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 広い店内には、中国式の食卓と、背もたれに透かし彫りが入った椅子が並んでいた。この町ではどこでも見かける様式の格子窓から、外光が柔らかく射し込んでいる。天井の灯りが照らす店内に、客はほとんどいなかった。接客のために近づいてきた女性店員に、次郎は中国語で自分の名前を告げ、予約された席への案内を頼んだ。
 店員はにっこりと笑い、「どうぞ、こちらへ」と次郎を上階へ導いた。二階は個室のみだった。店員がうやうやしく扉を開き、次郎は中へ足を踏み入れた。
 十人ほど着席できそうな円卓の向こうに、三つ揃えの背広を着た男がひとり座っていた。上等な服装から、この人物が楊直だとすぐにわかった。彼の背後には、短袍ドアンパオを着てズボンを穿いた男がふたり。護衛の者だろう。ふたりとも若い。
 オールバックで整えた楊直の髪は、うらやましいほどにまっすぐだった。金色の指輪が左手の指で輝いている。頬骨の高い顔立ちに、太い眉とくぼんだ目、やや尖った鼻と薄い唇は、どことなく猛禽類を連想させる。歳は三十ぐらいか。おそらく、自分とたいして違わない。
 譚中方は言った。『わしが話をつけられるのは昔ながらの小さな組だ』と。楊直からは、秘密結社を名乗るに相応ふさわしい謎めいた雰囲気が感じられた。悪くない。最初に接触するには手頃な相手だ。
 食卓には、いましがた運ばれてきたとおぼしき料理が並んでいた。甘辛く煮込んだ豚肉、野菜と魚介類の炒め物、玉子色のスープ、炒飯。酒器も置かれている。眺めるだけで口の中に唾が湧いてきたが、じっとして平静を装った。
 次郎は右手で拳をつくり、それを左手で覆ってから、楊直に向かって軽く挨拶した。この場に招かれたことにお礼を言い、椅子に腰をおろした。店員が、次郎の茶器に茶をたっぷりと注いだ。
 店員が退室すると、楊直は口を開いた。「君は中国語が堪能だと聞かされたが、このまま喋り続けても大丈夫か」
「はい。難しい内容でなければ」
「私は日本語を喋れない。必要があるなら、後ろの者に話しかけてくれ。彼らは多少は日本語を理解できる」
「英語ではどうでしょうか」
「そちらのほうが得意か」
「大差はありません。都合に合わせて、お国の言葉と英語を交ぜて頂ければ」
「了解した。君のことは譚中方から聞かされた。譚中方は君を『ジロー』と呼んでいるようだが、『吾郷さん』よりも、そちらのほうがいいか」
「はい。欧米人にも発音しやすく覚えやすいように、このあたりではジローで通しています」
「では、ジロー。例の話だ。私の組織の長・郭老大グオラオダー(老大とは「組織のボス」を指す呼称。女性に対しても使える単語)は、あれをうちへ持ち込んでくれたことを、とても喜んでおられる。よそではなく、よく、うちを選んでくれたと」
「ありがとうございます。やはり特別な品でしたか」
「在庫はすべて買い取りたい。持ち込んだ者と話をつけてくれ」
「次は明後日に会いますので、そのときに取り引きの日時を決めます。場所は、ここでよろしいでしょうか」
「ああ。決まったら譚中方を通して連絡をくれ。こちらの都合を教えるから、君は店の電話が鳴るのを待つように」
「ありがとうございます。当日は、おれも立ち会っていいでしょうか。売人は女なので、ひとりだと怖いと言い出すかもしれません」
「好きにしたまえ」
「感謝します」
「ところで、取り引き成立後の君への謝礼だが」
「それについては、お気づかいには及びません」
 楊直は眉をひそめた。「我々は、日本人相手であってもタダ働きをいるような集団ではない。厚意は受け取ってほしい」
「はい。それはよく存じあげております。しかし、今回は依頼を仲立ちしただけなので、些少であっても、売り上げから頂くわけには参りません」
「では、何をどういう形で欲するのか」
「今後あなたを、楊大哥ヤンドウーグ(大哥は「兄」または「長男」の意味。ここでは、裏社会で使う「兄貴」のニュアンス)と呼ぶことをお許し頂けるなら、おれにとってはそれが最大の収穫です」
 次郎は「大哥」の部分を、北京ペキン風の「ダーグァ」でなく、上海風に「ドゥーグ」と発音してみせたが、楊直はたいして表情を変えなかった。上海語に対する拘りはないらしい。おそらく楊直は上海出身ではなく、よそからこの町へ来た人間だ。
 楊直は次郎に訊ねた。「君はいくつだ」
「二十七です」と答えると、楊直は目を丸くした。「私と一歳違うだけだ。ずいぶん若く見える。もっと年下だと思っていた」
