第一章 吊り橋、落ちた
身体がぐらりと揺れると同時に、里衣子はおでこを押さえた。一瞬なにが起こったかわからなかった。自分が転倒し、額をどこかにぶつけたのだとわかるまでしばらくかかった。ロープウェーが急停止したとは思わなかった。悲鳴を聞いた気がするけれど、それは自分が転んだ姿を目撃した乗客が発した驚きの声だと勘違いしたのだ。
恥ずかしくてすぐに立ちあがろうと額を押さえていた右手を外し、床につこうとした。するとまた周囲から悲鳴があがった。今度ははっきりと自分を見つめる乗客たちと目が合った。いったいなんだというのだろう。次の瞬間、誰かが里衣子の右手首を摑み、耳もとでささやいた。
「すべるかもしれないから、動かないほうが」
すべる? すべるとはどういうことか。もしかして床が濡れているのだろうかと見おろしたがその様子はない。里衣子は眉をひそめかけ、「痛っ」と声を出した。摑まれた右手は動かせないので空いた左手をおでこにあてた。
ぬるりと生あたたかい感触。
そこでやっと気づいた。両の手のひらを交互に見、そういうことかと納得する。出血している。濡れているのは床ではなく里衣子の手のほうだった。血で汚れた手をついて起きあがるのはすべって危ないと云われたのだと思った。
「ひとまず座りましょうか」
「……あ、はい」
同じ声に導かれるまま、力なく近くの座席に腰かける。傷の具合を確かめたいが、顔をあげる勇気がない。ひどい見た目になっているのではないか。ゴンドラ内には小さな子どももいたはずだ。自分が原因でこわがらせてはいけないと里衣子は考えた。
ともかく止血しなければ……。
自分のバッグがどこにあるのかわからない。ハンカチはその中だった。女性の乗客のひとりが近づいてきて、「これ、使ってください」と持っていたハンドタオルを渡してくれた。遠慮している場合ではないと素直に受けとり、里衣子は小さく礼を云った。痛みをこらえながら額にぐっと押しあてていると、また同じ女性が今度はウェットティッシュをケースごと持ってきてくれた。ずいぶん用意がいい。子ども連れの母親らしいと里衣子は薄目を開けて観察した。しばらくするとその子どもと見える小学生くらいの男の子が泣きだした。自分のせいかと思ったが、こわがっているのは別の理由のようで、それがなんなのかわからなかった。
「あんまり一方に集まらないほうがいいですよ。バランスが悪くなって傾かないとも限らない」
さっきの青年の声がすぐそばで聞こえ、里衣子はびくっと肩を震わせた。思った以上に近くにいる。怪我に動揺して意識していなかったが、青年は体温を感じるほど近くに寄り添うようにして座っていた。
「なにがあったんですか」
弱々しく訊ねる。
「ロープウェーが突然とまったんですよ」
「ああ、それで……」
里衣子は自分が転倒した理由に合点がいった。
たまの休みにお祭りにいこうなどと思い立つとこれだ。日々の仕事の疲れを癒すためにはなやかなものを見て元気を分けてもらい、ついでに神社で厄払いと恋愛運アップをお願いしようとひそかに考えていた。が、それどころではなくなってしまった。ざわざわと乗客たちの間にも動揺が広がっている様子だったが、さきほどの青年の発言で無駄に動きまわる者はいなくなったみたいだった。
「貸してください。ぼくがやりますよ」
「え」
タオルで半分見えていないので、青年がなにを貸せと云ってきたのかよくわからなかった。戸惑っている間に左手からウェットティッシュのケースが奪われ、また手首を摑まれた。血で汚れた手を拭こうとしてくれているのだとわかった途端、びっくりして手を引きかけた。
「すみません、大丈夫です。あの、汚れますから」
「かまいませんよ。それじゃあ、自分で拭くのは無理でしょう?」
青年の云うとおり、傷口を圧迫しているタオルを放すわけにはいかなかった。里衣子はもう一度「すみません……」と消え入りそうな声で呟くと、黙って目を伏せた。おでこがどくんどくんと脈打っている。縫わないとまずいだろうか。自分の経験則から何針かと予測しようとする。ふだんの里衣子なら、患者の傷の具合を見ればだいたい云いあてることができる。そういうときの自分は職務に忠実で冷静な判断のできる看護師だという自信があった。でも今、里衣子は鏡を見ることもできないし、痛みや出血の量から傷の状態を想像することもできない。それどころか全然知らない人に無防備にも手のひらを拭ってもらっている。完全にいつもと逆の立場になっていた。
看護師の仕事のひとつに清拭というものがある。怪我や病気、高齢などを理由に入浴できない患者に対して、蒸しタオルで身体の汚れを拭きとることをいう。皮膚の汚れを落として清潔を保つのがおもな目的ではあるが、それ以外にも血行促進、情緒の安定とメリットは多い。状況は違うけれど、今なら患者の気持ちを深く理解できるような気がした。ままならない身体を他人にあずけるのは申し訳なくもあり、けれどもとても安心できた。自分が長らく求めてきたものはこれだったのではないかと思うほどだった。
「反対の手を」
「はい」
額に押しあてたハンドタオルを持ちかえ、今度は右手を差しだした。この人、気持ち悪くないんだろうか。今さらながら不思議だった。タオルをずらし、こっそり右目で手もとを眺める。固まりはじめた血液は容易には落ちない。それを丁寧に拭きとろうとしているのが手つきからわかった。同業者だろうかという疑問が頭をかすめたが、少し考えてそれはないだろうと却下した。
