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【B―牧】

 メインディッシュは牛フィレ肉のステーキだった。赤黒いソースがかかっている。口に含むと、血の匂いと、かすかに果物の香りがした。高い肉なんだろうな、という味がする。私の好みではないけれど、高い肉なら食っておかなければならない。今のこの不本意な状況の元をとりたい。
 右隣に座った男が「うわ、美味いですね」と感嘆の声を上げた。水野とかいう捻挫男だ。彼のせいで私は帰る機を逃した。彼はもともとの客ではないくせに、山歩きなんて馬鹿な趣味で怪我をしてずうずうしく助けを求めてきたあげく、流れで夕食まで食っている。あの老人、雨目石昭吉というおじいさまが、そうしなさいと言ったのだ。食後には、車で家まで送らせるつもりらしい。施しが趣味の金持ちなのだろう。見るからに金のなさそうな、オタクっぽい大学生を二人も招いているあたりからもそううかがえる。だから私も好みではない肉を完食する。学生二人よりも、たぶん私のほうが金がない。
 そもそも、こんなふざけた場所に来たくなかったのだ。上司が今回の話を持ってきたとき、つい「雨目石」という苗字に反応してしまった。それで、じゃあお前が行け、という話になった。嫌だ、と思ったけれど、この会社に入ってまだ二年目の私は上から振られた仕事を断れるような立場になかった。主に地元のフリーマガジンを作っているだけの小さな雑誌社のくせに、社長以下上司たちは自分らを世界の出版業界を牛耳る一大組織のように思っているらしく、下っ端には横柄に振る舞いそんな自分たちに酔っている。ろくな給料も出さないくせに。
 せめて雨目石杏花に直接会わずに済むように、館の外観だけ撮影してさっと帰るつもりでいた。別件の仕事(地元の揚げ物屋の取材)を終えてすぐに約束の時間を勝手に前倒ししてここに飛んできたのに、この男だ。麓の町で会社員をしているという。まだ金曜だというのに、今日は有休をとって山歩き。有休ってなんだ? そんな制度実在するのか?
「牧さんは編集者さんだから、もっとすごい事件をいろいろ知っているんじゃないですか?」
 急に話を振られ、はっとして顔を上げた。テーブルの向かいに座る、雨目石家の面々。こちらを見ていたのは、金髪にスーツのホストにしか見えない男。梗介さんといったか。
「いや、そういう事件とかを扱う雑誌ではないので」
「へえ、そうなんですね。どんな感じのものを扱う雑誌なんですか?」
「えっと……地元の美味しいお店とか」
 へえ、とうなずく顔がにっこり笑った。知性を感じさせない笑顔だった。喋り方も、彼が話す単語はすべてひらがなで発音されているように聞こえる。これで私より年上らしい。「私はそちらのテーマの方が好きだわ」と、彼の隣に座る杏花が言った。
「月曜日に帰る前に、どこかこの辺りで食べていきたいの。おすすめのお店はありますかしら?」
 彼女はさらに馬鹿みたいな話し方をする。「だわ」とか「かしら」とか、どこのお姫様のつもりかしら? しぐさも振る舞いもどこかいちいち芝居がかっている。誰に向かって演じているのかしら?
