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【B―牧】

 花のような甘さと、なにかハーブのような青々しさの混じりあった複雑な香りで目が覚めた。なんの匂いだろう。瞼を閉じたまま、寝返りをうって考える。どちらかといえば好きな香りだ。ちょっと薬品っぽさもある。すっと鼻の奥に抜ける、アルコールのような、ミントのような。
 瞼の向こうの明るさにつられ、ほんの数ミリだけ目を開く。白い壁。白い毛布。滑らかなシーツの感触を、むき出しの二の腕で味わった。頭の先からつま先まで、心地よさに包まれている。けれど、徐々に現実が戻ってくる。それで匂いの出どころがわかった。私の顔だ。
 昨日、化粧水や乳液を借りた。雨目石杏花に。
 いつも私が使っている、ドラッグストアで千円程度で売っているものとは違う、五ケタを超えるデパコスを差し出して、杏花は「どれでも好きなだけ使ってくださいね」と言った。遠慮なく使った。まさか泊まることになるなんて思っていなかったので、そういうあれこれをなにひとつ持ってきていなかったから。普段使わない美容液まで借りたし、トリートメントは二回したし、ヘアオイルはいつもよりワンプッシュ多めに使った。起き上がって髪をかき上げると、いつもよりしっとりした触感が指の間を通り抜けた。
 スマホを見る。時刻は九時二十分。ツイッターのアプリを開く。Wi-Fiが弱いようで、表示が遅くていらいらした。どうせ誰も見る価値のある投稿なんてしないと思い出して、画面を消した。
 ガウンを脱いで、昨夜洗って干しておいたパンツをはいて、服を着る。今日もまたパンツなしで眠ることになるかどうかは、土砂次第だ。頭を振ると、甘いオイルの匂いがする。現実感に乏しい気持ちのまま部屋を出た。
 一階に下りると、捻挫男の水野さんがいた。
「おはようございます」
 水野さんはひとり掛けのソファにゆったりと腰かけ、紅茶を飲んでいた。テーブルの上には空のカップが他に二つ置かれている。誰かとお茶を楽しんでいたらしい。誰だろう。誰にせよ、のん気なものだ、と思う。
「土砂崩れ、どうなりましたか?」
「まだ続報はないですね。どうなんでしょう。またさっき、ざあっと雨が降ったんですよ。山の天気ってアレですし、まだちょっとアレなのかもしれないですね」
「アレですか……」
 私は深く息をついた。大きな窓から見渡せる庭には眩しいくらいの日が差しているけれど、確かにそこに茂る草木にはきらきらした水滴がびっしりと残っているようだった。
「とりあえず、朝食にしたらどうですか? 食堂で出してもらえますよ。僕らはもういただきました。素晴らしかったです」
「はあ」
「いやあ、ほんと最高ですよね。こんなすごいロケーションの館にタダで泊めてもらって、食事まで付いて。同じレベルのホテルに泊まろうとしたらいくらかかるかな。ラッキーでしたよ」
「ラッキーですか。それってけっこう、図々しい感想ですね」
 陽気に話す水野さんに苛ついて、私は思ったことをそのまま言った。彼は気にした様子もなく、「ちょっとくらい図々しいほうがお年寄りは喜びますよ」と、また図々しい見解を述べた。
「土砂が崩れたのは不可抗力ですしね。なにか週末、ご予定でもあったんですか? 早く帰らなくちゃならないような」
「いや、別に」
 ネトフリで海外ドラマの続きでも見ながらチューハイを開けたかった。コンビニの生ハムとチーズとじゃがりこをつまみにして、疲労と苦労と苦難ばかりの日常においては救いのようなひとときを過ごす。でもそういう時間の過ごし方は、山歩きを趣味とするような人間には理解されない気がしたので、言わない。
「じゃあ、いいじゃないですか。焦らずのんびり、図々しくお世話になりましょう」
 はあ、とため息で返して、私は食堂のある本館へと足を向けた。扉を開ける前にいちど振り返って、「それ、そのカップ、誰かいたんですか」とたずねた。
「ああ、あの若者二人です。ミステリサークルだかの。こんなことになって、すごく楽しそうでしたよ。洋館に閉じ込められるなんて、まさにアレなシチュエーションですもんね。土砂崩れのトンネルまで歩いてみるって言ってました」
「え、なんでですか?」
「さあ……あれじゃないですか。本当は土砂崩れなんかじゃなくて、ダイナマイトかなんかが仕掛けられてっていう、人為的なものを疑っているとか」
「へえ……」
「いや、本気でそんなことを考えてるわけじゃないとは思いますけどね。ただそういうアクティビティというか、きっと疑って行動することが楽しいんですよ。なんていうか、若さですよね」
 はあ、とまた曖昧な頷きを返して、私は東館広間を出た。ティーカップの主は杏花じゃなかった。彼女はどこにいるんだろう?

