その店はまだ細々と営業していた。開店して二十年は経つであろうカフェだ。
 梅田うめだの繁華街から少し北側の、メインストリートから一本それた狭い道沿いにあった。その店を囲む街並みは、華がまだ独身で啓吾とつきあっていたころとはずいぶんと変わり、賑わっていた。最近ではこの店以外にもカフェとよばれる類の店が増え、サンドイッチのようなパン類のセットが、今も人気があるようだ。
 華も昔、この店に来てはそういうものを頼んでいた。正直、そういった食事では物足りないと感じていた。だが啓吾の前では、食欲を満たすことよりも少しだけ洒落たメニューが必要だったのだ。
 重厚な木製のテーブルと椅子。そして石造りの壁。深いグレーのアイアンと木を組み合わせた本棚。そこに並んだ本。
 そういうこだわりを見せる店だった。
 案内された窓際のテーブル席に座ってカフェオレを注文すると、B5サイズの手帳を出した。今年のものではない。
 そこには華の過去が字面となって折り重なっている。手帳のページを繰る。そう、これは啓吾と出会った年のものだった。
 左側のページには一週間分の予定が書き込める。そして右側はフリースペースになっている。書き込みきれないこまかな予定と、実際にあった出来事やそのときのちょっとした感想までが綴られ、こがれる想いや浮き立つような気持ちが溢れていた。
 十二年前のものだった。
 啓吾に初めて想いをぶつけた台風の夜、彼は目を伏せて「五年後に言ってくれたらもっとうれしいのに」と呟いた。鮮明に憶えているその言葉は、手帳のその日のページにも綴られている。もっとうれしい――。つまり今でも十分にうれしいのだと、世間知らずだった自分は甘い感情のなかに溺れていった。
「お久しぶりですね」
 マスターが自らカフェオレを運んできて、言った。
「お変わり、ないようですね」
 華はそう応じて微笑んだが、かつて啓吾とここで待ち合わせていたころマスターだった男はすでに他界している。彼はその息子で、二代目だった。
「父がやっていたころはよく来てくださっていたとかで、あとになって父から聞きました。お元気でしたか?」
「ええ。息子ももう六歳になるんです」
「そうでしたか。あれからもう六年か」
 華は尚弥がまだお腹のなかにいたころ、この店を訪れていた。
「だけどそんなふうには見えないですね」
 あのころ、自分はきっと今よりも疲れた表情をしていたのかもしれない。
「なんだか強くなられたようです」そう言ってからマスターは慌てて、すみません、と言った。「強くっていうのも変ですよね。お若くなられたというか。いえ、前からずっとお若い感じなのですが」と、心地よく響く低い声でしどろもどろに言うのが少しおかしかった。
 華は苦笑いを浮かべ、ありがとうと小さく言った。それから視線をゆっくりと移す。壁際の本棚に並べられた本は、ずいぶんと年季が入っているように見える。ずっとあの場所で、この店を訪れたたくさんの人の穏やかな時間を見守ってきたのだろう、とそんなことを思う。
 マスターがカウンターのなかに戻っていくと、華はカフェオレをひとくちすすって、また手帳に目を落とす。
 啓吾と会うたびにうれしくて舞い上がった。いいところを見せたくて緊張した。啓吾の言葉に心が跳ねるように反応していた。それが体を重ねるごとに、心躍らせていた会話は日常になっていった。ちょうど体温がなじんでいくのと似ていた。
 たとえば啓吾は「僕は小説の可能性をもっとあの子たちに伝えたいんだ」と語った。華は、小説の可能性、と胸のうちでくりかえした。何か新しいものをみつけたような気持ちになって、胸がふるえた。だが、いつしかそれは華自身の思いと重なった。
 啓吾と出会ったのは華が大学四回生のとき、教育実習で訪れた母校の中学だった。彼は華が教員免許の取得を目指していた国語科を担当していて、華の指導教諭として教科以外の仕事も教えてくれた。
 啓吾のあとについて彼が受け持つクラスに足を運び、教師の日常を体験する。自分が言葉を発するたびに、生徒から予想もしなかったような反応が返ってくる。華にとってはたった三週間のことだから、少しくらいかちんとくるようなことがあったとしても、笑って受け流すこともできる。というより、それ以外にどうすればいいのかわからなかった。だが、こんなことがずっと続くのかと思うと気が滅入めいりそうにもなった。
 実習最後の日、携わってくれた教師と、華を含む三人の実習生とで打ち上げと称した呑み会があった。そのなかで華は、気が滅入りそうになることがあるのだと正直に啓吾に漏らした。
「全部、想定内だよ」
 啓吾は穏やかに笑った。華は、自分に教師としての資質がないことを「想定内」と言われたのかと感じ、思わず彼から目をそらしてしまった。すると啓吾は「中学生の言動がね」とつけたした。
「国語の教師のくせに、言葉が足りなくてごめんね」
 華はどこか見透かされていたようで、自分が恥ずかしくなった。同時に関西弁と微妙に違う啓吾の口調が、不思議と心地良く感じられた。
「主語を正しくとらえてとか、普段偉そうに言ってるくせに、日常の会話がこんなんではよくないよね」
 啓吾は言葉を重ねていき、華に考える隙を与えない。それが彼の優しさだと気づいたのは、ずっとあと――初めて彼の寝顔を見た日だった。