現実から逃れるように、華は思う。早く帰って尚弥を抱きしめたい。
息子は今年六歳になる。もっと幼かったころは無条件に華の胸に飛び込んできたが、最近、様子が変わってきた。それも成長のひとつのあらわれなのだ。うれしいことでもあるが、そのうちに手が離れるときがくることを想像すると、少し淋しい。そんなときは、自分の指の隙間から滑っていく啓吾のやわらかな髪を思い出す。それは意外にも冷たい感触だった。
尚弥は育つほどに啓吾に似てきている。とりわけその髪質は啓吾そのものだった。
やがてホームに電車が近づいてきて、ヘッドライトの眩しい光に一瞬目をあけていられなくなる。
ドアが開く。なまあたたかい空気が顔の前に広がり、案外とたくさんの人が降りてきた。華が電車に乗っているのはここからたった八分だ。この時期だと、その八分で体は先ほどまでの冷たさを忘れる。けれどこの日は足先が縮こまるほど冷え切っていた。
華はドアから奥のシートに腰を下ろした。窓の外にホームを行く人たちの姿があった。家路に向かうその足取りが軽く見える。乗客たちが置き去った一日の疲れを呑み込んで、電車のなかの空気が滞留しているように感じられた。ホームを歩いていく幾人もの背中を目で追いながら、ふと、自分は幸せなのかと問う。
子育てに実家の両親は協力的だった。定年を迎える少し前に父は胃潰瘍を患って入院した。それを機に長年勤めた会社を早期退職したのだが、今は知人が経営する駐車場でアルバイト程度に働いている。時間の自由が利くのか、よく尚弥の保育園に迎えにいってくれたりもする。母は母で、料理を作ることを厭わず夕飯まで用意して、尚弥に食べさせてくれる。
いっそ実家で両親と一緒に住んだほうがいいのかなと思う。だが、そうすれば尚弥のことも家事も、すべて任せることになってしまう。いくら仕事を持っているからといってこれ以上は甘えられない。なぜなら啓吾と結婚したのも尚弥を産んだのも、全部自分の責任だから。
そこまで考えると華は、ふっ、と息が漏れる。幸せなはずなのにそれを素直に認められず、責任という言葉まで持ちだす。こんなことを自分に問い続けて、いったいだれに何をわかってほしいというのか。
「ママ」
幼い女の子の声が聞こえた。向かい側の席に母子が座っている。女の子はピンク色のランドセルを背負っていた。
「なあに?」
眠りに落ちかけていたのか、母親のほうは目を擦りながら女の子に応えている。
「どこまで行くの?」
どうやら今電車に揺られているのは、この母子の日常とは違うようだ。母親は表情に疲れが滲んでいる。あともう少しねと囁きながら女の子の膝に手を置いて、ぽんぽんと軽く叩くしぐさはどこか説得しているようにも見えた。
女の子がふうんと答えると、母親はまた瞼を閉じた。その体がわずかに傾く。密着していたはずの女の子の体とのあいだに、ほんの少し隙間ができる。
女の子は退屈そうに唇を尖らせ、瞳だけをきょろきょろと動かしている。そんな様子を見ていると、女の子と目があった。華が微笑むと、女の子は恥ずかしそうに体をくねらせ母親を見上げる。だが母親が眠ったままだと気づいてまた華を見ると、にっこりと笑った。
愛らしくて、男の子とは違ったふわふわとしたやわらかさを感じる。
華は尚弥の寝顔を思い出す。
目をあけているときよりも、寝顔のほうがますます啓吾に似てきたと思う。ぬくもりが、じわりと華の胸のなかに広がった。
日曜日は晴れていた。十一月の終わりにしては気温の高い日だった。真っ青な空に雲が浮かんでいる。わたあめを無理矢理ちぎったような雲のきれはしが、空の澄みきった青色をいっそう際立たせているようだった。
駅を出てからすでに十五分ほど歩いていた。バスをつかってもよかったが、待ち時間を考えると歩いてもさほど変わらない。華の額にうっすらと汗が滲む。霊園は山を切り崩した場所に造られていた。斜面を登り、入口が見えたころには息があがっていた。
線香の煙が漂う。ひとりで訪れたらしい中年の女性や夫婦だと思われる年配の男女、そして若い男性。似たような墓石が並んでいる単調な光景のなかに、何人もの先客の姿があった。どれも同じに見える墓石を、刻まれている文字で識別していく。家々の表札よりももっと個性がなくて、たましいというものがもし見えたら、やっぱりそこにも個性は見て取れないのだろうと思う。けれどここにやってくる人はみな違う。みな、それぞれの人生のなかで違った役割を演じている。演じるその舞台も重なりあうことはほとんどない。それでも出会ってしまうことがある。
駅前で買ってきた竜胆と深い紅色の小菊を抱え上げる。花々の濃い色彩にはっとする。そして華はわれに返る。秋の深まりはこんなところでも感じられるのだなと思う。
尚弥は実家に預けてきていた。今日はひとりでここまで来たかったからだ。
さらに歩いて、華はやっと目的の墓石の前に立つ。啓吾が眠る場所だった。その向こうには山裾に広がる街が見える。こうしてここに立つと、啓吾と出会ってしまった人生を恨んでいるような気もするし、それでもこうするほかなかったような気もする。自分でもよくわからなくなる。
華はそこから一番近い水汲み場に行き、備えつけのいくつもある手桶のなかから、ひとつを取って水を満たし、柄杓をなかに入れて墓石に戻る。
まず墓石の周りに生えている草を抜くことから取りかかる。前回、訪れてから二か月とすぎていないのに、雑草は、死に人を眠らせるこの場所で驚くほどの生命力を漲らせている。
無心になって草を抜き、ある程度すっきりしたところで墓石に水をかけ、タオルで拭き取る。いつもの手順だ。そうしてすべてのことをやり尽くすと、花を供えロウソクに火を灯し、その火を線香に移す。煙がゆっくりと天に向かって伸びていく。華は手をあわせ、瞼を閉じた。
何も心配することはない。
息をゆっくり吐く。おそれることはないと言いきかせる。自分は幸せなのだから、と。それなのに何かに駆り立てられるように祈る。尚弥が無事に健やかに育ちますように、と。それでは足りなくて、尚弥が、尚弥が、と小さな声で何度もくりかえした。