誤解をおそれずに云うならば、医療従事者がすべての傷病者に対して親身になるというわけではないと里衣子は知っていた。目の前の人物が生命の危機に瀕している状況ならばともかく、それ以外で、プライベートのときに率先して手を差し伸べるとは限らないのだ。医師ではない里衣子たちは直接治療できる立場にはないし、軽々しく病名を見立てたあとで違っていても責任はとれない。また今のように他人の血液に触れる行為は感染のおそれもある。つまり職業柄、無意識のうちにリスクを回避しようとしてしまうのだ。だから躊躇せず素手で拭いている時点で、相手はおそらく医療従事者ではないと推測できる。青年は親切心から、困っている人を見過ごせない性分なのだろうと思われた。
「怪我のほうはどうです? 痛みます?」
青年はそう云って、ふいに視界に入ってきた。三十前半の里衣子よりもいくつか若く見えた。まだ二十代といってもいいくらいだ。
「もう、大丈夫です。ありがとうございます」
答えながら、どくんどくん、とまだ脈打っているのを感じる。おでこの痛みか、出血がとまらないのか、それともこれは傷口とは全然関係ない、別の場所から聞こえてくる音なのか、わからなくて混乱する。こんな宙ぶらりんなゴンドラの中で怪我をしたうえに、自分の状態を把握できないということが心細かった。
「動きませんね」
内心の狼狽を隠すように里衣子は云った。
「焦らず待つしかなさそうですね」
青年は落ち着いた口調だったが、一向に事態が好転しないことに他の乗客からも不満の声がもれはじめる。さっきまでじっとしていた乗客も立ったり座ったり、大きな窓ガラスに張りついて、山の上と下にある駅を交互に見やりつつ、ため息を吐く者もいた。
里衣子たちから少し離れたところで「ない、ない」となにかを探していた高校生くらいの女の子が騒ぎはじめると、さらに不安は増大し、ゴンドラ内が一種異様なムードに包まれた。パニックを起こしたらしい少女にはすぐに年配の老婦人が近づき声をかけているものの、周囲の混乱がおさまる気配はなかった。
これからいったいどうなるんだろう。
「大丈夫ですよ、きっと」
自分のそばを離れず励ますように何度も声をかけてくれる青年は頼もしかった。里衣子はその言葉に頷きながら、この人が云っているんだから間違いない、と思うことにした。大丈夫ですよ。ふだんは自分が患者にかけている言葉だった。なんの根拠もなくても、そんな風に云ってくれる存在がいるだけで人は安心するものだ。今はただ、青年が自分を守るように隣にいてくれるだけで心強かった。なんて頼りになる人だろうと思ったのだ。
そう、あのときは。
夜勤明けの重たい身体をひきずるようにして家路につく。病院のシフトが昨年より三交代から二交代に変化し、勤務時間が単純に延びたのもあるが、ともかく家に帰るまでの道のりがつらい。昨夜は急変した入院患者もいて、ひと晩中ばたばたして仮眠もじゅうぶんとれなかったので余計に疲労が重くのしかかっていた。二十代のころはこれほどではなかった気がする。それをひとまわり年上の四十代半ばの先輩に愚痴ったら、なにを云ってるんだと鼻で笑われた。水原さん、まだ三十を過ぎたくらいでしょう? 若い若い。今からそんな弱音を吐かれちゃ、わたしなんてどうすればいいのよ?
どうすればいいかと逆に問われても、里衣子には答えようがない。その先輩にだって三十代、二十代のころはあったはずで、そのときのしんどさを思いだして共感してもらいたかっただけなのに、過ぎてしまえばそのころのことなどすっかり忘れて、今が一番大変だと云いたいものらしい。
まあ、そんなものか。
思い直し、苦笑する。里衣子だってそのうち先輩と同じ年齢となり、そうすれば気持ちがわかるかもしれない。だけどそのとき先輩は五十代後半で、もうさっき云った言葉なんて忘れてしまっているだろう。いつまで経っても先輩のほうが大変というわけだ。ふたりの年の差が永遠に埋まることはないし、この感覚を分かちあえるのはやはり同年代、それもある程度似たような環境で過ごしてきた古くからの友人くらいしかいないのではないか。
そろそろ環に連絡しようか。
里衣子は学生時代からの友人のすっきりとした相貌を思い浮かべた。環ならばきっと共感とダメ出しと、それからきびしくもあたたかいアドバイスをくれるに違いなかった。
途中コンビニに寄ろうかどうしようかと迷い、そのまま素通りした。一刻もはやく家に帰りたい。そしてベッドにもぐり込み、貪るように眠ってしまいたかった。しかしその願いが叶うかどうかはマンションの鍵を開けるまでわからない。知らず知らずのうちにため息を吐き、里衣子はおでこに右手をやった。半年前のロープウェーでの転倒事故。額の傷はとうに癒えている。出血量のわりに傷は深くなかったので、縫わずにテープ固定ですんだ。傷跡が残らなかったのはラッキーだった。また、一泊入院を含めた治療費はロープウェーの運行会社が全額補償してくれたため、その点でも助かった。
事故後、それら以外にも思わぬ幸運がめぐってきた。でもそれを幸運と呼び続けていいのか、今となってはなんとも云えなかった。
エレベーターで五階にあがり、部屋の鍵を開ける。音を立てないよう、なるべくゆっくりとドアを開けた。廊下の先のリビングからあかりがもれている。部屋のあかりではなく、ぼんやりした青白い光。声も聞こえる。きっとまたテレビをつけっ放しにしてソファで寝ているのだろう。
リビングに入った途端、ソファの背もたれの部分から右手がにょっきり生えてきた。
「リイちゃん、おかえりー」
「宙ぶらりんの箱」は全4回で連日公開予定