【C―梗介】

 スプーンで卵を割っているとき、牧さんが食堂に入ってきた。彼女はまず僕を見て、次におじいさまを見て、なにか少し、もの足りないような表情を見せた。
「おはようございます。よく休まれましたかな。ああ、どうぞおかけください」
 食後のコーヒーを楽しんでいたおじいさまが言った。牧さんは「どうも」とうなずいて、扉から一番近い席に着く。すぐにキッチンから恋田さんが現れた。朝食のメニューについて二、三やり取りをして、またすぐキッチンに戻っていく。彼女は本当に優れたシェフだ。ゆで卵も完璧な半熟。
「これであと眠っているのは、孫娘二人に田中さんか」
 おじいさまがかすかに天を仰ぎながら言った。彼らが滞在している部屋は本館の二階にある。「田中さん……」と、牧さんが小さく呟いた。
「ああ、昨夜の来訪者ですよ。田中と名乗られた。しかし他は……口数の少ない若者でね。いや、状況が状況ですから、無理もないのですが」
 おじいさまはコーヒーにため息を落として、沈痛な面持ちで首を振った。牧さんは黙っている。なので僕が口を開いた。
「やっぱり、死にに来たひとだったのですか?」
「ああ……どうやらそのようでね」
「なぜ死のうとしたのでしょう?」
「まだ、聞けていない。しかし私にも身に覚えがあるよ。失恋か失業か、そんなところだろう。若いころというのはね、一事が万事に思えるものだ」
 おじいさまはカップに口をつけ、鼻から深く息をもらした。
「だが、ともかく彼は生きてこの館にたどり着いたわけだ。であれば……必ずやり直せる。そのための手助けは惜しまないつもりだよ。この滞在中に、どうにか生きる希望を取り戻してほしいと思う」
 そう頷くおじいさまの目には慈悲と慈愛の色が満ちている。おじいさまらしい、と僕は思った。そこで、黙って話を聞いていたふうだった牧さんが、「どうしてですか? 他人なのに」とたずねた。おじいさまは嬉しそうに口を開いた。その問いを待っていたかのように。
「この年になるとね、若いころに受けてきた恩をどうにか返したいと思うものなのです。私はそれなりの財を成し、今はこうして満ち足りた余生を過ごせているが、そこに自分ひとりの力で勝ち取ったものなど何一つない。特に若いころはね、多くの人に助けられた。東京に出てきたばかりのころ、明日の食事すらままならないときになんの見返りも求めず手を差し伸べてくれたのは、なんの縁もない、ただ駅のベンチで隣に座っただけの他人だったりしたものです。いや、恥ずかしながらね、そういうエピソードには事欠かない人生を送ってきました。偶然の巡り合わせ、運に救われてきた人生でしたね」
 恋田さんが牧さんの朝食のプレートを運んできた。テーブルに置きながら、ちらりと顔を上げておじいさまの方を見やる。
「遠くの親戚より近くの他人、とはよくいったものだ。そして今、田中さんの近くにいるのは我我だからね。とにかく、若いころに受け取ったものを今の若者に繋ぎたいという気持ちです。若者には、もちろん貴女も含まれますよ。なにか困りごとなどありましたら、このお節介な年寄りに打ち明けていただきたい」
「はあ」
「牧さんは、雑誌の編集者さんでしたかな。どうです? お仕事は充実していますか」
「あー……ええ、まあ。おかげさまで」
 苦笑いを浮かべた牧さんに、おじいさまは愉快そうな笑い声を被せた。機嫌が良さそうだ。しばらく僕は喋らなくて大丈夫そうだと判断して、絶妙な焦げ目の美しいトーストに歯を立てる。
「まあまあ、なにかと大変なお仕事でしょう。いやしかし、ごりっぱですよ、職業婦人というのは。我々男連中なんかよりよほどしっかりしていて、ガッツがある。こんな山奥までおひとりで撮影に来られるとは、大したものです」
「いえ……そんな」
「うちの孫娘も少しは見習ってほしいものです。まったく……古い言い方ですがね、爪の垢を煎じて飲ませたい、というやつですよ」
 おじいさまのいつものおしゃべりが始まる。謙遜に見せかけた、わかりやすい孫自慢。気ままで奔放な孫娘たちを、彼は深く愛している。かつて僕のことを愛していたように。
「虫唾が走るよな」
 内なる声が言った。

 

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