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(六月二十二日 夜)


【A―二ノ宮】

 前菜はサーモンのカルパッチョに、薄いチーズとレタスのサラダ。オリーブに、ドライトマトだった。
 飴色に木目が浮いた長テーブルの上に、皿とグラス、銀食器が並ぶ。天井から吊り下げられた華奢なフォルムの照明が濃い黄色の灯りを落とし、並んだ品々を暖かく照らす。鮮やかに光を跳ね返す美しい料理を見て、それでもあまり、食欲がわかなかった。ベルベットのクッションがなめらかに沈みこむ椅子の上、僕は小さく身じろぎをする。緊張していた。
 左隣では、同好会会長の一条さんがいつもの無表情で折れそうに細いシャンパングラスを傾けて、なにかしゅわしゅわしたお酒を飲んでいた。安居酒屋でジョッキを傾けているときと変わらない、堂々とした態度に見えた。僕は彼に倣おうと、自分の前に置かれたジンジャーエールのグラスに手を伸ばす。
「おふたりとも、T大学の学生さんだそうだ。有望な若者にお越しいただけて、大変嬉しく思います」
 一条さんの斜め左、長テーブル短辺の上座に座った昭吉さんが僕らふたりに向けてグラスを掲げ言った。僕は伸ばしかけた手を引っ込めて、「いえ、そんな、こちらこそ」と頭を下げる。一条さんを横目で見ると、彼もかすかに笑みを浮かべ目礼していた。
「本当にこんな山奥まで、ありがとうございますね。おじいさまが無理を言ったんじゃないかって、心配してたんです」
 僕の右斜め向かいに座った杏花さんがにっこりほほ笑む。僕らをここまで連れてきてくれたひとだ。ちょっとその辺ではお目にかかれないくらい、華やかな美人だった。豊かな栗色の髪を肩に垂らして、今は濃いピンク色の、胸の谷間ががっつり覗くドレスを、なんとも自然に着こなしている。「いえ、決してそんなことは」と答える自分の声がやや上ずっているのがわかる。
「僕は別の心配をしてたよ。おじいさまが騙されてるんじゃないかって」
 僕の真向かいの席で、金色の髪の男が言った。彼も昭吉さんのお孫さんで、梗介さんとかいった。なるほど杏花さんと同じ血を感じさせる、どこか浮世離れした気品ある佇まいだった。彼らと向かい合って座っているせいで、顔を上げるたびに緊張が増していつまでも落ち着かない。
「騙されている?」
 一条さんがそう聞き返した。天上の人間にそんな気軽にものを聞き返せるなんて、さすが一条さんだ。
「うん。だって、ネットで知り合った大学生が来るなんて言うから。女子大生にでもパパ活されているんじゃないかって」
 ははっ、と左手で大きな声が上がる。昭吉さんが身体をそらして、愉快そうに笑っていた。昭吉さんは小柄でありながら、大きくてよく響く声をしていた。彼に実際に会うのは今日が初めてだが、車いすのお年寄りと聞いて想像していたより、ずっとはつらつとしている。そして、メッセージのやり取りから予想していたより、どうやらずっと偉い人で、ずっとお金持ちらしかった。おじいさま、なんて呼ばれ方をしている人間に僕は初めて出会った。
 昭吉さんと知り合ったのは今から約二か月前、マイナーなSNSの、マイナーなコミュニティの中だった。僕が大学に入って数週間が経った頃。入学と同時に中学生の頃から憧れていた「大学のミステリサークル」に迷わず入会し、しかしその理想と現実とのあまりに大きなギャップに、ひとり打ちひしがれていた頃だ。
 まず厳密には、学内に「ミステリサークル」なんていう正規の団体は存在しなかったので、それに類するものとして僕が入ったのは大学非公認の「ミステリ同好会」だった。会員は僕を入れて三人。ひとりは法学部三年生の一条さんで、もうひとり八乙女さんという経済学部四年の先輩がいるはずなのだが僕はまだ会ったことがない。たぶんこれからも会うことはない気がしている。彼はもうほとんど成仏してしまった幽霊部員であり、つまり実質会員は僕を入れて二人だ。いや、一条さんは会長であるから、会員は僕ひとりだ。
 僕には夢があった。中学の頃ミステリ小説にはまり、特に時代によって、「本格」や「新本格」と謳われる、ユニークな舞台で知的な名探偵が活躍するロマンあふれる小説に魅了された。「新本格」と呼ばれる小説の中には、頻繁に「大学のミステリサークル」が登場した。彼らは大抵の場合、合宿や旅行などで孤島や山荘、人里離れた館を訪れ、大抵の場合、悪天候やなんらかのトラブルにより外界との連絡が遮断され孤立する。クローズドサークルというやつだ。そして殺人事件が発生する。閉ざされた世界でひとり、またひとりと殺されていくサークルメンバーたち。わくわくする。最高だ。
 それをやるのが僕の夢だった。もちろん、本当に人が殺されることを望んでいるわけではない。ただ同好の士たちと一緒にクローズドな空間に引きこもり、ミステリ談議に花を咲かせたり、もしここで殺人事件が起こったらどうなるか、いったい誰が犯人で、誰が探偵役を務めるか、むしろ自分が犯人だったらどのようなトリックを弄するか、なんて妄想でわいわい盛り上がったりしたかった。
