翌日は雨だった。二階の職員室前の廊下に、湿ったコンクリートの匂いが流れ込む。渡り廊下の向こうの校舎はすでに暗く、人の気配もなかった。階段を昇ってくる足音が聞こえた。必要以上にパタパタとさせて歩く音に、華は聞き覚えがあった。
 近づいてくる足音を待つ。
「お疲れさまです」
 姿をあらわしたのは予想したとおり岡澤だった。
 前日に女子生徒が話していた岡澤の、イントネーションよりも足音のほうが気になる。
「ねえ、ちょっといいかな?」
 岡澤は即座に笑顔になって「ええ」と返事をした。屈託のない笑みだった。
「何かありました?」
「最近、女の子に好きだとかなんとか言われた?」
「あ、それ」岡澤は、どうってことないんですよ、とさらに笑う。
「あの子、飄々ひょうひょうとしてるけど、かなり本気なんやない?」
 彼はそこで、少し考える顔つきになった。
 今は平気な顔をしていても、そのうちに狂いだす。華にはそんな予感があった。きっとだれに伝えても理解はされないだろうが。
「多分、そんなことないと思いますよ」
 案の定、岡澤は否定する。そして「ほら、あの年ごろ特有の」と、そこで口をつぐむ。その先の言葉が浮かばないようだ。
「でも、五年後に言うてくれたらうれしいって、言うたよね」
「まあ、それは」岡澤は苦笑いを浮かべるが、「でもきっと、五年も経ったらこんなこと、忘れてると思いますよ」と、悪びれる様子はまるでない。
 ――忘れない。何年経ってもそんなこと、忘れない。
「僕、なんていうか、たとえば教育実習のときもやし、塾でアルバイトしてるときもそうですけど、中学生の女の子にそういう対象で見られること多くて」
 いかにも十代の女の子が魅力的に感じるような、やわらかい笑みだった。
「つまり、慣れてるの?」
「はい。あ、いや、モテるっていうのとはちょっと違いますよ。そんなに向こうも真剣やないっていうか」
「でもやっぱり期待するんやない? 私という人間がだめなんやなくて、五年経って、大人になった自分ならきっと受け入れてもらえる、って」
「でも、実際、そういうこともあるかもしれないやないですか」
「え? 岡澤先生のほうも恋愛対象ってこと?」
「いや、まさか。今はそんなことはないですよ。でも、五年ですよ」
 岡澤は、ははは、と笑って「中学生にとってはすごく長いやないですか」と言う。
 知っている。彼らにとってここで過ごす三年間さえ、一生のように感じられるほど長いはずだ。
「五年後にはきっと、もう忘れてる?」
「ええ。大人の恋愛のまねごとみたいなもんですからね」
 岡澤は確信しているようにうなずく。
「そうやないと、僕はモテすぎてしかたがないでしょう」と言って、また笑った。
 どうやら彼は冗談を言ったようだが、ふと、あの人もこの程度の軽さだったのだろうかと考える。みんなそうなのだろうか。男はみな、こんなふうに女の子の気持ちを軽く受け止めて、そして流してしまうものなのだろうか。
「五年後にはそうかもしれないけど、今はどうなんやろう」
「今?」
 岡澤のその声が、いやに廊下に響いた。
「そんなこと言われたら、女はきっと、期待してしまうんやないかな」
 自分がそうだったように。華は自嘲気味にわらう。
「私が夫と結婚するきっかけになったのもね、夫が言ったそんなひとことやった」
 当時の啓吾けいごの横顔を、華は今でも鮮明に思い浮かべることができる。
 華はまだ二十一歳で、飲酒や喫煙が公に認められる年齢になってから一年がすぎても、男を受け入れる柔軟さは乏しかった。性的な経験はまだなく、男は、なぜか自分よりももっと強くて、そしてずっと大人なのだとかたくなに信じていたのだと思う。
 その認識が変わったのは、あの暴風雨が吹き荒れた夜だった。
 華を待つ啓吾の横顔は、自分の前でいつも見せていた大人の顔とはまるで違っていた。落ちあってから少し歩き、雨のなかで前を行く彼を見上げた。彼の後頭部はまるで十代の、たとえば教育実習先の中学で実際に接していた少年たちのそれとあまり変わらなくて、ほらこんなに近い場所に啓吾はいるではないかと、華には思えたのだった。
「結局、私は五年も待たれへんかったけどね」
 岡澤は探るように華を見て、目を細めた。
 中学生の他愛たわいもない告白めいた言葉には慣れているかもしれないが、三十半ばが近くなった子持ちの女の夫とのなれそめなどは、じっくりと聞いた経験もないだろう。以前、彼女なんて何年もいないですよと、職員室の雑談のなかで彼が言っていたことを思い出す。
「ああ、ごめんね。深い意味はないの。ただ夫と出会ったとき、すぐには結婚も、恋愛すらもできひんで、五年くらい経てば自由に会えるはずやって、あの人は何気なく言うたんやと思う」
 言ってしまってから、言葉の選び方を間違えたような気分になる。だって普通に考えれば、それは不倫だ。五年も経てばちゃんと妻と別れるから、とかそういう。けれど華は続けた。
「五年後に言うてくれたらうれしい。そう言うたときの気持ちは、そのほとんどはきっと嘘やなかったと思う。でも、やっぱり何気なく口をついて出た言葉なんかなって、今は思えて」
「ええ」
 何気なく、と華はもう一度くりかえす。
 自分はこの「何気なく」が怖いのだと伝えたかったのかもしれない、と思う。
「だけど先生は結婚されたわけですよね」
「ええ、そういうことになるけど」
「ほんなら、やっぱり違いますよ」
 岡澤はまた笑みを浮かべた。ほっとした感じではなくて、自分自身で確かめているように見える。
「違うの」
「ええ、だから、先生とご主人の場合とは違いますよ。全然」
「そうやなくて」
 五年後でも三年後でも変わらない。いや、それがもし十年後と言われたとしても。なぜなら、いつまで待てばいいのだという疑問よりも、ああこの人は私のこと本気なんだ、という言葉に変換されるからだ。今すぐでなくてもかまわない。だって五年経ってもきっと君のことが好きだよと、啓吾はそう言っているのだと思ったし、華もそう信じたかったのだ。
 あのとき二十一歳だった自分と、中学生の少女との感性にどれほどの開きがあるだろう。
 だが目の前の岡澤はもうすべてが解決してしまったかのように、いや、最初から何事もなかったかのように職員室へと向かいはじめた。さっきまで冷静に話していた彼の、どこかねたように歩く後ろ姿が子どもみたいだった。啓吾もそうだったように、つまり男とは、そういう少年のままのあどけなさと残酷さをあわせ持っているものなのかもしれない。
 そしてまた、栃村柚香のあざとい笑みが浮かんだ。