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【C―梗介】

 石塚さんが玄関に向かった。皆がダイニングの扉を注視して、その動向を見守った。僕はアイスクリームを口に運んだ。二色のうち、緑色の方。僕の好きなピスタチオだった。恋田さんは良いシェフだ。
 二口目をすくったところで、妹のサクラがこちらを見上げていることに気がついた。なにか言いたげな目をしていたので、微笑み返してあげた。彼女は海外の友人らがよくするように、ぐるりと目を回して肩をすくめてみせた。妹は僕のことをどうしようもないアホだと思っている。賢い子なのだ。そんなところがかわいいな、と思う。
「会社の方かしら」
 杏花が誰にともなく呟いた。杏花は会社に勤めている。偉い。そういうのは、僕にはとても無理だ。そういうことになっている。
「見てくる」
 妹が椅子から跳ねるように下りて、あっという間に扉の向こうに消えた。石塚さんの声がしていた。訪ねてきた客と話しているはずだが、相手の声は聞こえてこない。
 そのとき、杏花のスマホが鳴った。音の長さからして通話アプリのようだ。この館はどこの基地局からも遠く、携帯キャリアの電波は入らない。固定電話の回線から、か弱いWi-Fiを辛うじて飛ばしている。「あら、失礼」と言って、杏花はソファのある出窓のほうに歩いて行った。窓の向こうは先ほどよりも勢いの増した雨。森のシルエットが滲んでいる。
 恋田さんがコーヒーと紅茶を運んできた。正面に座る四人の客たちは、まだデザートに手を付けていない。「どうぞ」と僕は言った。「お気になさらず」
 そのとき、石塚さんが戻ってきた。その顔には、なんとも言えない困惑の表情が浮かんでいた。彼がそんな顔をするのはめずらしい。来客について、指示を仰ぎにきたのだとわかる。彼の目はまずおじいさまを捉え、次いで奥で電話をする杏花を確かめて、またおじいさまに戻った。僕のことは一度も見なかった。彼はもうおじいさまに付いて数十年にもなる。僕から得られるものなどなにもないとわかっているのだ。
「どなたかな?」
 おじいさまがたずねた。石塚さんは「それが……」と話し始めたものの、次の言葉が続かない。僕はアイスをもうひとくち食べた。そのとき、内なる声が言った。お前が行け、と。
 僕は内なる声に従い立ち上がった。扉を開けて、すぐのところに妹がいた。玄関ホールに置かれたキャビネットと壺の陰に隠れるようにして、こちらに背を向け玄関のほうをうかがっている。両開きの玄関ドアのすぐ手前に、男が膝をついていた。全身がびっしょり濡れている。黒っぽいシャツに、黒っぽいジーンズ。滴り落ちた滴が周囲のタイルに水たまりを作りはじめている。「こんばんは」と呼びかけると、男は顔を上げた。
「あ……すみません」
 低く擦れた、震えた声だった。寒いのかもしれない。「本当に……すみません」と、男は繰り返した。
「なにもすまなくないですよ。どうされたんですか? すごい濡れてますけど」
「いや……あの、……道に、迷ってしまって」
「道に?」
 僕は開きっぱなしになっていた玄関から外を見た。雨。闇の向こうに、かすかに鉄門の尖ったシルエットが見える。車が通れる道はこの館の前で止まっている。ずっと下ったトンネルの手前を逸れると、南澤さんというこの山の所有者の別荘がある。そちらに行きたかったのだろうか? 徒歩で行けるような距離ではないと思っていたけれど。この人はびしょびしょだし、車ではなさそうだ。そうだ、あの人、水野さんも森の中で怪我をしたと言っていた。よくわからないけれど、きっと同じような感じだろう。
「それは大変でしたね」
「あ……はい、いえ……」
 男は額に張り付いた前髪のすき間からぎょろぎょろと目を動かしながら、しきりに頭を下げた。そしてまた「すみません」と繰り返す。ぜんぜん目が合わないけれど、その顔は僕の友達のともきくんに似ていた。違法な薬物で四回逮捕されたともきくん。がりがりにこけた頬や、目の下の隈がそっくりだ。
「とにかくなにか、拭く物をもってきますね」
 急速に親近感がわいて、僕は彼ににっこりと笑いかけた。
「今、皆でデザートを食べていたんです。ご一緒に温かい飲みものでもどうですか? その後、行きたいところまで送っていきますよ。ちょうどもう一人、送っていく方がいるところだったんです」
 バスルームに清潔なタオルが用意されているはずだ。キッチンよりさらに奥の北側の廊下を進むと、妹がついてきた。
「ちょっと」
「なに?」
「怪しいよ、あの人」
「え、そう?」
「こんなところに来るのがまずおかしい。この辺、うちしかないはずなのに」
「あの水野さんという人と同じじゃない?」
「同じじゃないよ。あの人はぜんぜん山歩きするような恰好じゃないじゃん。ふつうの服と靴だし、小さい鞄しか持ってないし」
「じゃあ、南澤さんのところのお客様かな」
「ちがう。さっき石塚さんがそう聞いたけど、ちがうって」
「なるほど。じゃあ、なんだろうね」
 バスルームで、棚の中に積まれたタオルを見つける。上の一枚を手に取って、妹の横を通り過ぎざまに頭をなでた。彼女はうっとうしそうに首を振った。格下になでられるのが嫌いなのだ。
 ホールに戻ると、謎の男の他に石塚さんと、杏花、恋田さんが出て来ていた。男は石塚さんに渡されたらしいタオルで既に身体を拭いていた。なるほど。そういえば、すぐそこのキッチンにもタオルがあったな。恋田さんが立っているすぐ横、ダイニングに続く扉が開け放たれたままで、ゲストの数人が立ち上がっているのが見えた。どうしたんだろう。なんだか、さっきよりも騒然とした雰囲気だ。追いついてきたサクラが僕の横で立ち止まる。
「大変なの」
 僕たちを見とめ杏花が言った。
「今、電話でね、南澤さんのトンネルのとこが土砂崩れで、通れなくなっちゃったって」
「へえ」
「撤去の人を呼んでくださってるそうなんだけど、たぶんすぐは無理よね。泊まる予定だったし、私たちはいいけど……。とにかく今日は、みんな帰れなくなっちゃったわ」
「へえ」
 僕はホールに座り込む男を見た。うつむいて、身体を拭きながら、やはり寒いようで震えている。送っていくよ、なんて言ったけれど、無理になった。タオルも渡せなかった。ともきくんに似た人に親切にしたかったけれど、駄目だった。
 そのとき内なる声が言った。お前は本当に役立たずだな、と。