 しかし、総勢二名の同好会ではそれは叶わない。二名では、どちらかが殺されれば残った方が犯人だ。そんなのただのふつうの事件だ。少子化のあおりを受け大学の学生数も減りサークル人口も減ったことにより僕の夢はついえた。それでもあきらめきれぬクローズドサークルへの思いをSNSに書き散らかしていたところ、昭吉さんからコンタクトがあったのだ。彼は「自分はかつて殺人事件が起こった館を所有している」と言った。
 そんな話題をきっかけに僕たちは気づけば二か月もの間やりとりを続け、ついに先日、今回の招待を受けたのだ。週末を孫たちと共に久しぶりに件の館で過ごすので、よかったら一緒にどうですか、と。
「おれは正直、こいつが騙されてんのとちゃうかと思てたんですけどね」
 一条さんが僕を指して言った。
「見ず知らずのお金持ちのお屋敷に招かれるなんて、そんな夢みたいな話あるかと疑っとりました」
 昭吉さんは再び快活な笑い声をあげ、「いやあ、最近の若者はなんとも疑り深いようで」と愉快そうに言った。「怪しいじいさんの誘いに応じてくれて、あらためて感謝しますよ」
「え、やあ、いえいえ、そんなそんな」
 僕は両手を振って答える。正直言えば、僕も最初は警戒していた。ネット上の人間の話を鵜呑みにするのは愚かしく危険なことだとわかっていた。しかし僕は飢えていた。「かつて殺人事件が起こった館」なんていうご馳走を目の前に出されて、手を付けずにいるなんて無理だった。
「怖くなかったの?」
 鈴のように響く、可愛らしい声がたずねた。一条さんの向かいに座る少女だ。真っ黒い大きな瞳がこちらを捉えている。人形のように長いまつ毛が、ぱちりと瞬いた。
「え? ええと……」
「知ってる? この館で、ひとが殺されたの」
「え、ああ、はい。聞きました。えっと」
 そういうのが好きなんです、と、このあどけない少女に言うのははばかられた。夕食前の紹介で、小学校五年生だと聞いた。十歳そこらということだろう。普段子供と関わる機会がまったくないので、それくらいの子供に適した話し方や、残酷表現に対するゾーニングの程度がわからない。
「彼らはミステリが好きだからね。殺人なんてなれたもの。むしろそこに魅力を感じるんだよ」
 言葉に詰まった僕の代わりに、昭吉さんが答えた。おびえられやしないか、と不安になったけれど、少女は特に表情も変えずに、「ふうん」とうなずいた。
「その、殺人って」
 右端の席から声があがった。
「どんな事件だったんですか?」
「いや、ごくありふれた事件ですよ」昭吉さんが答える。「館の初代の持ち主であった実業家が、その愛人に殺されたという。もう六十年ほど前の話で、不思議も謎もなにもない、ただの殺人です。犯人もすぐに逮捕されたというし、ミステリマニアの若者からすれば物足りない話でしょうな」
「なるほど」
「まあしかし、事件が起こり実業家が息絶えたのがまさにこの食堂かと思うと、少々感慨深い気持ちにもなりますがね」
「へえ!」
 まさに、ここでですか、と、右端から陽気な男の声が感嘆の相づちを打つ。
「サクラは怖くないの?」
 杏花さんがたずねた。サクラちゃんは「ぜんぜん」と大きく首を振った。
「私だって読んだことあるもの。人が殺されるお話くらい」
「そうなの? 私はダメ。ここに来るたびいつも恐ろしくなるわ。今夜も眠れるか心配」
 杏花さんはグラスを持ったまま、両腕を抱くように肩をすくめた。僕は、ぐっと寄せられた胸の谷間が深くなるのを目撃する。すると、僕のすぐ右隣からかすかに苛立ちを含んだため息が聞こえた。
 隣に座るのは、牧さんという女性だ。雑誌の編集者で、一条さんのバイト先の、社員さんの、お兄さんの、部下だそうだ。僕たちがこの館を訪れるという話を聞き、そんな立派で歴史ある屋敷があるなら、地元のフリーマガジンにぜひ写真を載せたいという多忙な上司の命令で、館の撮影に来たらしい。食事前に軽く挨拶をしたけれど、口数が少なく、どことなく不機嫌な感じがして、少しとっつきにくい印象を持った。両耳にたくさんのピアスを付けていて、耳の横の髪は色が抜けている。正直言って、ちょっと怖い。食事が始まってからも彼女は積極的には話に加わらず、料理の皿が運ばれてくるとスマホで写真を撮っていた。
「いやあ、確かに今それを聞いて、ちょっとぞっとした気持ちになりました」牧さんのさらに右隣に座る男の言葉に、昭吉さんが頷きを返す。
「ああ。私はフィクションの物語やなんかは読まないから、探偵小説の魅力というのもいまひとつわからないんですがね。しかし、そんな事件がこの館の歴史のひとつとしてあることには、ちょっとしたロマンを感じていますよ」
「いや、本当です。館に歴史あり、ということですね」
 さきほどから続く男性の声が応える。彼は、水野さんといった。陽気な雰囲気の、親しみやすそうな人だった。
 彼は……。
 えっと、彼は結局、誰なのだっけ?