「いや……、この辺りはあまり詳しくないので」
「なんだ、杏花も月曜までいるつもりなのか」
 話を切って、おじいさま、昭吉さんがたずねた。
「ええ、月曜日もお休みをとったの」
「大丈夫なのか? まったく、また身内だから甘えていると思われるんじゃないか。いくら社長が父親だとはいえ、他の社員さんに迷惑をかけちゃいけないよ。寛治も杏花には甘いから……」
「やだ、おじいさま。今はね、有休はちゃんと消化しなくちゃ怒られちゃうのよ。おじいさまの時代と違って」
 また架空の制度の話をしている。杏花は昭吉の次男である父親が継いだ会社の社員をしているらしい。ずぶずぶの家族経営だ。
「へえ……ならいいが。あまりいつものような不真面目な態度で働いてもらっては困るよ」
 おじいさまのお小言に、杏花は「はあい」と答えて赤い唇をとがらせる。その甘い声にぞっとした。胃の中で、食べたばかりの牛の肉がぐるりとうごめいた。
 雨目石杏花は、どうやら私のことに気づいていないらしかった。あれから八年も経つから、そういうこともあるかもしれないとは思っていた。私はあのころから、体重が十キロ近く減った。化粧だって覚えたし、髪の色も変わったし、苗字も変わった。なにもかもが変わった。それでも……杏花ほどではないけれど。
 ため息をつくと、後ろから手が伸びて、空になっていたグラスに赤ワインが注がれる。「あ、どうも」と振り向くと、ボトルを軽々と片手で支えた石塚さんが目礼を返した。この人も雨目石のところの社員だ。会長補佐と紹介された。ワインのサーブも補佐の仕事らしい。捻挫男の手当てもしていたし、ずいぶんマルチな会長補佐だ。白髪の交じった髪をきっちり横分けにして、顔にはたくさんの難しい仕事を成しとげてきたという雰囲気の皺が幾筋も刻まれている。食べ終えたメインの皿をスマートに下げる。
「もうお腹いっぱい。外に遊びに行っていい?」
 子供が言った。雨目石の孫たちのなかで一番まともそうな話し方をする子供だった。「あら、素敵なデザートがあるのよ?」という杏花に、「いらない」と椅子から下りる。さらさらの髪が絹のように揺れた。上質で、金のかかっていそうな子供。
「残念だけど、雨が降ってるみたいだよ」
 梗介さんがおじいさまの後ろを指さす。ダイニングの奥、背の低いテーブルやソファが置かれたちょっとした談話スペースの向こうに、縦長のガラスが半円形に張り出した出窓がある。そこから、深い藍色に沈む森が見える。
「降ってるか?」
 首をひねって後ろを振り返ったおじいさまが言った。私にも雨は見えなかった。音も聞こえない。けれど、窓を睨んだ子供が唇をとがらせて「降ってる」と呟いた。
「別に、濡れてもいいし」
「だめよ、滑ったりしたら危ないもの」
 杏花が言う。子供は不満そうな顔のまま、けれど、「はあい」と椅子に戻った。
「サクラは妖精の魂を持っている子でね。よく野生に帰りたがるのですよ」
 老人はくすくす笑いながら嬉しそうに言った。
「長男から継いでしまった血でね。この梗介もそうです。社会の規範には、ちょっと納まらない。次男の寛治は真面目なんだが。困ったものだ」
 子供が外に出たがったくらいでずいぶん大げさなおじいさまだ。孫バカなんだろう。隣で水野さんが「いや、天才とは得てしてそういうものですよ」と、ちょっとこちらが狼狽えるくらいに露骨なお世辞を放った。老人は一切狼狽えたりせず、「天才か、奇人か、どちらかでしょうな」とやはり嬉しそうに頷いた。水野さんは夕食前からずっと、客先の営業マンみたいにへらへらと笑いながら愛想やお世辞を振りまいている。タダ飯と送迎の恩を手早く返そうとしているのだろう。
 ため息を吐くと、左手から視線を感じた。オタク大学生二人組の、手前に座ったひとりがこちらを見ていた。黒縁の眼鏡をかけて、部屋着みたいにくたびれたグレーのパーカーを着ている。工学部のキャンパスにいくらでも自生していそうなタイプだ。奥のもうひとりはフチなしの眼鏡をかけて、いちおうちゃんとしたシャツを着ている。関西のほうの訛りがあるようだ。
 そこで、キッチンからシェフの恋田さんが出てきた。両手にデザートの皿を持っている。テーブルに置かれたそれは二色のアイスクリームになにか焼き菓子みたいなプレートが載っていて、確かにちょっと素敵だった。恋田さんは小柄で地味な中年の女で、びっくりするほど愛想がない。館に来てすぐにキッチンにこもって、料理を出すときもにこりともしなかった。無駄にへらへらされるよりもプロという感じがして、どちらかというと好感が持てた。
 大きな長テーブルに、八人が着いている。
 二人が調理や給仕に忙しく立ち回っている。
 館には十人がいる。
 そこで、私にも雨の音が聞こえた。雨脚が強まってきたらしい。
 デザートが並び終わったその時。ダイニング全体に響き渡るように、大きな鐘の音が鳴った。電子的な、ややチープな音で、リーン、ゴーンと。皆がかすかに顔を上げた。なんの音? と首をかしげるより早く、「誰だ?」と昭吉老人が言った。
「こんな時間に」
 それで、その音が門、あるいは玄関のチャイムだとわかった。こんな時間に、とは私は思わなかった。私は、こんな場所に? と思った。
 人里離れた森の中。ぽつんとたたずむ古い館。
 こんな場所に、誰かが来たらしい。