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(六月二十三日 朝)


【A―二ノ宮】

 クローズドサークルだ。
 僕は今、クローズドサークルの中にいる。
 左手の窓、カーテンのすき間から早朝特有の清らかな光が漏れていた。壁にかけられた時計によると、時刻は六時四十分。普段なら、一限から授業が入っている日ですらまだ眠っている時間だ。しかし今、僕の頭はすっきりとして、胸には希望が満ちていた。クローズドサークルだ、ともう一度強く思う。空気のように軽い羽毛布団を跳ね上げて、身体を起こす。
 昨夜、土砂崩れがあった。崩れたのは館をずっと下ったところにあるトンネル付近。トンネルの少し下の道を折れたあたりにもう一軒別荘があり、そこの所有者であるなんとかさんが、こちらの館に連絡をくれた。トンネルも、館に続く道も、このあたりの山一帯を所有しているそのなんとかさんのところの私道らしい。それで――そんなに激しい雨は降っていなかったように思うのだけれど――、とにかく、土砂は崩れた。閉じ込められた。僕たちはなすすべもなく閉じ込められた!
 壁際のベッドでは、一条さんが毛布に包まれ丸まっている。いびきもかかず、身じろぎもせず、熟睡しているようだった。こんな刺激的な状況にあってよく眠っていられるな、と思う。まあもともと、僕たちは日曜日まではここでお世話になる予定だった。だから別に、今のところ土砂が崩れたことによる影響はこれといってない。僕の心を激しくときめかせているということを除いて。
 土砂の撤去にどれくらいの時間がかかるものなのか、まだよくわからない。目途が立ち次第、連絡をくれることになっている。その――思い出した、南澤――南澤さんが。話に聞いた感じだと、雨目石さんと同じくらいのお金持ちだ。怪我人や急病人がいるようならヘリを飛ばすと言ってくれたらしい。昨夜、状況を知らせる二本目の電話を受けた杏花さんは、僕ら以外のゲストにたずねた。「どうされます?」と。
 夕食後に帰るはずだったのは、雑誌編集者の牧さんと、通りすがりの水野さん。「お言葉に甘えて、迎えに来ていただきましょうか? 水野さんは特に、怪我をされてるわけだし」   
 杏花さんの問いに、牧さんはうつむきがちに答えた。
「すっかり塞がっちゃってるんですか? 私バイクなんで、どっかしら通り抜けて自力で帰りたいんですけど」
「あら、だめですよそんなの、危ないです。ほら、まだ雨もやまないし、他の場所だって崩れるかもしれないわ。お急ぎならやっぱり、ヘリをお願いしますから」
「いや、私、高い所って苦手なんですよね……」
「僕もです」水野さんが苦笑いを浮かべた。
「それに、大した怪我でもないのにヘリコプターを出してもらうなんて、おそれ多いなあ……。あの、あちらの方はどうするんですかね? あの人も怪我をされてるんですよね?」
 そうだ。
 昨夜来た、もう一人の客。あの男は……。
「あの方も、足をくじいてるみたいです。今、おじいさまがお話ししています」
 杏花さんが、やや表情を曇らせて言った。
「なんだかね、おじいさまが言うには、自殺じゃないかって……」
「自殺?」
 不穏なワードに、水野さんが眉をひそめる。
「ええ。このあたり、多いらしいんです。富士の樹海ってほどじゃないけれど、それなりに深い山だし、地元じゃちょっとした自殺スポットとして広まっているようで迷惑してるって、南澤さんがおっしゃってたわ。あの方も、自殺に失敗して、ここまでたどり着いたんじゃないかしらって……。それでおじいさま、そういう方が大好きだから」
「え? そういう方というのは」
「苦労している若者が好きなんです。人生に迷ってる若者? みたいな。そういう方にご自分のお話を聞かせるのが好きなの。心に染みる素敵なお説教を授けて立ち直らせるのが楽しいのね。でも、ご迷惑じゃないかしら? 心配だわ」
 杏花さんは視線を天井に向けた。件の客はひとまず本館二階の客室に通されたようだ。温かい飲み物をいれてやってくれ、と、昭吉さんが恋田さんに指示しているのを聞いた。
「夜通しお話しされるつもりかも……。ねえ、お二人も、よかったら道路が開通するまで泊まっていってくださいな。お部屋はたくさんありますし、ちゃんとお掃除も入れてますからご不便はないと思いますわ。明日土砂がどうにかなったらちゃんとお送りしますので。ね、こういうの、ちょっとわくわくしませんか?」
 杏花さんは、黙って成り行きを見守っていた僕たちを振り返って言った。
「なんだか、ミステリ小説みたいじゃないかしら?」

 そっと扉を開けて、廊下に出た。僕たちの部屋は、昨日夕食をとった本館隣の東館に用意された。すぐ正面に一階に下りる階段がある。左隣の扉は、また別の客室。牧さんが泊まっているはずだ。その正面には両開きの大きな扉があって、遊戯室だ、と説明された。その更に奥の部屋には水野さんが通された。まだ皆眠っているのか、物音は聞こえない。
 僕は階段を下りて一階に向かった。東館一階は一フロアがぶち抜きの広間になっていて、広々とした空間が長窓からの光で満たされている。しんと静まり返ったフロアの片隅に一台のピアノが置かれていて、その奥の壁には、なにやらコレクションの並んだガラスケースが設えられている。他には、座り心地のよさそうな革のソファに、ガラス天板のローテーブル。
 無性に心惹かれ、僕は庭が見渡せるソファのひとつに座り、ゆったりと足を組んだ。細い雨に光る庭を眺めながら、自分が今置かれている状況の素晴らしさを三度噛みしめる。満たされた気分だった。あとは死体さえあれば、それはもう完璧な……。