「人としての苦労が足りないので若く見えるのでしょう。楊先生は貫禄たっぷりでうらやましい限りです」
「お世辞を言わなくてもいい」
「いえ、おれは寒村で生まれ育ったので、ろくに学校にも行っていません。学問というものをまったく知らないのです。楊先生は違うでしょう。話していればわかります。教養が貫禄につながっているのです」
 次郎のお世辞に、楊直は片頬すら動かさなかった。「農村時代は、つらかったか」
「はい。おれは農家が大嫌いで、いつも、故郷など雪に埋もれてしまえばいいと思っていました」
「日本にも、それほど苦しい村があるのか」
「僻地の貧しさはどこでも同じです。生活には面白味などかけらもなく、文化は遅れていました。上海で生まれ育った方々がうらやましい」
「それが真実であっても、あまり悪く言うな」
「え?」
「農民をあざけってはいかん。農民がいなければ国は滅びる。どこの国でも同じだ」楊直は食卓の料理を眺め回し、両腕を広げてみせた。「彼らが働かなければ、このような料理だって食べられない」
 次郎は一瞬言葉に詰まった。農村や農民の悪口は許さん、よく覚えておけ、と言わんばかりの楊直の態度に血の気が引いた。
 上海には、農村部からも大勢の中国人が流れ込んでくる。大陸内部の農耕地が鼠害そがい蝗害こうがいですぐに全滅するので、貧困と飢餓に追い詰められた人々が町で働き口を探すのだ。
 勿論、町に来たからといって、簡単に裕福になれるわけではない。上海で豊かに暮らしている欧米人や日本人は、底辺の貧民に長時間の重労働や汚れ仕事を押しつけている。この町で成功した中国人ですら、貧しい者は自分たちとは無縁だと蔑んだりする。楊直自身も農村出身なのだろうか。それを予想できなかったのは、自分の手抜かりだ。
 次郎は目を伏せ、ぬるくなった茶で喉を湿らせた。「まあ、おれ自身が、そうだったというだけなので。農村暮らしで満足な方もおられるでしょう」
「ジロー」楊直は語気を強め、左手の人差し指を自分に向けて言った。「私を大哥と呼びたいのであれば、今後、農村や農民の悪口を言うのは絶対にやめろ。私がいる場所でも、いない場所でもだ。中国の農村だけでなく、日本の農村の悪口を言うのも許さん。できんのであれば、君には私を大哥と呼ぶ資格はない」
 難詰するような口調に次郎はうろたえ、思わず首を縦に何度も振った。農村を悪く言われただけで、ここまで不機嫌になるとは意外だった。都会で幅を利かせている人間は、地方にはこれっぽっちも価値を見出していないだろうと思っていたが、楊直は違うらしい。
 次郎は早口で訴えた。「失礼致しました。もう二度と言いません。ですから、先生とのお付き合いを許して下さい。おれは、こういうおっちょこちょいだから、上海で生きていくためには、立派な方の導きが必要なのです。この通りです。頼みます」
 楊直は念を押した。「その言葉に嘘はないな」
「ありません」
「嘘だとわかった瞬間、君の居場所はこの町から消える」
「わかりました」
「では許そう。これからは私を楊大哥ヤンダーグアと呼び、なんでも頼るといい」
「ありがとうございます。心から感謝します」
「君が我々に尽くしてくれるなら、我々も君の働きに報いよう。それが我々の掟だ」
 楊直は椅子から立ちあがった。「では、私はこれで失礼する。ここは二時間貸し切ってあるから、君は好きなだけ食べて帰るといい。余った分は、店員に頼めば箱に詰めてもらえる。支払いは済ませておいたから、給仕から何かをねだられても無視しろ」
「今後、おれのほうから連絡をとりたいときにはどうすれば」
「今回と同じく、譚中方をあいだに挟んでくれ」
「承知致しました」
 次郎は椅子から立ちあがり、姿勢を正して、楊直と護衛たちを見送った。
 扉が閉じられてひとりになると、次郎は椅子に倒れ込んだ。今頃になって体がぶるぶると震えてきた。額の汗を手の甲で拭い、しばらく呆然としていた。
 ようやく気持ちが落ち着くと、椅子に座り直し、取り皿を引き寄せて箸を手に取った。冷めた料理を野良犬の如くむさぼり食った。何も手をつけずに帰るほうが、男らしくて格好よく、たぶん礼儀にもかなうのだろうが、そんな虚勢を張れるほど自分の暮らしは楽ではない。食べられるときに食べておくのだ。こんな豪華な昼食、今日以外にいつ摂れるというのか。
 醤油や黒酢を利かせた料理の味は濃く、甘さと辛さの塩梅あんばいもちょうどよかった。満腹するまで次郎は箸を止めず、酒をあおり、菓子を頬張った。

 

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