(六月二十二日 昼)


【X】

 午後三時四十分。
 私雨邸わたくしあめていを取り囲む鉄柵、正門の鍵を開けたのは雨目石あまめいしサクラだった。
 後部座席での長い移動で体力をもてあましていた彼女は、車を降りるや否や運転していた会長補佐の石塚から鍵の束をひったくると、長い髪を背中で揺らしながら全速力で駆けだした。クラスで二番目、五年生の学年全体でも三番目に足が速い彼女は、すぐに正門へとたどり着く。鉄の門扉に巻き付く年代物の鎖と重たい南京錠を相手に、小さな白い手で格闘する。
 その背後、続いて車から降りてきたのは雨目石梗介きょうすけだった。車内では窮屈にしていた長い手足を開き大きくひとつ伸びをすると、広がる山々、晴れ渡る青空を遠く眺め、その眩しさに目を細めた。視線を下ろせば、初夏の陽光を受けて白くたたずむ私雨邸。普段生活の拠点を置いている都心とは別世界の空気で肺を満たすと、彼はその端整な顔に小さく笑みを浮かべて、開錠に取り組む年の離れた妹のもとへと歩き始めた。
 車のトランクに回った石塚は、折り畳んで積まれていた電動の車いすを下ろし、慣れた手つきで広げた。そこに座るべき主人は既に車を降り、黒檀の一本杖をついて姿勢よく館を見据えている。石塚は速やかに横に着き、老人の着座に肩を貸す。老いた身の骨の軽さ、肉の薄さに、往年の社長としての彼を知る石塚はいつもわずかに狼狽える。座面におさまった膝の上にカシミアのひざ掛けを広げると、白髪の老人はかすかに顎を引き謝意を伝えた。
「おじいさま、はやく!」
 跳ねるように手を振る孫娘の声に、雨目石昭吉しょうきちは目尻のしわを深くして思う。齢七十を幾ばくか過ぎて、この世の美醜あらゆるものを見てきたと自負するからこそ断言できる。これほどまでに美しい少女は地球上どこを探しても他にいない。可憐で無垢。純粋にして活力に満ちた輝かしい魂。彼女のためならば残された人生、なにを犠牲にしても惜しくない、と。
 彼は二十八時間後、六月二十三日午後七時四十分に、私雨邸本館三階の自室で遺体となって発見される。
 第一発見者は雨目石サクラである。
     ・・・
 午後三時五十五分。
 T大学ミステリ同好会の二ノ宮は、会長である一条と共にA駅に到着する。初めて降り立つさびれた雰囲気の無人駅に、本当にここで間違いはないかと若干の不安を覚える。今回の企画は発案からアポイントメント、旅程の組み立て、先方との諸々の調整に至るまで、すべてを二ノ宮ひとりが受け持った。出不精の会長をわざわざ引っ張り出してきておいて、出だしから早々につまずくわけにはいかない。ひとつしかない改札を出ると二ノ宮はすぐにスマホを取り出し、待ち合わせの詳細をやり取りしたメッセージを再び確認する。
 同じくA駅に降り立った恋田は、改札口にたたずむ二人の若者を見て、すぐに今回の客だろうと当たりを付ける。大学生が二人いる、とあらかじめ連絡を受けていた。しかし彼らの頼りなげな佇まいを見て、少々当てが外れたかと考える。大学生なら山のように食べるだろうと、大量の食材を仕入れてしまった。既に業者が館に搬入を済ませている頃である。もっと食べさせがいのありそうな客がいるといいのだけれど……と、頭の中に今回の四日間の献立を思い浮かべたところで、正面の道路の先から田舎道には似つかわしくない派手な外車が現れる。
 サクラ、梗介の従姉妹である雨目石杏花きょうかは、シルバーのBMWをA駅改札口向かいの路上に停めると、ピンク色のサングラスを外してそこに待つ三人を窓越しに見た。待ち合わせ時刻の五分前。ルームミラーにちらりと微笑みかけて化粧を確認し、ドアを開いて彼らの前に降り立つ。
 ボンネットを回り込んで現れた杏花の短いスカート、そこから伸びるごく薄い黒のストッキングに覆われた脚に数秒見惚れた二ノ宮は、慌てて視線を空に逸らす。
 同じく杏花を視認した恋田こいだは、この女は意外に食べそうだ、と考える。
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 午後四時五分。
 水野は山道を単独でトレッキング中にぬかるみにはまり、左足首をひねる。ちょっとした捻挫だと軽く考えていたが、歩き続けるうちに痛みは耐えがたいほどに増す。こんな日に限って応急手当用品一式を家に忘れてきており、麓までまだ三時間ほどの行程があり、夜からは強い雨の予報が出ていて、スマホの電波は入らない。
 まだ遭難の実感はわかず、どうしたものかと漠然とスマホをいじるうち、一件だけ微弱な電波を発しているWi-Fiのネットワークがあることに気がつく。ロックのかかったネットワーク名は、『watakushiame-tei』。あの館だ、とすぐに理解する。
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 午後四時四十分。
 社用車のオフロードバイクで私雨邸に到着した牧は、あたりに人の気配がないことを確認すると柵の向こうに手を伸ばし、正門のストッパーを勝手に外して敷地内へと侵入する。エントランスに続くアプローチが五十メートルほど。彼女はその半ばで立ち止まると、カメラを掲げて館を撮った。薄灰色の石壁は陽光を受け白く眩しい。石の佇まいは無骨な砦のようでいて、黒い洋瓦の屋根や窓枠の瀟洒な造りは欧州の古城のようでもある。微妙にアングルを変えながら続けて十数枚ほど撮影すると、彼女は踵を返した。今すぐ帰路を行けば、雨目石杏花と顔を合わせずに済むはずだ。
 と、いつの間にか正門前に男が立っている。左足を曲げて、柵に体重を預けるように身体を傾かせながら、わずかに顔を歪ませ手にはスマホを持っている。驚き硬直する牧に、男――水野は、「すみません」と頭を下げる。「Wi-Fiを貸していただけませんか」
 同時に、私雨邸正面の玄関扉が開く。顔を出したのは雨目石サクラである。
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 午後五時五分。
 サクラに呼ばれた石塚は館の物置で埃を被っていた救急箱をようやく見つけ、水野の捻挫した足にテーピングを施す。水野は無事接続を許されたWi-Fiでトレッキング仲間に迎えを頼むが、皆多忙で都合がつく者が見つからない。
 帰るタイミングを逸した牧は、しぶしぶその身分を明かす。館を撮影に来た雑誌編集者。石塚を通して撮影許可は取ってある。「仕事を終えたのでもう帰ります」と告げる牧に水野の目が期待に輝くが、彼女のバイクにタンデムシートはなく、山道での二人乗りは難しい。
 そこに、客を引き連れた雨目石杏花が予定より早く到着する。玄関ホールはやにわに人口密度が増し、杏花、サクラ、石塚の三人が客の紹介やアクシデントの報告に忙しく口を開く。
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 午後五時十分。
 私雨邸玄関ホール奥の階段脇に設置されたエレベーターが開き、車いすに乗った雨目石昭吉が現れる。ホールに集った人々はいっせいに彼に視線を向け、しばし口をつぐむ。彼はホールに集う面々をゆったりと見渡すと、「これはにぎやかだね」と、満足そうな笑みを浮かべる。
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 午後六時。
 雨目石家の面々、招かれた客、招かれたわけではない客たちがテーブルに着き、最初の晩餐が始まる。
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 午後六時十六分。
 私雨邸からほど近い森の中、田中は首吊り自殺に失敗する。