そもそも私は、夜眠ることが得意ではなかった。

 

 今日はもう、あとこれだけすればいい。そんな状況になると、不安な感情がとめどなく心に押し寄せてくる。そして、そのまま入眠した日は大抵、深夜に悪夢に揺り起こされる。

 

 それでも、眠るための努力は一通りしたつもりだった。照明を落とし、ベッドに横たわり、目を閉じて深呼吸も繰り返した。けれど、頭の片隅で小さな物音がする気がして、まるで誰かが部屋の隅に立っているかのような錯覚に囚われる。それは不安というより、もっと底の浅い、ただ静かに肌の上を這いまわるような不快感だった。

 

 スマホに手を伸ばしたのは、たぶん一度頭の中の空気を入れ替えたかったからだ。私は特に目的もなくスマホを開き、いつものように無意識のままフリマアプリを立ち上げた。

 

 

 

 

 特に何かを探していたわけではない。ただ、そうするのが習慣になっていた。誰かが手放した生活の断片を見ることで、どうしてか精神的に少しリラックスできる。誰かの使用済みの食器、毛玉のついたニット、名前入りの運動靴……。

 そうやっていくつもの「誰かの生活」をスクロールしていた私の指が、あるページで止まった。

 そこに映っていたのは、黒い三つ折りの財布だった。

 

 

 

 

 ブランド物というわけでもなく、見た目は安価そうな合成皮革。使い古されて端の角がめくれていたし、スナップ部分にも擦れた跡がある。平凡で、よくある財布──のはずだった。

 

 だが、私は商品ページに貼られた一枚の画像に、目を奪われた。

 

 

 

 

 商品説明の画像に写り込んでいた、一枚のカード。保険証らしきそのカードの上に、「高畑朋」という文字が見えた。続く文字は見切れていたが、おそらく「子」なのだろう。私はその名前を、頭の中に思い描いた。

 

 高畑朋子──。

 

 文字が揃った瞬間、何かが凍りつくような音が聴こえた。脊髄の奥に、鋭く氷の針が突き立てられたような感覚──それは幼かった頃の、あの記憶によく似ていた。

 

 濡れた手で冷凍庫の氷に触れた瞬間、乾いた氷が肌に張り付いてくる。その力が存外に強く、私は指先から氷の中に引き込まれてしまうような恐ろしさを感じて、悲鳴をあげた。無理に引き剥がせば、皮膚ごと剥がれてしまいそうだった。そのときの、自分の輪郭があやふやになって、境界を失ってしまうような恐怖──あの感覚が蘇ってきたのだ。

 

 私は、出品者のプロフィールを調べた。

 

 どうやら特殊清掃業者のようで、他の出品物も遺品や廃棄物のようなものが多かった。汚れたぬいぐるみ、写真の一部、古びたキッチンタイマー……。

 

 

 

 

 出品者の評価はよくなかったが、取引の数は多かった。これが倫理的に許される仕事なのかは判らないが、こうした生活の残骸に惹かれる人間は、私が思っている以上に多いのかもしれない。

 私はその財布の出品ページにしばらく指を置いたまま、画面を見つめ続けていた。値段は、6800円。

 

 馬鹿げている──。

 

 内心でそう自嘲しながら、私は購入ボタンを押した。

 

私が高畑朋子という名を最初に知ったのは、四年前の夏だった。

 

 その日、夕方のニュース番組では、ある事件が繰り返し報道されていた。

 

 私が以前に暮らしていた和喜多市の隣の、坂前市。そこにある巨大ショッピングモールの駐車場で、一人の幼い少女が忽然と姿を消したのだ。

 

 少女の名前は、高畑あい。五歳。

 

 

 

 

 テレビの画面には、母親と思しき女性が映し出されていた。やせ細った顔、目の下の隈。髪は乱れ、口元は震えていた。その女性が、涙をこぼしながら、かすれ声で訴えていた。

「ほんの一瞬……、娘から目を離してしまっただけなんです……。どなたか、少しでも情報をお持ちの方がいらっしゃいましたら……」

 

 それが、高畑朋子だった。

 

 私はテレビの前で、まるで釘で壁に打ち付けられたかのように、ぴくりとも動けなくなってしまった。

 そのとき、スマホが震えた。高校時代の友人からのLINEだった。

「ねえ、ニュース見てる?」

「あのお母さん見てたら、二年前のあなたのこと、すごい思い出しちゃって……」

「こわい事件だけど、これをきっかけに、つぐみちゃんの事件もまた注目されるかもしれないね」

 

 

 

 

 その文面を見て、私は小さく息を呑んだ。

 

 

 二日後、荷物は届いた。

 

 コンビニで代金を支払った後、何度もアプリを確認しては、配送状況が「出荷準備中」から「配送中」に変わるのを待った。

 

 

 

 

 届いた荷物は、コンビニの菓子の箱にガムテープをグルグルに巻いただけの、いい加減な梱包だった。送り主の名前は記載されていなかった。匿名配送というやつなのだろう。

 

 私はリビングのテーブルにそれをそっと置き、深呼吸をしてから開封した。

 

 

 

 

 中には、アプリで見たとおりのくたびれた黒い三つ折りの財布。角はすり切れ、スナップボタンの周囲には無数の細かい傷。手に持つと、柔らかい革の弛みに人肌のような温度を感じた。それはまるで、誰かの体温を吸って生きてきた、小さな生き物のように……。

 

 私は、それを恐る恐る開き、中身を一つずつ丁寧に取り出していく。

 

 保険証。名前は「高畑朋子」。住所は、テレビに映っていた当時の報道と一致していた。

 

 

 

 

 精神科病院の診察券。病院名には見覚えがなかった。

 

 

 

 

 子供が描いたのであろう似顔絵。笑顔の母親の顔。

 

 

 

 

 電話番号らしき数字が走り書きされた、メモの切れ端。

 

 

 

 

 手作り風の花のしおり。ローマ字で「Takahata Sensei」と書かれている。

 

 

 

 

 スーパーマーケットのレシート。日付は四年前。購入品は、ありきたりな夕飯の食材。

 

 

 

 

 そして──、どこか物々しさを漂わせる、一枚の黒い名刺。表面に、白字で「伊澤政則」とだけ書かれている。他には、肩書きも何もない。

 

 

 

 

 私はそれらをリビングのテーブルに並べた。まるで、検死台に並べられた遺留品のように。だが、どうしてなのか、不思議な愛しさがこみ上げてくる。これは、彼女の人生の断片だ。

 

 私は、その一つひとつを、指でなぞりながら目を閉じた。

 

 それは財布ではなく、もはや小さな世界だった。

 

 過去と現在とが折り重なり、およそ名前のつけようのない複雑な感情が、私の心の中をゆっくりと満たしていった。

 

「高畑あい行方不明事件」よりもさらに二年前、同じように、一人の少女がこの世から忽然と姿を消した。

 

 その少女の名は、上川つぐみ。当時小学一年生。私の娘だった。