中学生たちはみなリュックサック型の制かばんを重そうに背負い、前のめりになっている。時間に追われ切羽詰まったように先を急ぐ足並みと、何人かで連れ立って、おもしろおかしく笑いながら歩いていく姿が入り交じる。「先生さよなら」という声の向こうで、高らかに仲間を呼ぶ声。
そんな生徒たちの姿を、安崎華は目で追う。
ピロティは毎日同じ場所で過ごす生徒たちの、背後にある事情が一気に噴き出るような空間だ。
「先生」
大阪弁のイントネーションは、同じ言葉を発しても、ずっと親しみを感じさせる。
華は声のほうを見た。すぐに女子生徒が駆け寄ってくる。
アシンメトリーな前髪の先が少し跳ねていて、平らな額と濃い眉毛が愛らしい子だった。彼女は小柄で、その周りにいるだれよりもかばんが重そうに見える。
「ねえ聞いて。うちな、岡澤先生と今日な、ちょっと話してん」
二年生の女の子だった。昨年一年間、国語の授業だけ受け持っていた学年の子だ。奥二重の瞼の奥で、くっきりとした黒目がまっすぐ華をとらえている。そういえばこの子は以前にもそんな話をしていたなと思い出す。
彼女がいう「岡澤先生」とは、二学期になって、産前休暇に入った社会科の教師の代わりとして赴任した講師だ。岡澤悠。大学を卒業して半年ほどの若い男性だった。
華は女の子の顔をじっと見る。この子の名前はなんだったろうと思いつつ笑みを浮かべ、「よかったね」と相槌を打つ。
「うん」女の子の声は弾んでいた。
華は女の子の背後に目をやる。ピロティの向こう側に倉庫とゴミ庫が並んでいる。そのあいだのわずかな空間に、小さな野良猫が吸い込まれるように消えた。空間の先には細い道を隔てて消防署がある。隙間から見える消防署の灯りはいつも目にしているはずなのに、まるで初めて見たような気持ちになる。
「岡澤先生って、ちょっと発音がおかしくない?」
女の子はかばんを背負いなおす。倉庫に沿ったわずかな隙間は、彼女の体で見えなくなった。
「ねえ先生?」
「そうねえ」彼の口調を思い浮かべるが、中学生におかしいと言われるほどの特徴があるようには思えなかった。
「岡澤先生のことはなんでも気になるんやね」
女の子のつやつやとした頬が紅潮する。
思春期にありがちな、大人の恋への憧れだろうと思った。
「だって、うちな、告白、してみてん」
女の子の肩はとても薄かった。普通に考えればその関係を心配するのは杞憂だろう。
それにもまして女の子はあどけない面立ちで、周りの中二の子と比べても幼い感じだった。ただその瞳が、あまりにも真剣に華をみつめている。
華は胸のうちで女の子の気持ちを辿ろうとするが、掴みかけたものが霞んでいく。まるで、落ちていく陽のなかで倉庫横の隙間に目を凝らすようなものだった。
「それで?」
「五年後に言うてくれたらうれしいのに、って言われてん」
「え?」
つややかな頬は相変わらず紅潮していて、かすかな笑みを浮かべている。その唇の曲線がやけに美しいことに軽い衝撃を受ける。そこには計算された、大人の女性の狡ささえ漂っているように見えたからだ。
五年後に――。
栃村柚香の凜とした姿がよぎった。透きとおるような白い肌と、細くて長い手足がいかにも儚げだった少女は、今も自分の足で立ち上がることをしないまま、ひとところに留まっている。
「先生?」
女の子は目をぱちくりさせて、あっけらかんとしている。その表情には子どもっぽさが戻っていた。
時間の推移が気温差にあらわれる季節になっていた。ピロティを抜けていく弱い風が、先ほどよりもひんやりとしている。だが文化祭も無事に終わり、期末テストまで数週間を残した放課後は、緩んだ空気に包まれている。渡り廊下の向こうに広がるグラウンドに、部活動をしている生徒たちの姿が見える。
中学の裏側にある団地のほうから、「夕焼け小焼け」の曲が流れてくる。時間の経過よりも空が暮れていくほうが早い。藍色に変わりはじめた空に、夕陽の橙色がゆっくりと染み出ていく。まるで、一日が終わっていく淋しさをいっそう強く滲ませているようだ。
「きれいな空ね」と思わず華は呟いてしまった。
女の子も空を見上げ、「ほんまや」と無邪気に言う。
正門前の国道を場違いな轟音を立ててオートバイが二台すぎていく。隣の消防署から救急車がサイレンを鳴らして出動し、その直後に自転車のベルの音が聞こえた。
みんな違ったものに向かって動いているのに、華は自分だけが止まったままだと感じる。微妙な色が混ざりあう空は美しくて、見ていると、心の底に深く沈んでいる塊を溶かしてくれそうだ。それなのに、女の子の横顔がどうしてもあの子に重なって、ぎくりとする。
「もう、帰りなさい」
華はゆったりとした口調で言ったつもりだが、その声は思いのほか低くなった。女の子から目をそらす。早くこの場を去りなさいと告げたかったのは、女の子にではなく、おそらく自分自身に対してだった。